笑わない魔女と、笑顔絶えぬ魔道具師
第一巻10 / 24

VOLUME I CHAPTER 10

第十章 罠の光

部屋を巡る水音が、一段低くなった。

リエッタの掌で、転律珠はまだ回っている。淡金色の光が指の間から漏れ、二つの星が別々の速さで明滅していた。

空になった石台の縁には、調査依頼書と記録板、地図筒が置いてある。珠を外す前、両手を空けるために寄せたものだった。どれも水路から離れた乾いた側にあり、依頼書の星形透かしだけが淡く浮かんでいる。

二人とも旅荷は背負ったままだった。リエッタの腰には工具袋があり、アルシアは右手に父の杖を持っている。

背後では、右肩を失った守護者が床に伏していた。壊れた小型防護具も、熱を失ったままそのそばにある。

「戻る」

アルシアの声のあと、石台の下で何かが噛み合った。

珠を支えていた輪ではない。

足元だった。

床へ退いたはずの線が、青白く走る。二つ星の片方だけが光り、消え、もう片方が遅れて点いた。一定だった水の脈と合っていない。

「アルシア、下がって!」

リエッタは転律珠を胸へ抱え込んだ。左の前腕と身体で珠を挟み、空けた右手をアルシアの右胸へ当てる。

考える前に、押した。

アルシアの杖が床を擦った。額の冷却具がずれ、左肩を庇った身体が星形の線の外へよろめく。

青白い光が、下からリエッタを塞いだ。

最初に見えなくなったのは、アルシアの顔だった。

次に石台が消えた。

足場が抜ける感覚はなかった。ただ、身体の内側を水流で裏返されたような冷たさが走り、転律珠を抱いた腕へ急に重さが戻った。

リエッタは片膝をついた。

光が消える。

周囲は、細長い石の窪みだった。

背後に壁があり、正面には人が一人通れる幅の開口部がある。床は中央から開口部へ向かって緩く下がり、溜まった水を逃がす細い溝が切られていた。右壁には腰の高さで手摺が続き、その端だけが滑らかに擦れている。

リエッタは転律珠を抱いたまま、振り返った。

壁の中央に、重なった二つ星が刻まれている。片方の溝には、消え残った青白い光があった。

「アルシア!」

返事はない。

壁に触れても、石は動かなかった。珠を近づける。二つ星は一度だけ明滅し、それ以上は変わらない。見覚えのない古代文字が星の外周を巡っている。読めないものへ、意味を押しつけることはできなかった。

それでも、この場所の形は読めた。

水を逃がす床。倒れた者が掴める手摺。光の来た壁から離れる向きに開いた出口。人を閉じ込めるためなら、どれも要らない。

遺跡の深部で事故が起きたとき、作業者を危険な部屋から逃がすための受け口だ。

ただし、送り先の通路は奥で崩れ、戻すはずの二つ星は片方しか光らない。

助けるための装置が、壊れたまま一人だけを運んだ。

リエッタは息を吐いた。

アルシアを線の外へ出せた。その事実に、ほんの一瞬だけ胸が緩んだ。

自分がこちらに来たなら、あの光にアルシアを呑ませずに済んだ。

左手首で、流量針が震えた。

針は目盛りの下端近くまで落ちていた。

胸の緩みが消える。

命紬は、片方だけを安全に死なせてはくれない。ここでリエッタの命が尽きれば、反動は糸の先へ走り、アルシアの生命も奪う。

守ったのではない。

危険の場所を分けただけだ。

「馬鹿だな、私」

声にしても、笑えなかった。

リエッタは工具袋から補修布を出した。転律珠を包み、肩帯と胸の間に固定する。珠は布越しにも回っていたが、淡金色の光は弱くなる。感知板を布の隙間へ差し入れると、刻みは一つだけ光った。珠には魔力が残っている。だが、人体用の導晶へ渡す接続口も、出力を整える回路もない。ここで即席に繋げることはできなかった。

両手が空くと、もう一度針を見た。

完全に止まってはいない。けれど、避難室で休んだときより供給は細い。歩いたときの下がり方と、何もせずにいたときの戻り方は、分離試験でも記録してきた。今の流れは、安静にして身体が使う分にも届いていない。

