VOLUME I CHAPTER 01
第一章 畳まれた毛布
肩口を押さえる重みが、リエッタを浅い眠りから作業台の上へ引き戻した。
伏せた頬の下で、紙がかすかに鳴った。顔を上げると、細い銀線を何本も引いた設計図に、髪が一筋貼りついている。窓から差す朝日はまだ低く、工房の床を斜めに切っていた。
肩には、灰色の毛布が掛かっていた。
昨夜、母屋へ取りに戻った覚えはない。眠るつもりもなかった。導晶の向きを一つ試したら休もうと思い、その次は刻印板の溝が気になって、気づけば朝になっていただけだ。
リエッタは毛布の端を持ち上げた。夜の冷えはもう残っていない。その代わり、乾かした薬草に似た匂いが、ごく薄く染みている。母屋の収納箱に入れていたときの匂いだった。
「また見つかったなあ」
誰にともなく言い、椅子の背にもたれる。首の後ろがこわばっている。両腕を上げて伸びをすると、肘が部品皿に触れた。
落ちる、と思った皿は落ちなかった。普段なら作業台の端にあるはずのそれが、指一本ぶん内側へ寄せられている。鑢は目の粗いものから革箱に並び、床へ転がした記憶のある留め具も、浅い木皿に集められていた。
リエッタは一番細い鑢をつまんだ。
柄に付いた金属粉は拭かれていない。アルシアは、どれが途中の作業に要るものかまでは触らず、危ないものだけを片づけたらしい。
工房の扉の向こうから、硬いものを刻む音がした。一定の間隔で四度。止まり、今度は鍋の蓋が鳴る。
母屋でアルシアが朝食を作っている。
毛布を掛けたのも、たぶん彼女だ。命紬で繋がれた相手に倒れられれば、自分の命まで危うくなる。世話を焼くのは義務のうちだと考えれば、胸の奥に引っかかったものへ名前を付けずに済んだ。
リエッタは毛布を畳んだ。長い辺を重ねたつもりが、片側だけ指の幅ほど余った。引っ張って直すと今度は反対側がずれる。三度目で諦め、ずれた角を内側へ折り込んだ。
作業台に残された装置は、手のひらより少し大きい。二つの導晶を銀線で繋ぎ、一方から流した魔力を、もう一方で受けるための試験器だった。昨夜最後に行った試験で焦げた細線が、黒い睫毛のように刻印板から浮いている。
その隣の記録紙には、失敗を示す斜線が六つ並んでいた。
七つ目を書く前に、母屋から声が飛んだ。
「起きたなら来い」
「起きたよ。今、毛布をきれいに畳んでるところ」
短い間があった。
「なら、もう来られるな」
見てもいないのに見抜かれている。
リエッタは笑い、失敗作へ布を掛けた。毛布を抱えて立ち上がったところで、足の裏が一瞬だけ頼りなくなる。作業台へ手をつくほどではない。けれど工房と母屋を繋ぐ三段の石段を下りるとき、いつもより慎重に踵を置いた。
朝の空気は冷たかった。夜露の残る花壇では、青い蕾がいくつか、まだ閉じている。土の表面は均され、細い支柱が一本増えていた。昨日、茎が傾いていた株だ。アルシアは何も言わずに直したらしい。
母屋の扉を開けると、焼いたパンと香草の匂いがした。
アルシアは食卓に二つ目の皿を置くところだった。深い青の髪を低い位置で結び、黒い上着の袖だけを肘まで折っている。こちらを見た銀灰の目が、まずリエッタの顔、それから抱えた毛布へ移った。
「おはよう」
「座れ」
「挨拶より先に命令が来たね」
「おはよう。座れ」
「はい」
リエッタが椅子を引くと、アルシアは向かいへ座らず、そばまで来た。
「手」
差し出した右手を、冷たい指が取る。アルシアの親指が手首の内側へ触れた。脈を数えるより長く、五つ、六つと呼吸が過ぎる。
触れた場所から熱が入るわけではない。けれど胸の奥、壊れた魔炉の周りを流れるものが、その指先へ向かってわずかに輪郭を持った。細い水路を、上流から確かめられているような感覚だった。
アルシアの眉間に浅い線が寄った。
「減っている」
「昨日、少し多めに使ったから」
「少し」
「小型灯ひとつ半くらい」
「二つだ」
