VOLUME I CHAPTER 10
第十章 罠の光
部屋を巡る水音が、一段低くなった。
リエッタの掌で、転律珠はまだ回っている。淡金色の光が指の間から漏れ、二つの星が別々の速さで明滅していた。
空になった石台の縁には、調査依頼書と記録板、地図筒が置いてある。珠を外す前、両手を空けるために寄せたものだった。どれも水路から離れた乾いた側にあり、依頼書の星形透かしだけが淡く浮かんでいる。
二人とも旅荷は背負ったままだった。リエッタの腰には工具袋があり、アルシアは右手に父の杖を持っている。
背後では、右肩を失った守護者が床に伏していた。壊れた小型防護具も、熱を失ったままそのそばにある。
「戻る」
アルシアの声のあと、石台の下で何かが噛み合った。
珠を支えていた輪ではない。
足元だった。
床へ退いたはずの線が、青白く走る。二つ星の片方だけが光り、消え、もう片方が遅れて点いた。一定だった水の脈と合っていない。
「アルシア、下がって!」
リエッタは転律珠を胸へ抱え込んだ。左の前腕と身体で珠を挟み、空けた右手をアルシアの右胸へ当てる。
考える前に、押した。
アルシアの杖が床を擦った。額の冷却具がずれ、左肩を庇った身体が星形の線の外へよろめく。
青白い光が、下からリエッタを塞いだ。
最初に見えなくなったのは、アルシアの顔だった。
次に石台が消えた。
足場が抜ける感覚はなかった。ただ、身体の内側を水流で裏返されたような冷たさが走り、転律珠を抱いた腕へ急に重さが戻った。
リエッタは片膝をついた。
光が消える。
周囲は、細長い石の窪みだった。
背後に壁があり、正面には人が一人通れる幅の開口部がある。床は中央から開口部へ向かって緩く下がり、溜まった水を逃がす細い溝が切られていた。右壁には腰の高さで手摺が続き、その端だけが滑らかに擦れている。
リエッタは転律珠を抱いたまま、振り返った。
壁の中央に、重なった二つ星が刻まれている。片方の溝には、消え残った青白い光があった。
「アルシア!」
返事はない。
壁に触れても、石は動かなかった。珠を近づける。二つ星は一度だけ明滅し、それ以上は変わらない。見覚えのない古代文字が星の外周を巡っている。読めないものへ、意味を押しつけることはできなかった。
それでも、この場所の形は読めた。
水を逃がす床。倒れた者が掴める手摺。光の来た壁から離れる向きに開いた出口。人を閉じ込めるためなら、どれも要らない。
遺跡の深部で事故が起きたとき、作業者を危険な部屋から逃がすための受け口だ。
ただし、送り先の通路は奥で崩れ、戻すはずの二つ星は片方しか光らない。
助けるための装置が、壊れたまま一人だけを運んだ。
リエッタは息を吐いた。
アルシアを線の外へ出せた。その事実に、ほんの一瞬だけ胸が緩んだ。
自分がこちらに来たなら、あの光にアルシアを呑ませずに済んだ。
左手首で、流量針が震えた。
針は目盛りの下端近くまで落ちていた。
胸の緩みが消える。
命紬は、片方だけを安全に死なせてはくれない。ここでリエッタの命が尽きれば、反動は糸の先へ走り、アルシアの生命も奪う。
守ったのではない。
危険の場所を分けただけだ。
「馬鹿だな、私」
声にしても、笑えなかった。
リエッタは工具袋から補修布を出した。転律珠を包み、肩帯と胸の間に固定する。珠は布越しにも回っていたが、淡金色の光は弱くなる。感知板を布の隙間へ差し入れると、刻みは一つだけ光った。珠には魔力が残っている。だが、人体用の導晶へ渡す接続口も、出力を整える回路もない。ここで即席に繋げることはできなかった。
両手が空くと、もう一度針を見た。
完全に止まってはいない。けれど、避難室で休んだときより供給は細い。歩いたときの下がり方と、何もせずにいたときの戻り方は、分離試験でも記録してきた。今の流れは、安静にして身体が使う分にも届いていない。
