VOLUME I CHAPTER 07
第七章 エルドラ遺構
エルドラ遺構がまだ動いていることは、石壁ではなく、流れ出す水の温度が告げた。
五月十三日の朝、リエッタは低い土手を越え、行商人から聞いた三つの目印を一つずつ確かめていった。
北側の分かれ道。崩れた石柱。草に半分埋もれた土手。
最後の目印の向こうで、黒灰色の外壁が森の斜面を横切っている。山肌から切り出した石が隙間なく組まれ、木の根と苔に覆われながらも、壁の上端はまだ水平を保っていた。
前日の雨上がり、二人は日が落ちるまで街道を進み、外壁の見える林で野営した。防水布は乾かして畳み直し、それぞれの旅荷の外側に戻してある。
外壁の下から、細い水音がした。
「あった」
リエッタは斜面を下りた。
石を組んだ排水口は、腰より低い位置で鉄格子に塞がれている。格子の奥は暗く、流れ出た水だけが浅い石溝を伝い、土手の下へ消えていた。
指を入れる前に、工具袋から薄い金属片を出す。先端を水に浸し、数を数えてから引き上げた。雨水より明らかに温かい。
「行商人の話と同じだね。雨の前にも流れていて、今も止まってない」
アルシアは排水口ではなく、その上の石組みを見ていた。濃紺の外套は乾いている。昨日濡れた袖にも水の跡は残っていなかったが、父の杖を持つ右手は、休む前より強く柄を握っていた。
「奥は見えるか」
「曲がってる。ここから先は無理」
リエッタは左手首の流量針を見た。針は台座に刻んだ基準印の近くで震えている。急な落ち込みはない。
「そっちは?」
アルシアも右手首を朝の光に向けた。
「昨日と同じだ」
「魔力の戻りも?」
「遅い。だが、歩ける」
以前なら、「歩ける」だけで終わっていた。
リエッタは頷き、金属片の水気を拭いた。
「中で変わったら言ってね。私も言うから」
「分かっている」
排水口から斜面を回ると、外壁の切れ目に石造りの入口があった。扉は失われ、奥へ下る広い階段だけが残っている。先に入った調査隊の白い印が、入口の右壁に小さく引かれていた。
アルシアが階段の前で足を止める。
「灯り」
リエッタは照明具の覆いを開いた。導晶に流す魔力を絞り、足元と壁の下半分だけを照らす。光を広げすぎれば、奥にいるものにこちらの位置を教える。
「細綱は」
「すぐ出せるよ」
「先は私が見る」
「壁は私が見るね」
アルシアは反対しなかった。
階段を下りるにつれ、外の鳥の声が消えた。代わりに、水が石の向こうを走る音が近づく。空気は冷たいのに、壁に触れると場所によって温度が違った。
階段の終わりには、左右へ伸びる回廊があった。
正面の壁に、星が刻まれている。
一つではない。掌ほどの星形を中心に、細い線が上下左右へ伸び、隣の星に繋がっていた。溝の幅は、昨日見た石片の星形に近い。ただし壁の星はどの角も欠けず、その外側へさらに線を延ばしている。星の間には、角張った古代文字が三つか四つずつ並んでいた。壁の浅い窪みは棺を置く棚にも見え、星は葬送の飾りと言われても不思議ではなかった。
「墓所かな」
リエッタが言うと、アルシアは足元を見た。
「骨はない」
「持ち出されたのかも」
窪みに照明具を近づける。底には人や物を置いた擦れ跡がない。代わりに、奥の石に丸い穴が通っていた。
リエッタは一番近い星を指でなぞった。
上へ向かう線は細い。床へ下りる線は太く、途中に短い横線が二本入っている。隣の星では、その横線が一本しかない。
飾りなら、左右を揃えた方が作りやすい。
「同じ星なのに、線の太さが違う」
「欠けたのではなく?」
「見てみる」
リエッタは柔らかい刷毛で溝の苔を払い、薄紙を当てた。炭を寝かせて擦ると、星と線に加え、肉眼では見落としていた小さな角が浮かぶ。
アルバスの研究頁を地図筒から出した。
古い水路について書かれた頁には、同じ文字はない。だが、分岐を示す線の脇に短い刻みを置く書き方は似ていた。拓本を、頁に切り抜かれた星形に重ねる。外形は近いが、ぴたりとは合わない。
「同じ印?」
「まだ違うところの方が多いよ」
リエッタは紙を重ねたまま、壁に耳を近づけた。
