VOLUME I CHAPTER 06
第六章 白い花の髪飾り
扉の下から入った紙は、夜が明ける前に三度開かれた。
アルシアは寝台の端に座り、窓に背を向けていた。まだ暗い部屋で、卓上の灯りだけが紙の折り目を照らしている。
上段には、旅装の女が自分で見たもの。
地面から上がる熱。壁の奥にある水音。同じ列で一つだけ消える通信灯。
下段には、人を経て届いた話。
守り手。青白い光。別の水路に出た者。どれにも、形や原因を決めないための疑問符が付いていた。
アルシアが食堂を出たあとに増えた情報もある。濡れた靴と、濡れていない外套。リエッタは転移先を浅い水路と仮置きし、その横にも疑問符を残していた。
分からないことを、分かった形に整えてはいない。
昨夜、紙を扉の下から引き込んだときには、礼を言うだけで精一杯だった。文字を追うと、食堂で重なった二人の笑い声まで戻ってきたからだ。
アルシアは紙を畳んだ。
喉のざらつきは残っている。頭を動かしたときの重い感覚は昨夜より薄れ、寝台から立っても床は揺れなかった。首筋には乾いた汗が貼りついている。
右手首の流量針を灯りに寄せた。針の震えは細かい。急な落ち込みはなく、命紬を通る魔力も途切れていない。それでも、自分の魔炉へ魔力が戻るのは、普段より遅かった。
歩けるかと聞かれれば、歩ける。
昨日より軽いかと聞かれても、今朝ならそう答えられる。
そこまで考えたところで、向かいの扉から鍵の回る音がした。
アルシアは灯りを消し、要約紙を地図の間に挟んだ。旅荷を背負い、父の杖を取る。扉を開けると、リエッタも左の部屋から出たところだった。
白い髪は結び直されている。昨夜曲がっていた紐は、今朝も少しだけ左に寄っていた。
「おはよう」
「ああ」
リエッタの目が、アルシアの顔、杖を握る手、右手首の針を順に見た。
「歩ける?」
先に聞かれた。
「歩ける。昨日より軽い」
リエッタは一度瞬いた。疑う言葉は返さず、自分の左手首を見せる。
「私も歩けるよ」
「食べてからだ」
「アルシアもね」
「分かっている」
階下の食堂で、アルシアは温かい麦粥を最後まで食べた。リエッタは自分の椀を空にしたあとも何も言わず、アルシアの匙が置かれるまで地図を畳み直していた。
宿を出ると、市場は店開きの音で満ちていた。
石畳の両側で木戸が上がり、天幕を張る縄が軒から軒へ渡される。西門に近い一角には旅人向けの品が集まり、乾燥肉、靴底、油布、矢羽が狭い通路を作っていた。荷車をそのまま店にした商いもあり、車輪の上で板を倒せば、そこが品台になった。
アルシアは人の流れを見た。荷車が入る東側、馬を繋いだ裏路地、正午前に混み始める西門。抜ける道を三つ決めてから、補給の一覧を開く。
「乾燥豆とパンは私が見る」
リエッタが言った。
「油と灯りもだ」
「分かってる。アルシアは薬草と靴紐?」
「冷却具の補充水も買う」
「じゃあ、この並びを一周したら、あの井戸の前で」
リエッタの指した井戸は、どこからでも見える青い旗の下にあった。
「離れすぎるな」
「市場の中だよ」
「人が増える」
「見える道を歩くね」
リエッタは地図筒を肩紐に留め直し、食料の店に向かった。
アルシアはその背が二軒先で止まるまで見てから、反対側の列に入った。
薬草は匂いと乾き方を確かめ、靴紐は切り口まで油が染みているものを選ぶ。冷却具の水は宿で替えていたため、補充用の小瓶だけで足りた。代金を払い、袋の口を二度巻いて旅荷に入れる。
必要なものは揃った。
井戸へ戻ろうとして、白いものが視界の端に残った。
荷車の店だった。
革紐や小さな留め具に混じり、髪飾りが品台の上に並んでいる。銀色の細い金具に、白い釉を焼き付けた花が留められていた。大きくはない。髪を一房すくい、ずれないよう押さえるだけの形だった。
アルシアは足を止めた。