「見てたの?」
「回収箱に導晶が二つあった」
目を離した間のことまで、物の位置から拾われる。リエッタは空いている左手で白髪を耳へ掛けた。
「今日は細い線の試験だけにするよ。火花が出るようなものは触らない」
「朝食のあとだ」
「もちろん」
「全部食べたあとだ」
「もちろん、の範囲が狭かったかな」
アルシアは答えず、リエッタの手首から指を離した。そのまま椅子の背へ掛けてあった布を取り、リエッタの頬を一度こする。
ざらりとした感触がして、布に黒い粉が付いた。
「刻印墨」
「顔にも設計図を描いてた?」
「寝ていた」
「そこは知ってる」
布を受け取ろうとしたが、アルシアは先に流しへ持っていった。水差しから細く水を落とし、墨を洗っている。リエッタは毛布を膝へ置いて、その背を見た。
肩口に、銀色の糸くずが一本付いていた。
工房で拾ったものだろう。教えようとして、やめる。代わりにパンをちぎると、アルシアが振り返った。
「スープも」
「食べるよ」
「冷める」
言葉は硬いのに、リエッタの皿だけ、鍋の底からすくった豆が多かった。
食卓は、四人で囲めば少し窮屈になる大きさだった。
今は二人ぶんの皿が向かい合い、湯気の間に空いた場所がある。
窓側には三つ目の椅子が置かれたままだった。長く使われていたため、座面がほかの二脚よりわずかに低く沈んでいる。朝日が背板の傷をなぞっていた。
リエッタはスープへ伸ばしかけた肘を引いた。椅子へぶつかる距離ではない。それでも身体が覚えている。そこに誰かが座り、同じ鍋へ手を伸ばしていた頃の肘の引き方を。
食器棚の端には、青い縁の杯が一つ伏せてあった。
アルバスは熱い茶が苦手で、いつも半分ほど冷ましてから飲んだ。杯の取っ手に小さな欠けができても、指がちょうど収まると言って替えなかった。
五年使われていない杯の周りだけ、棚板の色が濃い。
「おかわりは」
アルシアの声に、リエッタは自分の皿を見た。いつの間にか空になっている。
「もらう」
差し出すと、アルシアはすぐに受け取った。鍋へ向けた横顔はいつもと変わらない。食卓に三つ目の椅子があることも、棚に一つ多い杯があることも、二人はもう説明しなかった。
説明しないまま残しておけるものが、この家にはいくつもあった。
リエッタは膝の毛布を撫でた。端のずれた畳み方が気になり、指先だけで角を探す。
「これ、ありがとう」
アルシアの手が、鍋の上で止まった。
「工房に置いてあったものを使っただけだ」
「掛けてくれたことのほう」
返ってきた皿が、リエッタの前へ置かれる。豆がまた多い。
「風邪をひく」
「うん」
「作業台で寝るな」
「それは努力目標にしてもいい?」
「駄目だ」
リエッタは笑った。アルシアは笑わない。けれど、ずれた毛布を膝から取ると、両端を揃えて畳み直した。折り目を手のひらで押し、三つ目の椅子ではなく、自分の椅子の背へ掛ける。
その手つきがあまりに慣れていて、リエッタは二杯目のスープへ目を落とした。
「今日はギルドへ行くの?」
「これから」
「依頼?」
「確認がある」
「帰りは?」
「日が落ちる前には」
それ以上、アルシアは続けなかった。リエッタも聞かなかった。冒険者の仕事には、依頼人の事情を家へ持ち込めないこともある。聞かずにいるのは、相手の領分を守ることだ。そう思えば、わずかに伏せられた視線を追わずに済む。
食べ終えると、アルシアは皿を重ねた。
リエッタが一枚取ろうとすると、手の甲を指で押し返される。
「休め」
「座って食べたから、もう休んだよ」
「あれは食事だ」
「分類が細かいなあ」
「工房へ戻るなら、昼まで魔力を使うな」
「さっきは細い線ならいいって」
「言ってない」
確かに言っていなかった。リエッタが勝手に宣言しただけだ。
「じゃあ、磨くだけ。魔力は流さない」
アルシアは濡れた皿を布で拭きながら、リエッタを見た。返事を待っている目だった。
「流しません」