低い水音が、太い線の向こうから聞こえる。線を右へ追う。次の星を越えたところで水音が遠のき、代わりに壁が温かくなった。
「こっちが排水口へ下りる線だとしたら」
記録帳に外壁と回廊を簡単に描き、行商人から聞いた流れの向きを重ねる。北の排水口の方向と、太い線が回廊から下る向きが合った。
「墓所の飾りじゃない。流れを記した図だと思う」
「水の流れか」
「水だけなら、温かい壁の線が別にある理由が分からない。水量か、熱か、別の何か。文字も読めないから、今は流量図かもしれない、ってところ」
言いながら、リエッタは右の回廊に照明を向けた。
壁の星は、右へ行くほど線を増やしている。左は細い線が途中で途切れ、床も乾いていた。
「右が動いてる側」
「行ける側とは限らない」
「うん」
二人は右へ進んだ。
回廊は緩く下り、星の線は壁から床に移った。古代文字のまとまりが分岐ごとに繰り返される。発音も意味も分からないが、同じ石栓のそばには同じ二文字があった。
リエッタは一つずつ記録した。
早く先へ行かなければ、と思うほど、古代文字の角を一つ飛ばしかけた。アルシアは先へ出ず、リエッタの横にいた。けれど、杖が床に触れる間隔は、街道を歩いていたときより長かった。
「次の星まで見たら進むね」
「見終わってからでいい」
「でも」
「間違えた方が時間を失う」
短い言葉だった。リエッタは炭を持ち直した。
次の曲がり角で、アルシアの杖が横に出た。
「止まれ」
リエッタの靴先と問題の石板の間は、半歩もなかった。
床に四角い石板が並んでいる。どれも同じ色に見えたが、一枚だけ縁の砂が沈んでいた。天井からは細かな石粉が落ち、石板の上に白い筋を作っている。
「上が動いている」
アルシアが天井を指した。
太い梁石の間に、指一本分の隙間がある。風はないのに、隙間の砂が震えていた。
リエッタは後ろへ下がり、壁の図に照明を寄せた。
床の星形は、問題の石板の手前で二つに分かれている。太い線は正面の回廊へ続き、細い線は壁際の狭い通路へ折れていた。分岐の上には、これまで石栓のそばで見た二文字がある。その隣に、初めて見る逆向きの刻みが付いていた。
「水を止める印だと思ってたけど、違うかもしれない」
「何が繋がっている」
リエッタは石板に触れず、細い鏡を床すれすれに差し出した。隙間の奥に金属棒が見える。棒は壁の中へ入り、上向きに折れていた。
「踏むと、天井の支えが抜ける」
「凍らせるか」
「隙間に水がある。急に冷やしたら石まで割れるかも」
正面を通らず、壁際の細い線を辿る。問題の石板より手前で、人一人が横向きに通れる隙間が、崩れた壁板の裏に残っていた。装飾に見えた図が、保守用の迂回路まで示している。
ただし、その隙間も、罠の梁石が張り出した脇を通る。通り抜けている最中に落盤すれば、避ける場所がない。
リエッタは細綱の先に、通路に落ちていた両手に収まるほどの石を結んだ。問題の石板を越して、その先の床へ石を投げる。綱を少しずつ引き、石板の向こうの縁で止めた。アルシアが壁の窪みを調べ、二人とも身を収められる深さを確認する。
「引いたら落ちると思う」
「窪みから出るな」
「アルシアもね」
二人が横に並べる広さはなかった。リエッタが奥へ入り、アルシアが入口側に立つ。アルシアは窪みから半身を出しかけ、リエッタに外套の袖を引かれて中へ戻った。
「出ないって言ったでしょう」
「見える位置にいる」
「ここからでも見えるよ」
リエッタは細綱を引いた。
石が問題の石板の上に転がり落ちる。
鈍い音の直後、正面の天井が崩れた。梁石が一枚ずつ外れ、回廊を塞ぐ。石粉が窪みの前を白く覆い、遅れて小石が跳ね込んできた。
音が止まってからも、二人は動かなかった。
アルシアが杖の先で入口の地面を確かめる。
「迂回路は」
「残ってる」
リエッタは壁際の細い線を照らした。落ちた梁石の脇を回り、狭い隙間へ続いている。
「私の足元を見て。右の濃い石は踏まないで」
先に横向きで通る。工具袋が壁に当たり、金具が一度鳴った。曲がり角の先へ出てから、照明具を低く掲げる。
アルシアは何も尋ねず、リエッタが踏んだ石だけを選んだ。落ちた梁石の脇を抜ける間も、父の杖を壁に当てなかった。