待てば減り方は遅くなる。
待ち続ければ、尽きる。
リエッタは受け口の外へ出た。
通路の片側を、古い水路が走っている。水は足元から右奥へ流れ、低いところへ消えていた。左は上り坂だ。壁の手摺も左へ続き、一定の間隔で工具を掛ける窪みがある。
地図は石台に置いてきた。
代わりに、床の傾きと水がある。
下へ逃げる水に逆らえば、上層へ近づく。
リエッタは右奥を一度確かめた。数歩先で天井が落ち、通路を塞いでいる。崩れた石の下から水だけが抜けていた。受け口が片道になったのは、これが原因かもしれない。
左へ向き直る。
「動くよ」
アルシアには届かない。命紬は言葉も場所も運ばない。
それでも、黙って出発する気にはなれなかった。
上りの通路は、すぐ鉄格子で塞がれていた。
格子の横にある開閉輪は、赤錆で石枠へ固着している。魔力を流せば動かせる構造かもしれない。リエッタは感知板を出しかけ、戻した。
今の供給で魔道具を試す余裕はない。
工具袋から薄い楔と小槌を取り出す。開閉輪の軸へ溜まった砂を掻き出し、楔を差し込んだ。一度に力を掛けると金属が割れる。小さく叩き、角度を変え、また叩く。
額から汗が落ちた。
何度目かで、軸の奥から黒い水が滲んだ。
開閉輪が指一本分だけ動く。
リエッタは小槌を置き、両手で輪を押した。格子が石を削りながら持ち上がる。腰より少し高くなったところで楔を噛ませ、腹這いになって下を抜けた。
胸元の珠が石へ当たらないよう、左腕で支える。
向こう側へ出た瞬間、格子が楔を弾いた。
鉄が落ち、通路を震わせる。
リエッタは振り返った。戻るには、もう一度同じ作業が要る。
記録板も書くものも、石台の上だ。
代わりに、格子脇の石粉を指へ付け、壁へ上向きの矢印を引いた。帰路のためではない。アルシアが同じ場所へ来る保証もない。
ここを通った者がいると残すためだった。
歩く。
十数歩ごとに流量針を見る。針は下がり、立ち止まっても元の位置へ戻らない。胸の珠は変わらず回る。その規則正しい振動と、自分の脈だけが時間を刻んだ。
通路は二度曲がり、途中で天井が低くなった。
古い補修材が壁から剥がれ、岩の隙間を塞いでいる。水はその下へ潜り、上り側から流れてきた。人が通れる隙間は、石と石の間に肩幅ほどしかない。
リエッタは旅荷を下ろした。先に旅荷と工具袋を隙間の向こうへ押し込み、転律珠の包みを胸から外す。珠を両手で向こう側へ置いてから、自分の身体を横向きに滑らせた。
背中が石へ擦れる。息を吐ききらなければ、胸が挟まった。
魔力で石を動かす考えが浮かぶ。
流量針を思い出し、捨てる。
右肘を先へ出し、靴先で床を押す。肩が抜け、腰が続いた。向こう側へ転がり込んだときには、両腕が細かく震えていた。
リエッタはすぐには立たなかった。
水を飲み、ひとかけらだけ携帯食を噛む。呼吸が戻るまで壁へ背を預ける。休めば歩く力は戻る。流量針だけは戻らない。
アルシアから届く命紬の流れも、今ごろ細くなっているはずだった。
それ以上は分からない。熱が上がったか、左肩がどれほど痛むか、どちらへ動いたか。命紬から答えを作れば、願いを事実と取り違える。
リエッタは立ち上がった。
上り坂を選ぶ。
水路が二つに分かれた場所では、壁の擦れ跡が高いほうへ続く道を取った。崩落で途切れた階段では、露出した配管を手掛かりに身体を引き上げた。胸の珠は再び補修布で固定し、必要なときだけ外した。
歩行と休息を繰り返した。
地上なら日が沈み、夜が更けている頃にも、石の中の明るさは変わらなかった。食事をもう一度取り、身体を丸めて短く眠った。目を開けても、アルシアの声はない。
流量針は、下端からほとんど離れなくなっていた。
地上では五月十六日の朝を迎えているはずだった。