「わかった」
ようやく通行を許されたらしい。
リエッタは椅子の背から毛布を取り、両腕で抱えた。今度は角がぴたりと揃っている。工房へ持ち帰る途中で崩さないよう、胸元へ引き寄せた。
三段の石段を上る前に振り返ると、アルシアは空の革鞄を肩へ掛けるところだった。食卓の端には、リエッタの昼食らしい包みが置かれている。
目が合うより早く、扉が風で半分閉じた。
工房へ戻ったリエッタは、磨くだけ、という約束をしばらくのあいだ守った。
焦げた銀線を外し、刻印板の煤を布で落とす。細い溝へ研磨粉を入れ、木片で一方向に擦る。表面が均されるにつれ、昨夜は見えなかった傷が浮かんだ。導晶を留める爪の一つが、ほんのわずか内側へ傾いている。
「これか」
爪が導晶を圧迫し、流れを狭めていた。原因が見つかった瞬間、眠気が一段遠のく。
リエッタは小さな万力へ刻印板を固定した。爪を戻すには熱が要る。熱を加えれば試験ではない、加工だ。加工に魔力を使わなければ約束には触れない。
炭炉へ手を伸ばし、止めた。
アルシアが言いたかったのは、言葉の隙間を探して作業を続けろ、ということではない。
代わりに細い金槌を取り、爪の周りへ印だけ付ける。昼になったら直す場所を忘れないためだ。一打ちごとに澄んだ音が鳴り、工房の梁へ吸われた。
壁際の棚には、同じ形の試験器が五つ並んでいる。
どれも途中まではうまくいった。流れを二手へ分けることはできる。片方を細くすれば、もう片方へ多く回すこともできる。けれど、アルシアからリエッタへ流れ続けているものを止めようとすると、どこかが焼けた。模擬導晶でさえそうなる。生身で試すことはできない。
一方を切れば、もう一方へ反動が返る。
知らない者が図面だけ見れば、不出来な拘束具だと言うかもしれない。けれどその流れがなければ、リエッタの身体はやがて朝を迎えられなくなる。
アルバスの残した研究帳を開く。
革表紙の角は丸く擦れ、綴じ糸が一か所だけ新しい。リエッタが何度も開いた頁には、二人の間を渡る一本の線と、結び目を示す円が描かれていた。線の横にある父の文字は、途中から墨が薄い。
解除には、供給を止める前に代わりの流れを用意すること。
その先は、何度読んでも欠けている。
リエッタは余白へ小さな導晶を置いた。自分で書き足した迂回路は、紙の上ならきれいに繋がる。昨夜、七度目の試験を始めたのも、今度こそ焼き切れずに済む気がしたからだ。
細い鑢の柄にある傷を、親指でなぞった。
紙の上で足りないなら、流れを別の形にすればいい。
リエッタは作業台の下から、浅い箱を引き出した。中に入っているのは魔道具ではない。壊れた置き時計から外したゼンマイ、糸車の小さな滑車、重さの違う銅錘、何本かの丈夫な絹糸。魔力の流れを直接試せないとき、力の向きだけを確かめるための模型だった。
二つの滑車を板へ留める。左を供給側、右を受け取り側に見立て、絹糸を一周させた。左の軸には、回りすぎを防ぐ留め具を差してある。巻いたゼンマイを解放すると、右の滑車も遅れて回り出す。
右側の抵抗を増やすため、銅錘を一つ吊るした。
回転が鈍る。左のゼンマイへ負荷が戻り、軸が低く軋んだ。
もう一つ錘を足す。
絹糸が張り、板の留め具が震える。受け取る側の動きは止まりかけても、供給する側のゼンマイはほどけようとする。逃げ場を失った力が、二つを結ぶ糸へ集まっていた。
リエッタは板へ顔を近づけた。ここまでは昨夜の試験器と同じだ。問題は、受け取る側を切り離した瞬間に起きる。
絹糸の途中へ、小さな刃を当てる。
切る前に、右の滑車を指で押さえた。魔力の模型にすぎない。これを身体の答えだとは思わない。それでも、刃を引く指へ力が入りにくかった。
「模型だよ」
自分に言い聞かせ、糸を切った。
銅錘が板へ落ちた。同時に、負荷を失った左の滑車が勢いよく回った。軸の留め具が金属板へぶつかり、鋭い音とともに半回転ぶん跳ね返る。外れた絹糸がリエッタの手の甲を打った。痛みより先に留め具が飛び、後ろの棚へ当たって床へ転がった。