白い花は、リエッタの髪に挿せば色が溶ける。花弁の縁と銀の留め具だけが光を拾い、昨夜から曲がったままの紐の少し上で見えるだろう。
どちら側がいいかまで、考えていた。
リエッタは疲れると白髪を右の耳に掛ける。なら、髪飾りは左に留めた方が邪魔にならない。
「手に取るかい」
荷車の奥から店主が声を掛けた。旅用の外套を着たまま、商品の箱を積み替えている。常設の店ではなく、この荷車で町を回る行商人らしい。
アルシアは答えなかった。
店主が白い花をつまみ、留め具を開いて見せる。
「見た目より丈夫だよ。大切な人への贈り物にもなる」
大切な人。
その言葉は間違っていない。
リエッタは大切だった。五年前より前から、命紬ができるより前から。それだけなら、何も否定する必要はない。
アルシアの手が腰の硬貨袋に触れた。
髪飾りの値段は、二部屋を取ったことで増えた昨夜の宿代より安い。金が足りないわけではなかった。
食料なら、食べなければ歩けないと言える。細布なら、工具や手袋を直すためだと言える。外套も薬も、危険から守るものだった。
この花には、言い訳に使える働きがない。
買えば、リエッタに渡すことになる。リエッタはきっと笑って受け取り、一度はアルシアの前で髪に挿す。
命紬を解いたあとには家を出ると決めている者が、相手の髪に自分の選んだ物を残す。
そんな資格はない。
「買わない」
アルシアは硬貨袋から手を離した。
店主は引き止めず、白い花を品台に戻した。
「気が変わったら、夕方までは西門の近くにいるよ」
「出る」
「そりゃ残念だ」
アルシアは井戸の青い旗に向かった。
リエッタは先に着いていた。腕に褐色の布を抱え、織り目を光に透かしている。
「何を買った」
「防水布。荷を二つ包めるだけ」
「一覧になかった」
「昨日の話で、転移した人の靴だけ濡れてたでしょう。遺構の中で水路に出るなら、油布だけじゃ足りないかもしれないから」
リエッタは布の端を弾いた。薄い油の膜が朝の光を鈍く返す。
「それに雨が降っても、研究頁は濡らしたくないしね」
「重さは」
「二人で分ければ軽いよ」
初めから二人分として買ったらしい。
アルシアは布の半分を受け取った。
「そっちは?」
リエッタが荷を見た。
「必要なものは揃えた」
「何か見てなかった?」
アルシアは白い花のある荷車を見なかった。
「何も」
正午の鐘が鳴るより前に、二人はレグナの西門を出た。
西へ進む街道は、午後になるほど細くなった。
畑が途切れ、低い灌木と黒灰色の石が増える。道の北側には古い水路の土手が並んでいたが、溝の底は草に覆われている。水音はまだ聞こえなかった。
アルシアは前方の曲がり角、足元の石、背後のリエッタを順に見た。
歩調は乱れていない。リエッタは市場で買った防水布を二つに分け、片方を自分の旅荷、もう片方をアルシアの旅荷に細い紐で括っていた。使わないうちは畳んだまま、外側の留め具に差してある。
白い髪の紐は、まだ左に傾いていた。
花を留めるなら、その少し上だった。
アルシアは道に視線を戻す。
夕方、風を避けられる岩陰を見つけたとき、予定した野営地まではもう少し距離が残っていた。
リエッタが流量針を見て言う。
「まだ歩けるよ」
「今日はここで止まる」
「地面、少し傾いてるけど」
「上に平らな場所がある」
アルシアは父の杖で岩陰の奥を示した。雨水の跡は古く、獣の足跡もない。
リエッタは坂とアルシアの顔を見比べた。
「どっちが休みたい?」
昨夜の扉越しの言葉を、逃がす気はないらしい。
「私だ」
言うと、胸の奥に引っ掛かっていたものが、わずかに位置を変えた。
リエッタは笑わなかった。大げさに頷きもせず、自分の荷を下ろした。
「分かった。じゃあ、ここにしよう」
二人で乾いた場所に敷布を広げた。リエッタは防水布を荷の下に試しに敷き、端から水が入る向きを確かめる。アルシアは火を小さく起こし、昨日残した食事の分まで豆を食べた。