待てば減り方は遅くなる。

待ち続ければ、尽きる。

リエッタは受け口の外へ出た。

通路の片側を、古い水路が走っている。水は足元から右奥へ流れ、低いところへ消えていた。左は上り坂だ。壁の手摺も左へ続き、一定の間隔で工具を掛ける窪みがある。

地図は石台に置いてきた。

代わりに、床の傾きと水がある。

下へ逃げる水に逆らえば、上層へ近づく。

リエッタは右奥を一度確かめた。数歩先で天井が落ち、通路を塞いでいる。崩れた石の下から水だけが抜けていた。受け口が片道になったのは、これが原因かもしれない。

左へ向き直る。

「動くよ」

アルシアには届かない。命紬は言葉も場所も運ばない。

それでも、黙って出発する気にはなれなかった。

上りの通路は、すぐ鉄格子で塞がれていた。

格子の横にある開閉輪は、赤錆で石枠へ固着している。魔力を流せば動かせる構造かもしれない。リエッタは感知板を出しかけ、戻した。

今の供給で魔道具を試す余裕はない。

工具袋から薄い楔と小槌を取り出す。開閉輪の軸へ溜まった砂を掻き出し、楔を差し込んだ。一度に力を掛けると金属が割れる。小さく叩き、角度を変え、また叩く。

額から汗が落ちた。

何度目かで、軸の奥から黒い水が滲んだ。

開閉輪が指一本分だけ動く。

リエッタは小槌を置き、両手で輪を押した。格子が石を削りながら持ち上がる。腰より少し高くなったところで楔を噛ませ、腹這いになって下を抜けた。

胸元の珠が石へ当たらないよう、左腕で支える。

向こう側へ出た瞬間、格子が楔を弾いた。

鉄が落ち、通路を震わせる。

リエッタは振り返った。戻るには、もう一度同じ作業が要る。

記録板も書くものも、石台の上だ。

代わりに、格子脇の石粉を指へ付け、壁へ上向きの矢印を引いた。帰路のためではない。アルシアが同じ場所へ来る保証もない。

ここを通った者がいると残すためだった。

歩く。

十数歩ごとに流量針を見る。針は下がり、立ち止まっても元の位置へ戻らない。胸の珠は変わらず回る。その規則正しい振動と、自分の脈だけが時間を刻んだ。

通路は二度曲がり、途中で天井が低くなった。

古い補修材が壁から剥がれ、岩の隙間を塞いでいる。水はその下へ潜り、上り側から流れてきた。人が通れる隙間は、石と石の間に肩幅ほどしかない。

リエッタは旅荷を下ろした。先に旅荷と工具袋を隙間の向こうへ押し込み、転律珠の包みを胸から外す。珠を両手で向こう側へ置いてから、自分の身体を横向きに滑らせた。

背中が石へ擦れる。息を吐ききらなければ、胸が挟まった。

魔力で石を動かす考えが浮かぶ。

流量針を思い出し、捨てる。

右肘を先へ出し、靴先で床を押す。肩が抜け、腰が続いた。向こう側へ転がり込んだときには、両腕が細かく震えていた。

リエッタはすぐには立たなかった。

水を飲み、ひとかけらだけ携帯食を噛む。呼吸が戻るまで壁へ背を預ける。休めば歩く力は戻る。流量針だけは戻らない。

アルシアから届く命紬の流れも、今ごろ細くなっているはずだった。

それ以上は分からない。熱が上がったか、左肩がどれほど痛むか、どちらへ動いたか。命紬から答えを作れば、願いを事実と取り違える。

リエッタは立ち上がった。

上り坂を選ぶ。

水路が二つに分かれた場所では、壁の擦れ跡が高いほうへ続く道を取った。崩落で途切れた階段では、露出した配管を手掛かりに身体を引き上げた。胸の珠は再び補修布で固定し、必要なときだけ外した。