負荷が消えた瞬間の力を、供給側の留め具だけで受けている。
リエッタは手の甲に残った赤い筋をさすった。模型のゼンマイなら、留め具を強くすれば済む。けれどアルシアの魔脈を、交換できる金具のようには扱えない。
切断前にゼンマイを止めれば、右の滑車は錘を支えられず落ちる。先に右を別の動力へ繋げばいいが、その動力をまだ作れていない。
机上の二つの滑車が、急に遠く見えた。
リエッタは転がった留め具を拾い、変形がないことを確かめた。左の軸だけがわずかに曲がっている。指で回すと、同じ場所で小さく引っかかった。
記録紙に、昨夜の試験を示す七つ目の斜線を加えた。
失敗の理由も書く。切断時、供給側が急加速。留め具へ衝撃。受け取り側の代替動力なし。緩衝だけでは不足。
字にすれば、次に試すべきことが見える。見えるものだけを順番に直すのが、リエッタの仕事だった。
命紬を解ければ、アルシアは常に魔力を削られずに済む。遠くの依頼を断る必要も、リエッタが作業台で眠るたび朝食前に残量を測る必要もない。
玄関から工房までの三段を、誰かの歩調に合わせて上る必要もなくなる。
そこで考えが止まった。
リエッタは研究帳を閉じた。留め金が机へ当たり、乾いた音を立てる。
問題は爪の角度だ。昨夜の失敗はそこにある。怖がって試験を遅らせたわけでも、成功の先を考えたくなかったわけでもない。慎重に、確実な手順を探しているだけだ。
「うん。そこだね」
口に出すと、説明は形を持った。
リエッタは新しい記録紙を引き寄せ、爪の角度を三通り書いた。一本目は狭すぎる。二本目は加工で歪む。三本目なら銀線への負荷を散らせるかもしれない。
四本目を引こうとして、ペン先が止まった。
魔力を使わずにできるのは、そこまでだった。
窓の外では日が高くなっている。花壇の青い蕾が一つ開き、石段の影が短くなっていた。アルシアが革鞄を肩に森道へ消えてから、かなり経っている。
リエッタは食卓にあった包みを工房へ持ち込み、図面の端を押さえる重しにしていたことを思い出した。布を開くと、パンと薄く切ったチーズが入っている。片手で食べ、もう片方で模型の寸法を書き直した。
午後になると、窓を横切る光が金色から赤へ変わった。銀線の傷を数え、試験器の爪を描き直し、模型の留め具を一回り大きくした場合の寸法を計算する。外で門の留め金が鳴ったときも、リエッタはすぐには顔を上げなかった。
やがて、砂利を踏む足音が母屋の前で止まった。
声を掛ければ、たぶんアルシアは茶を淹れてくれる。
そう思った途端、喉の乾きに気づいた。
工房の隅に置いた水差しは空だった。昼までに自分で飲みきったらしい。底を覗いても、夕方の光が丸く映るだけだ。
リエッタは立ち上がった。椅子の背に畳んでおいた毛布は、もう崩れていない。指で角を確かめてから、工房を出た。
母屋の扉は開いていた。
中にアルシアの姿はない。流しには朝の皿が乾いて伏せられ、壁の掛け金には外套が戻っている。革鞄は長椅子の上、土の付いた靴は勝手口の脇にあった。
「アルシア?」
返事はない。
卓上に、朝食のときにはなかった紙が置かれていた。
四つ折りの書面には、リュネ冒険者ギルドの封が押されている。封蝋はすでに割られ、隣にはアルシアの黒い手袋が片方だけ載っていた。風に飛ばされないための重しにしたらしい。
見てよいものか迷ったのは、ほんの一呼吸だった。
書面の一番上に、アルシアの字で小さく「確認」とある。その下には、リエッタでも読めるよう、依頼の概要が大きな文字で記されていた。
エルドラ遺構、深部区画の再調査。
リエッタは椅子を引かず、立ったまま紙を開いた。
エルドラという地名は知っている。西の古い水路跡で、何度か遺物が出た。保存状態が悪く、動くものはほとんど残っていないと聞いていた。危険な区画は封鎖され、調査依頼も長く出ていない。