喉の掠れは残ったが、前夜のように頭が重くなることはなかった。けれど眠りは浅く、目を覚ますたび、命紬を通る魔力が途切れていないことを確かめた。
翌朝、空は一面の灰色だった。
雲は高く、雨の匂いはしない。鳥も鳴いている。すぐに崩れる空には見えなかった。
二人は火の跡を消し、街道に戻った。
昼近くまで、雨は降らなかった。
先に変わったのは風だった。西から吹いていた弱い風が止まり、灌木の葉が裏返ったまま動かなくなる。遠くの鳥の声が一つ途切れた。
アルシアは足を止めた。
「外套を出せ」
リエッタが空を見上げる。
「雨?」
「来る」
西の丘の向こうが暗い。雲の下から白い幕が街道へ近づいていた。
周囲を見渡す。道の南に、枝を広く張った大樹がある。幹の根元は高く、地面も街道側へ傾いている。雨水は溜まらない。
「あそこだ」
二人が走り出すより先に、雨が来た。
大粒の水が石を打ち、道の色を一息で変える。リエッタが防水布を引き抜こうとして、髪に雨を受けた。
アルシアは自分の外套を外し、リエッタの肩に掛けた。
「先にこれを使え」
外套の前を合わせ、胸元の留め具を留める。白い髪が濃紺の布に入りきらず、頬に濡れて貼りついた。
「アルシアの分は?」
「私の服は、あとで熱を通せば乾く」
「でも、魔力を使うでしょう」
「この程度なら足りる」
アルシアはリエッタの返事を待たず、二人分の荷を持って大樹へ走った。
根元へ滑り込むと、葉が雨の勢いを半分ほど削った。完全には防げない。幹を伝う水を避け、風上から外れた窪みに荷を置く。
リエッタは濃紺の外套を着たまま、防水布を広げた。一枚を地面に、一枚を二つの旅荷に掛ける。端を荷の下に折り込み、地面から跳ねる泥まで防いだ。
「買ってよかった」
「そうだな」
「今、素直に認めた?」
「必要な物だった」
リエッタが笑った。
アルシアは濡れた前髪を後ろに払った。外套のない肩から袖まで、水が布に染み込んでいる。熱を通せば乾かせる。だが、雨の中で使えば、乾いた分だけまた濡れる。
今は待つ方がいい。
大樹の下には、二人が横に座れるだけの乾いた根があった。アルシアは街道が見える側に立ち、リエッタを幹側に座らせる。
雨は葉と道を同じ音で叩き続けた。
「こういうの、前にもあったね」
リエッタが言った。
「いつだ」
「三人で北の村へ行ったとき。雨宿りした木の中が空洞で、アルバスが先に入ったら鳥が飛び出してきた」
覚えている。父は驚いて杖を天井にぶつけ、リエッタは鳥より大きな声で笑った。
「あれは枯れ木だった」
「今度はちゃんと生きてる木だね」
リエッタは背中を幹に預けた。アルシアの外套は小柄な身体には長く、裾が根を覆っている。
「家にいるのも好きだけど」
雨音の間に、声が続いた。
「こうして二人で旅するの、好きだな」
アルシアは街道を見たまま動かなかった。
リエッタの指が、濃紺の外套の端をつまむ。
「好きっていうか。落ち着く、かな」
言い換えられた言葉は、先に聞いた方を消さなかった。
守るためなら、外套を渡す理由がある。濡らせば身体が冷える。リエッタは低温に弱い。事実だけで説明できる。
白い花を留めたリエッタを見たいと思った。受け取ってほしいと思った。
家族なら、それで説明できるはずだった。だが今は、そう言い切れなかった。
「アルシアは?」
リエッタが聞いた。
雨が少し弱くなっていた。
「道を見る」
「今の答え?」
「荷車が来る」
東から、車輪が泥を押す音が近づいている。
アルシアは父の杖を取り、街道側へ半歩出た。
雨の幕から、幌を張った荷車が現れた。
馬は速度を落とし、御者台の人影が大樹を見上げる。アルシアはリエッタと荷の前に立ち、荷車の側面と幌の奥を確かめた。