歩行と休息を繰り返した。

地上なら日が沈み、夜が更けている頃にも、石の中の明るさは変わらなかった。食事をもう一度取り、身体を丸めて短く眠った。目を開けても、アルシアの声はない。

流量針は、下端からほとんど離れなくなっていた。

地上では五月十六日の朝を迎えているはずだった。

最後の長い坂を上ると、水路が石壁の中へ消えた。先には左右の分岐がある。どちらもわずかに上がっている。手摺の擦れ跡は古すぎて、片方を選べなかった。

リエッタは膝へ手をついた。

立っているだけで、脚の奥から力が抜けていく。

急げば消費が増える。止まれば、残りが静かに減る。

顔を上げる。

右の壁に耳を寄せた。

石の奥で、水が三度、短く石を打った。

間を置いて、もう一度鳴った。

リエッタを呑んだ光が消えたあと、アルシアは石台から二歩離れた場所に立っていた。

右手の杖が床を支えている。押された右胸には、まだリエッタの掌の感触があった。庇うのが遅れた左肩は、よろめいた反動だけで鋭く痛んだ。

石台の前には誰もいない。

「リエッタ」

呼んでも、部屋を回る水が低く鳴るだけだった。

アルシアは星形の線へ戻った。杖先で縁を確かめ、空の台座に触れる。青白い光は消え、二つの星の溝にも熱はない。

珠とリエッタだけが、なくなっている。

床へ魔力を流しかけて、止めた。

仕組みの分からない装置へ力を足せば、同じ場所へ行けるとは限らない。別の送り先を開くかもしれず、遺跡全体をさらに壊す可能性もある。

アルシアは右手首の流量針を見た。

針は、転移前より低い位置で細かく震えていた。

命紬は切れていない。

それ以上のことは示さない。リエッタの居場所も、傷の有無も、呼びかけへの返事も、この針からは分からない。

額から冷却具がずり落ちた。アルシアは杖を石台へ立て掛け、右手で留め具を直した。中の水はまだ青い。熱は下がっていない。左肩と肘も、杖を突くたびに痛む。

戻って救援を呼ぶ。

その考えを、先に置いた。

ここから上層へ戻るには、昨日通った交点をすべて越えなければならない。地上へ出た先で人を集め、事情を説明し、もう一度ここまで降りる。すぐに協力者が見つかったとしても、同じ道を往復する時間が要る。

右手首の針は、考えている間にもわずかに下がった。

細い供給のまま、リエッタがどれだけ動けるか。

正確な時間は出せない。だが、救援の往復より短い可能性を無視して、長いほうを選ぶことはできなかった。

「押したから安全になると思ったのか」

答えはない。

アルシアは石台の乾いた縁を見た。

調査依頼書と記録板、地図筒が残っている。

地図を広げた。

現在地の核室から、細い水路が下層の保守区画へ伸びていた。途中は古い崩落記号で途切れている。正規の階段は描かれていないが、水路の先には半円の小室が複数あり、それぞれが太い作業路へ接続していた。

アルシアは床の二つ星と地図を見比べた。

光は、珠を外したあとに起きた。守護者がいた核室から人を退避させるなら、送り先は戦闘や事故の影響を受けにくい場所になる。地上では遠すぎる。近くの避難室なら、通常の通路で行ける。