今回は、深部で新しい空洞が見つかったらしい。
崩落した壁の向こうに、未知の動力反応あり。
持続的な発光。既知の導晶反応と一致せず。
古代の魔力生成遺物である可能性——。
その一文だけ、二度読んだ。
魔力を、生成する。
リエッタは紙の上の二文字を指で押さえた。
魔道具は、何もないところから力を生まない。灯具が光るなら導晶に蓄えた魔力を使う。荷車を押すなら術者の魔力か、坂を下る車輪の動きが要る。入力を隠した道具はあっても、入力そのものがない道具をリエッタは見たことがなかった。
依頼書にある「生成」は、調査者が仕組みを説明できなかったために置いた言葉かもしれない。
その下の記録へ目を移す。
持続的な発光。導晶反応との不一致。停止方法は不明。
報告だけでは、内部に蓄えた魔力を放出しているのか、周囲から魔素を集めているのかも分からない。前者ならいつか尽きる。後者でも、集めた魔素を使える魔力へ変える仕組みが要る。
だが、その変換を装置の中で行えるなら。
あるいは、誰の魔炉も通さず、別の何かを魔力へ変えているなら。
可能性の枝が、作業台へ銀線を広げるときのように次々と伸びた。どれもまだ繋がってはいない。けれど、工房で繰り返してきた試験とは違う方向が、初めて見えた。
依頼文は短すぎて、仕組みまでは断言できない。それでも、誰かが魔力を蓄えた導晶を消費する既存の道具とは違う反応が、遺構の奥に残っている。
そんなものが本当にあるなら、研究帳の欠けた頁を埋められるかもしれない。
胸の奥で、命紬の流れが普段と同じ温度を保っていた。
遺物が工房まで運ばれてくるわけではない。
確かめるなら、エルドラへ行くことになる。西の街道を越え、封鎖された水路へ入り、動いているかもしれない古代の仕組みへ手を触れる。距離が開けば命紬の流れは細くなる。アルシアだけを先へ行かせて、リエッタが安全な家で待つ、という分け方はできない。
机の上でなら、焦げた線を外してやり直せる。遺構では、折れた足場も崩れた天井も、こちらが考え終わるまで待ってはくれない。
それでも、作業台の失敗作を眺め続けているだけでは、七本目の斜線の先へ進めなかった。
リエッタは依頼書の余白へ、まだ載っていないものを見た。持ち出す工具。予備の導晶。アルバスの研究帳。留守にする工房の窓へ掛ける布。母屋の戸締まり。食卓の三つ目の椅子は、帰ってくるまで同じ場所で朝日を受ける。
旅へ出る支度を考えている自分に気づき、指が止まった。
行くと決めたわけではない。遺物が本物だと決まったわけでもない。
紙一枚が、工房と母屋だけで閉じていた朝の外側へ、道を一本伸ばしていた。
アルシアは、この文を読んだ。
読んだうえで依頼書を持ち帰り、リエッタに見える場所へ置いた。
指先が紙の角をつかんだ。
これがあれば、繋がりを解けるかもしれない。アルシアが削られずに済む。危険な依頼を選ぶとき、家に残したリエッタの残量を数えなくてよくなる。
アルシアが、行きたい場所へ一人で行ける。
紙が小さく鳴った。
リエッタは手を緩めた。依頼書の下半分には、同行可能人数、想定日数、危険度が並んでいる。さらに下、紙を光に透かしたところに、封印とは別の模様が沈んでいた。
星が一つ、細い線の輪の中に沈んでいる。
古い支部印か、依頼の分類を示す印だろうか。リエッタは窓へ紙をかざし、線の重なりを目で追った。星から伸びた線が、輪の外周へ触れる直前で途切れている。
ただの透かしではない。何かの回路に似ている。
調べたいという気持ちが、遅れて指先へ届いた。
そのとき、勝手口の向こうで水が石へ落ちる音がした。
アルシアは井戸端で、旅の泥を落としているらしい。
リエッタは依頼書を卓上へ戻した。すぐに呼びに行けばいい。これは何なのか、なぜ持ち帰ったのか、聞けばいい。
紙から手を離す。
白い角に、爪で押した斜めの折り目が残っていた。