迂回路の先で回廊は広がった。
床下を、水が走っていた。
上層水路は、石の格子で人の通路と分けられていた。
格子の下を流れる水は外の排水より速く、ところどころ白い泡を立てている。水面から上がる温気が、照明具の覆いを薄く曇らせた。
リエッタは左手首に引かれる感覚で足を止めた。
流量針が、台座に刻んだ基準印から外れている。
基準印からゆっくり離れ、止まる前に戻った。戻り切ると、今度は反対側へ短く振れる。
「アルシア」
呼ぶ前から、アルシアは自分の右手首を見ていた。
「こっちもだ」
二人はその場に立ったまま、次の動きを待った。
二本は同じ位置にも、同じ向きにも動かない。それでも、それぞれの基準印をもとに見れば、弱まり、戻り、強まる順と間隔は重なった。床下の水は一定に流れている。二人の距離も変わらない。
リエッタは記録帳を開き、二本の針の端が止まった位置を別々に線で残した。もう一度。次も順と間隔は同じだった。
「距離で弱くなってるだけじゃないね」
「針では原因は分からない」
「うん。私たちが止まってても変わる、ってことだけ」
回廊を数歩戻り、床の星形から離れてみる。それでも周期は変わらない。再び進み、床の星形を越えると、それぞれ強まる側へ振れる幅だけが大きくなった。
リエッタはその差に印を付け、すぐ横に疑問符を置いた。
「遺構の流れに引かれてるのかもしれない。地下の星路が近いなら、命紬の流れが反応してる可能性はある」
「可能性だ」
「そう書いたよ」
アルシアの声はいつもより掠れていた。
「休む?」
「次に閉じられる部屋があれば」
リエッタは先の図を見た。次の星から、細い支線が通路の右へ伸びている。制御用の小部屋なら扉があるかもしれない。
水面が持ち上がった。
最初は泡だと思った。黒灰色の塊が格子の下で転がり、濡れた殻から細い脚を広げる。掌に収まるほどの小型魔物だった。同じ影が奥で三つ、四つと水から上がる。
アルシアがリエッタの前へ出た。
冷気が格子を白く曇らせる。水面の薄い膜が凍り、先頭の魔物の脚が止まった。
だが、下から温い水が流れ続けている。氷は端から割れ、後ろの魔物が止まった一体を押し上げた。
「下がれ」
「待って。流れたままだと冷やし切れない」
魔物が格子の隙間に脚を掛けた。殻が石に当たり、硬い音を立てる。
リエッタは工具袋の外側から、蝶番で二つに畳んだ薄い防護板を外した。普段は飛び散る破片や熱い導晶を受けるための板だ。開いて格子に斜めに差し込み、通路側へ上がる隙間を塞ぐ。
一体が板にぶつかった。
腕まで衝撃が来る。板は持ちこたえたが、下端が水に押されてずれた。
防護板だけでは塞ぎ切れない。冷却だけでは温い流れにほどかれる。
壁の流量図では、格子の先で水路が二つに分かれていた。左は太いまま奥へ続き、右は細くなって通路の外へ下っている。
リエッタは板の角度を変えた。
「アルシア、右の細い溝だけ冷やして!」
「お前の手が近い」
「板から離さない。右だけなら届かないよ」
二体目が跳ねた。防護板が押され、リエッタの靴底が濡れた石を滑る。
アルシアの左手がリエッタの背を支えた。
「位置を動かすな」
冷気が板の右側を走った。
広い水面ではなく、板で寄せた細い流れだけが白く固まる。右の支溝に氷の縁ができ、水かさが一時的に上がった。
リエッタは防護板を押し返した。跳び上がった魔物の殻が板を滑り、右の支溝へ落ちる。冷えた水に入った脚が縮まり、動きが鈍った。
「そのまま、もう一度」
「魔力が戻るまで待て」
アルシアは一息置いた。次の冷気は短く、氷の縁だけを厚くする。
リエッタは板で残りの魔物を右の支溝へ寄せた。完全に凍らせる必要はない。動きの鈍った間に、壁際の石栓を工具の柄で押す。
格子の下で古い仕切りが落ちた。
水が右の支溝へ向きを変え、小型魔物をまとめて外側の暗い水路へ押し流す。殻が石を打つ音は遠ざかり、やがて水音に紛れた。
リエッタは防護板を下ろした。
片側の蝶番が曲がっている。けれど板は閉じられた。
「噛まれてない?」
アルシアがリエッタの手袋を見る。
「板の跡だけ。アルシアは?」
「使った分だけだ」