残るのは、石で隔てられた下層の保守区画だった。

確証ではない。

だから、戻れる道を残して探す。

アルシアは依頼書を畳み、記録板と一緒に旅荷へ入れた。地図はすぐ開けるよう筒へ半分だけ戻す。荷の底から補修布を取り出し、細長く裂いた。

一つ結びは進んだ道。

二つ結びは戻る側。

分岐ごとに壁の金具へ残し、記録板にも曲がった方向を書く。途中で引き返すことになっても、救援を連れて同じ場所へ来られる。

石台に立て掛けた父の杖を、右手へ取り直した。

核室の正面奥にある細い通路へ入った。

走らなかった。

走れば左肩が揺れ、熱で足元が崩れる。倒れれば、リエッタへ届く者がいなくなる。杖を右へ突き、呼吸が乱れない速さで歩いた。

通路の水は、核室から奥へ流れている。

地図では、その流れが下層の保守区画へ落ちる。アルシアは水音を追い、最初の分岐で左の金具へ一つ結びを残した。振り返り、核室へ戻る側へ二つ結びを付ける。

右手首の針を見ても、方向は分からない。

針の位置が少し下がるたびに足を速めたくなる。

地図へ目を戻し、抑えた。

水路は石段の脇を下り、崩れた壁の下へ潜った。人の通路はそこで二つに分かれている。一方は地図の線と合う。もう一方からは、強い水音がした。

音だけを選べば近道に思える。

アルシアは膝をつき、杖先を水へ入れた。流れは強い側から来て、地図にある側へ抜けている。強い音は上流だった。

送り先が下層なら、進むのは下流だ。

地図にある側へ一つ結びを残す。

熱が上がるたび、壁へ背を預けて休んだ。冷却具の水を替え、飲み水を減らしすぎないよう口を湿らせる。左肘は曲げたままにし、荷の紐が肩へ掛からない位置へ直した。

休む間も、救援へ戻る道を考えた。

次の崩落が越えられないなら戻る。流量針がさらに下がり、直接の経路が見つからないなら、印と記録を持って地上へ向かう。探すことを、帰れない賭けにはしない。

それでも今は、先へ進むほうが早い。

石段を下りきると、空気が冷たくなった。

右手首の針が、もう一段低くなる。

アルシアは足を止めた。

距離が開いたからとは限らない。厚い石壁に囲まれた場所へ入るたび、針の振れが不安定になる。命紬そのものが細くなったのではなく、供給の通り道が石に遮られている可能性があった。

それなら、針の低さをリエッタの容体と取り違えてはならない。

同時に、供給が届きにくい場所にリエッタがいるなら、残り時間は長くない。

アルシアは地図を巻き直した。

歩く。

一つ結びを残す。

二つ結びで帰路を示す。

水路の勾配を確かめ、地図の途切れた線は壁の配管と床の擦れ跡で補う。読めない古代文字は写し取るだけにし、意味を決めつけなかった。

地上なら日が沈む頃、アルシアは半円の小室へ着いた。

壁には重なった二つ星がある。片方の溝だけが黒く焼け、床の排水溝は外の作業路へ向かって下っていた。手摺は入口から離れる方向へ伸びている。

罠の部屋には見えなかった。

事故の際に、人を安全な通路へ出す形だった。

「ここに来たのか」

床に指を触れる。

薄い埃の中に、膝をついた跡があった。その脇から、靴跡が左へ続いている。

靴跡はアルシアのものより少し小さく、光の消えた星の前から始まっていた。

アルシアは目を閉じた。

安堵は、短く息を吐く分だけにした。

生きてここへ着いたことしか、跡は教えない。

靴跡は上り側へ向かっている。水の下流ではなく、流れに逆らっていた。リエッタも上層を目指したのだ。

アルシアは小室の入口へ補修布を結び、記録板へ受け口の位置を書いた。

そこからは、水を遡った。

格子の前で、石粉の矢印を見つけた。鉄は落ちたままだったが、開閉輪の軸には新しい擦り傷がある。アルシアは無理に持ち上げず、地図に描かれた迂回用の排水路を探した。狭い横穴を抜け、格子の向こうで靴跡へ戻る。そこで印を残し、短く休んでから、また進んだ。

地上の夜に当たる時間を、アルシアは崩れた階段の踊り場で過ごした。眠りは浅く、左肩の痛みと右手首の針を確かめるたびに目が覚めた。

それでも、闇の中を急いでは歩かなかった。

携帯食を取り、冷却具の水を替え、地図と記録を照合した。救援へ戻るなら、小室から核室までの印を辿れる。前へ進むなら、リエッタの靴跡と上流の水がある。

五月十六日の朝に当たる頃、アルシアは旅荷を背負い直した。

熱は残っている。左腕も上がらない。

右手で父の杖を持つことはできる。

靴跡は、崩落の多い上り坂で途切れていた。

アルシアは立ち止まり、地図を開いた。先の通路は左右へ分かれ、どちらも地図に描かれた経路から外れている。右には古い配管があり、左の床には水に削られた浅い溝があった。

目で追える跡はない。

水が、石壁の向こうを流れている。

アルシアは息を止めた。

古い水が三度、短く石を打った。

間を置いて、もう一度鳴った。

第10章 了

TABLE OF CONTENTS

公開目次

  1. 01畳まれた毛布
  2. 02持ち帰られた依頼書
  3. 03旅支度の距離
  4. 04同じ道、違う願い
  5. 05一人部屋が二つ
  6. 06白い花の髪飾り
  7. 07エルドラ遺構
  8. 08熱のある手
  9. 09守護者の部屋
  10. 10罠の光
  11. 11命の距離
  12. 12帰る場所
  13. 13父の声を宿す球
  14. 14追跡者の印
  15. 15書庫都市オルフェン
  16. 16もう一人の紫
  17. 17名もない王女
  18. 18祝祭の夜
  19. 19姉という他人
  20. 20父が隠したもの
  21. 21王家の回収命令
  22. 22離れるための嘘
  23. 23選ぶ側
  24. 24白い王女の帰路
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