昨日の市場で髪飾りを並べていた行商人だった。
「昨日の二人か」
行商人もアルシアに気づいたらしい。
「木陰の端、借りるよ。こいつが雨を嫌って動かない」
馬は既に大樹に首を向けていた。
アルシアは道を塞がない位置まで荷を寄せた。行商人が手綱を引き、荷車を枝の下に入れる。幌から流れた水が、街道に細い溝を作った。
リエッタが立ち上がる。
「昨日のお店の人?」
「そうだよ。そっちのお連れは何も買わなかったけどね」
アルシアは行商人を見た。
「余計なことは言うな」
「売り損ねた話しかしてないさ」
リエッタは首を傾げたが、問いを重ねなかった。
ほどなく雨が上がった。葉から落ちる雫の方が、街道を打つ水より大きな音を立て始める。
行商人は御者台から下り、後輪に絡んだ草を外し始めた。その腰袋に、黒灰色の薄い石が下がっている。
リエッタの視線が止まった。
石の中央には、角の一つが欠けた星形の溝があった。
「その石、どこで?」
リエッタが幹側から出る。
アルシアは腕で止めなかった。代わりに、行商人の腰袋と手の位置を見てから一歩横へ寄る。
行商人が石を持ち上げた。
「これか。西の古い排水口で車輪に挟まってた。模様があるから売れるかと思って拾ったんだ」
「エルドラの近く?」
「北側を回る道だ。遺構の外壁から下ってくる石溝がある」
リエッタは工具袋から布を出し、その上で見せてもらえるか尋ねた。行商人は値を付ける前の品だからと念を押し、布の中央に石を置く。
星形の溝は、依頼書の透かしより太い。周囲に輪はなく、欠けた断面には新しい傷と古い摩耗が混じっていた。
「壁から剥がれたものか」
アルシアが聞く。
「さあな。だが、水は今も出てたよ」
リエッタが顔を上げた。
「水路が動いてるんですか?」
「排水口から流れてた。雨の前だ。車輪の泥を落とせるくらいにはな」
「冷たかった?」
「いや。手を入れると、外の水より温かった」
一昨夜の要約紙にあった地熱と水音が繋がる。
「流れは途切れたか」
「見ていた間はずっとだ。石溝の奥は格子で塞がってたから、中までは入ってない」
「入らなくていいです」
リエッタの返事が速かった。
行商人が笑う。
「ずいぶん念を押すな」
「分からない場所なので」
リエッタは石を裏返さず、見える面だけを目で追った。星の溝から外に伸びる細線は途中で欠けている。
「これだけで深部まで水が通ってるとは言えない。でも、外に出るところは止まってない」
「地熱もある」
アルシアが言うと、リエッタは頷いた。
「水と熱。遺物が変換器なら、入力になるものが二つある」
「まだ決めるな」
「うん。現地で確かめる」
リエッタは石を行商人に返し、記録帳に排水口の位置と流れの向きを書いた。道順は、北側の分かれ道、崩れた石柱、低い土手。リエッタは、行商人が自分で見た範囲だけを聞き取り、分からないところには印を付けなかった。
西の空が明るくなり、濡れた街道に荷車の影が戻った。
行商人は石を腰袋に戻し、馬の背を撫でた。
「私は先へ行く。日暮れまでに次の宿へ着きたい」
荷車の幌を畳み、濡れた店板を後ろに固定する。昨日の市場で見た革紐や留め具が、板の内側で揺れた。
アルシアは濡れた袖に熱を通した。
湯気が薄く上がる。濡れた布の冷たさは消えたが、魔力が戻るまでに一呼吸余計に掛かった。
リエッタがその手元を見る。
「全部乾かさなくていいからね」
「分かっている」
アルシアは熱を止めた。
リエッタから外套を返される。内側にはまだ体温が残り、襟から白い髪が一本だけ離れずにいた。指で取り、風に流す。
行商人が御者台に上がった。
荷車が動き出す。水を含んだ轍を越え、二人より速く西へ進んでいく。
濡れた店板の端に、売れ残った白い花が留まっていた。
花弁に雨滴を受けた髪飾りは、揺れる店先で小さくなり、そのまま西の道へ遠ざかっていった。