アルシアの右手首の流量針は、周期の揺れが基準側へ戻っても、台座の印まで届かなかった。冷却魔法で送り出した分が重なっている。どこまでが遺構の影響か、今は分けられない。
リエッタはそのまま記録した。
アルシアが水路の先を見た。
「次の分岐も見ろ」
「私が?」
「今さら聞くな」
リエッタは曲がった防護板を工具袋に留め直した。
「じゃあ、閉じられる部屋を探す。見つけたら休むよ」
「ああ」
アルシアは先に歩かなかった。
リエッタが壁の線を確かめ、右の支線を選ぶまで、隣で待っていた。
支線の先には、円形の石扉があった。
扉は半分だけ開き、錆びた軸が床に沈んでいる。アルシアが隙間から照明を入れ、天井、床、左右の影を順に確かめた。
「動くものはいない」
「水は?」
「床下だ」
二人で中へ入った。内側から扉を押すと、錆びた軸が低く鳴った。二人で力を合わせて閉じ、軸の脇に石楔を打って固定する。
リエッタは旅荷を壁際に置き、防水布の一枚を乾いた床に広げる。
「ここなら休めるね」
「先に部屋を確かめる」
「確認が終わったら、今日はここまで」
アルシアは一度だけ部屋の奥を見た。
「分かった」
部屋の中央には低い石台があり、その周囲を細い溝が輪のように囲んでいる。壁一面には、入口で見た星形より大きな図が刻まれていた。古代文字の列。波を重ねたような線と、床から上がる太い柱。その二つが、中央の円へ向かっている。
円から外へ出る線は細く、星の節点を経て部屋の外へ広がっていた。
「制御室だ」
リエッタは照明具を石台に置いた。
最初に目を引いたのは中央の円だった。依頼書にある「魔力生成遺物」が施設の核なら、ここはその位置を示しているように見える。
だが、線の向きが想像と逆だった。
「深部の核が水を動かしてるんじゃない」
アルシアが壁の前に立つ。
「何が違う」
「ここの刻み」
波形の線に沿う矢印状の刻みは、中央へ向かうたび深くなる。床から上がる柱にも同じ向きの刻みがあり、円を越えた後は星の線に沿って外向きになっていた。
リエッタは入口で取った拓本と重ねる。回廊で石栓のそばにあった二文字が、ここでは波形と柱の両方に付いている。意味は読めない。けれど、同じ文字が同じ働きの場所に置かれている。
「水と、下から来る熱が中央へ入る。そこから別の流れになって、星の線へ出ていく」
「別の流れが魔力とは限らない」
「通信灯が同じ列で一つだけ消えた。星の線が灯りへ繋がってるなら、出ていくものは少なくとも術式を動かせる」
リエッタは古代文字の列を写した。読める文字は一つもない。図の中央に描かれた円が、実物と同じ構造かも分からない。
記録帳の上で、「生成」と書きかけた語を消す。
代わりに「変換」と置き、その横に疑問符を付けた。
「依頼書の遺物は、何もないところから魔力を作るんじゃなくて、地熱と水流を変える核かもしれない」
「推定だな」
「うん。深部で実物を見るまでは」
石台の側面には、短い操作桿があった。先端は折れていないが、根元を白い鉱物が固めている。壁の図では、操作桿から伸びる線は上層の細い水路にだけ繋がり、中央の円には届いていなかった。
「試験用の迂回路かな」
リエッタは鉱物を針で削った。
アルシアが手元ではなく、床の輪を見ている。
「動かすなら、私はどこに立つ」
リエッタは顔を上げた。
床の溝は入口側で切れ、星形のない四角い石だけが残っている。流れが戻っても、そこなら線の上ではない。
「扉の横。四角い石の上。杖は床に付けないで」
「お前は」
「床の輪の内側。操作桿を離したら、入口側の切れ目を通って下がる」
アルシアは指定した石に移った。理由を聞き直さず、父の杖を床から上げる。
リエッタは操作桿の根元に工具を差し込んだ。
押しても動かない。鉱物をもう一層削り、根元の軸に沿って力を掛ける。金属の奥から、長く使われていなかった噛み合わせの音が返った。
「動かすよ」
「ああ」
操作桿が指一本分だけ沈んだ。
床下で石栓が外れる。
停止していた水路のどこかで、水が石堰を越えた。
リエッタの左手首で、流量針が強く振れた。
足元で、淡金の線が一度だけ脈打った。