最後の長い坂を上ると、水路が石壁の中へ消えた。先には左右の分岐がある。どちらもわずかに上がっている。手摺の擦れ跡は古すぎて、片方を選べなかった。
リエッタは膝へ手をついた。
立っているだけで、脚の奥から力が抜けていく。
急げば消費が増える。止まれば、残りが静かに減る。
顔を上げる。
右の壁に耳を寄せた。
石の奥で、水が三度、短く石を打った。
間を置いて、もう一度鳴った。
リエッタを呑んだ光が消えたあと、アルシアは石台から二歩離れた場所に立っていた。
右手の杖が床を支えている。押された右胸には、まだリエッタの掌の感触があった。庇うのが遅れた左肩は、よろめいた反動だけで鋭く痛んだ。
石台の前には誰もいない。
「リエッタ」
呼んでも、部屋を回る水が低く鳴るだけだった。
アルシアは星形の線へ戻った。杖先で縁を確かめ、空の台座に触れる。青白い光は消え、二つの星の溝にも熱はない。
珠とリエッタだけが、なくなっている。
床へ魔力を流しかけて、止めた。
仕組みの分からない装置へ力を足せば、同じ場所へ行けるとは限らない。別の送り先を開くかもしれず、遺跡全体をさらに壊す可能性もある。
アルシアは右手首の流量針を見た。
針は、転移前より低い位置で細かく震えていた。
命紬は切れていない。
それ以上のことは示さない。リエッタの居場所も、傷の有無も、呼びかけへの返事も、この針からは分からない。
額から冷却具がずり落ちた。アルシアは杖を石台へ立て掛け、右手で留め具を直した。中の水はまだ青い。熱は下がっていない。左肩と肘も、杖を突くたびに痛む。
戻って救援を呼ぶ。
その考えを、先に置いた。
ここから上層へ戻るには、昨日通った交点をすべて越えなければならない。地上へ出た先で人を集め、事情を説明し、もう一度ここまで降りる。すぐに協力者が見つかったとしても、同じ道を往復する時間が要る。
右手首の針は、考えている間にもわずかに下がった。
細い供給のまま、リエッタがどれだけ動けるか。
正確な時間は出せない。だが、救援の往復より短い可能性を無視して、長いほうを選ぶことはできなかった。
「押したから安全になると思ったのか」
答えはない。
アルシアは石台の乾いた縁を見た。
調査依頼書と記録板、地図筒が残っている。
地図を広げた。
現在地の核室から、細い水路が下層の保守区画へ伸びていた。途中は古い崩落記号で途切れている。正規の階段は描かれていないが、水路の先には半円の小室が複数あり、それぞれが太い作業路へ接続していた。
アルシアは床の二つ星と地図を見比べた。
光は、珠を外したあとに起きた。守護者がいた核室から人を退避させるなら、送り先は戦闘や事故の影響を受けにくい場所になる。地上では遠すぎる。近くの避難室なら、通常の通路で行ける。
残るのは、石で隔てられた下層の保守区画だった。
確証ではない。
だから、戻れる道を残して探す。
アルシアは依頼書を畳み、記録板と一緒に旅荷へ入れた。地図はすぐ開けるよう筒へ半分だけ戻す。荷の底から補修布を取り出し、細長く裂いた。
一つ結びは進んだ道。
二つ結びは戻る側。
分岐ごとに壁の金具へ残し、記録板にも曲がった方向を書く。途中で引き返すことになっても、救援を連れて同じ場所へ来られる。
石台に立て掛けた父の杖を、右手へ取り直した。
核室の正面奥にある細い通路へ入った。
走らなかった。
走れば左肩が揺れ、熱で足元が崩れる。倒れれば、リエッタへ届く者がいなくなる。杖を右へ突き、呼吸が乱れない速さで歩いた。
通路の水は、核室から奥へ流れている。
地図では、その流れが下層の保守区画へ落ちる。アルシアは水音を追い、最初の分岐で左の金具へ一つ結びを残した。振り返り、核室へ戻る側へ二つ結びを付ける。
右手首の針を見ても、方向は分からない。
針の位置が少し下がるたびに足を速めたくなる。
地図へ目を戻し、抑えた。
水路は石段の脇を下り、崩れた壁の下へ潜った。人の通路はそこで二つに分かれている。一方は地図の線と合う。もう一方からは、強い水音がした。
音だけを選べば近道に思える。
アルシアは膝をつき、杖先を水へ入れた。流れは強い側から来て、地図にある側へ抜けている。強い音は上流だった。
送り先が下層なら、進むのは下流だ。
地図にある側へ一つ結びを残す。
熱が上がるたび、壁へ背を預けて休んだ。冷却具の水を替え、飲み水を減らしすぎないよう口を湿らせる。左肘は曲げたままにし、荷の紐が肩へ掛からない位置へ直した。
休む間も、救援へ戻る道を考えた。
次の崩落が越えられないなら戻る。流量針がさらに下がり、直接の経路が見つからないなら、印と記録を持って地上へ向かう。探すことを、帰れない賭けにはしない。
それでも今は、先へ進むほうが早い。
石段を下りきると、空気が冷たくなった。
右手首の針が、もう一段低くなる。
アルシアは足を止めた。
距離が開いたからとは限らない。厚い石壁に囲まれた場所へ入るたび、針の振れが不安定になる。命紬そのものが細くなったのではなく、供給の通り道が石に遮られている可能性があった。
それなら、針の低さをリエッタの容体と取り違えてはならない。
同時に、供給が届きにくい場所にリエッタがいるなら、残り時間は長くない。
アルシアは地図を巻き直した。
歩く。
一つ結びを残す。
二つ結びで帰路を示す。
水路の勾配を確かめ、地図の途切れた線は壁の配管と床の擦れ跡で補う。読めない古代文字は写し取るだけにし、意味を決めつけなかった。
地上なら日が沈む頃、アルシアは半円の小室へ着いた。
壁には重なった二つ星がある。片方の溝だけが黒く焼け、床の排水溝は外の作業路へ向かって下っていた。手摺は入口から離れる方向へ伸びている。
罠の部屋には見えなかった。
事故の際に、人を安全な通路へ出す形だった。
「ここに来たのか」
床に指を触れる。
薄い埃の中に、膝をついた跡があった。その脇から、靴跡が左へ続いている。
靴跡はアルシアのものより少し小さく、光の消えた星の前から始まっていた。
アルシアは目を閉じた。
安堵は、短く息を吐く分だけにした。
生きてここへ着いたことしか、跡は教えない。
靴跡は上り側へ向かっている。水の下流ではなく、流れに逆らっていた。リエッタも上層を目指したのだ。
アルシアは小室の入口へ補修布を結び、記録板へ受け口の位置を書いた。
そこからは、水を遡った。
格子の前で、石粉の矢印を見つけた。鉄は落ちたままだったが、開閉輪の軸には新しい擦り傷がある。アルシアは無理に持ち上げず、地図に描かれた迂回用の排水路を探した。狭い横穴を抜け、格子の向こうで靴跡へ戻る。そこで印を残し、短く休んでから、また進んだ。
地上の夜に当たる時間を、アルシアは崩れた階段の踊り場で過ごした。眠りは浅く、左肩の痛みと右手首の針を確かめるたびに目が覚めた。
それでも、闇の中を急いでは歩かなかった。
携帯食を取り、冷却具の水を替え、地図と記録を照合した。救援へ戻るなら、小室から核室までの印を辿れる。前へ進むなら、リエッタの靴跡と上流の水がある。
五月十六日の朝に当たる頃、アルシアは旅荷を背負い直した。
熱は残っている。左腕も上がらない。
右手で父の杖を持つことはできる。
靴跡は、崩落の多い上り坂で途切れていた。
アルシアは立ち止まり、地図を開いた。先の通路は左右へ分かれ、どちらも地図に描かれた経路から外れている。右には古い配管があり、左の床には水に削られた浅い溝があった。
目で追える跡はない。
水が、石壁の向こうを流れている。
アルシアは息を止めた。
古い水が三度、短く石を打った。
間を置いて、もう一度鳴った。