笑わない魔女と、笑顔絶えぬ魔道具師
第一巻06 / 24

VOLUME I CHAPTER 06

第六章 白い花の髪飾り

扉の下から入った紙は、夜が明ける前に三度開かれた。

アルシアは寝台の端に座り、窓に背を向けていた。まだ暗い部屋で、卓上の灯りだけが紙の折り目を照らしている。

上段には、旅装の女が自分で見たもの。

地面から上がる熱。壁の奥にある水音。同じ列で一つだけ消える通信灯。

下段には、人を経て届いた話。

守り手。青白い光。別の水路に出た者。どれにも、形や原因を決めないための疑問符が付いていた。

アルシアが食堂を出たあとに増えた情報もある。濡れた靴と、濡れていない外套。リエッタは転移先を浅い水路と仮置きし、その横にも疑問符を残していた。

分からないことを、分かった形に整えてはいない。

昨夜、紙を扉の下から引き込んだときには、礼を言うだけで精一杯だった。文字を追うと、食堂で重なった二人の笑い声まで戻ってきたからだ。

アルシアは紙を畳んだ。

喉のざらつきは残っている。頭を動かしたときの重い感覚は昨夜より薄れ、寝台から立っても床は揺れなかった。首筋には乾いた汗が貼りついている。

右手首の流量針を灯りに寄せた。針の震えは細かい。急な落ち込みはなく、命紬を通る魔力も途切れていない。それでも、自分の魔炉へ魔力が戻るのは、普段より遅かった。

歩けるかと聞かれれば、歩ける。

昨日より軽いかと聞かれても、今朝ならそう答えられる。

そこまで考えたところで、向かいの扉から鍵の回る音がした。

アルシアは灯りを消し、要約紙を地図の間に挟んだ。旅荷を背負い、父の杖を取る。扉を開けると、リエッタも左の部屋から出たところだった。

白い髪は結び直されている。昨夜曲がっていた紐は、今朝も少しだけ左に寄っていた。

「おはよう」

「ああ」

リエッタの目が、アルシアの顔、杖を握る手、右手首の針を順に見た。

「歩ける?」

先に聞かれた。

「歩ける。昨日より軽い」

リエッタは一度瞬いた。疑う言葉は返さず、自分の左手首を見せる。

「私も歩けるよ」

「食べてからだ」

「アルシアもね」

「分かっている」

階下の食堂で、アルシアは温かい麦粥を最後まで食べた。リエッタは自分の椀を空にしたあとも何も言わず、アルシアの匙が置かれるまで地図を畳み直していた。

宿を出ると、市場は店開きの音で満ちていた。

石畳の両側で木戸が上がり、天幕を張る縄が軒から軒へ渡される。西門に近い一角には旅人向けの品が集まり、乾燥肉、靴底、油布、矢羽が狭い通路を作っていた。荷車をそのまま店にした商いもあり、車輪の上で板を倒せば、そこが品台になった。

アルシアは人の流れを見た。荷車が入る東側、馬を繋いだ裏路地、正午前に混み始める西門。抜ける道を三つ決めてから、補給の一覧を開く。

「乾燥豆とパンは私が見る」

リエッタが言った。

「油と灯りもだ」

「分かってる。アルシアは薬草と靴紐?」

「冷却具の補充水も買う」

「じゃあ、この並びを一周したら、あの井戸の前で」

リエッタの指した井戸は、どこからでも見える青い旗の下にあった。

「離れすぎるな」

「市場の中だよ」

「人が増える」

「見える道を歩くね」

リエッタは地図筒を肩紐に留め直し、食料の店に向かった。

アルシアはその背が二軒先で止まるまで見てから、反対側の列に入った。

薬草は匂いと乾き方を確かめ、靴紐は切り口まで油が染みているものを選ぶ。冷却具の水は宿で替えていたため、補充用の小瓶だけで足りた。代金を払い、袋の口を二度巻いて旅荷に入れる。

必要なものは揃った。

井戸へ戻ろうとして、白いものが視界の端に残った。

荷車の店だった。

革紐や小さな留め具に混じり、髪飾りが品台の上に並んでいる。銀色の細い金具に、白い釉を焼き付けた花が留められていた。大きくはない。髪を一房すくい、ずれないよう押さえるだけの形だった。

アルシアは足を止めた。

白い花は、リエッタの髪に挿せば色が溶ける。花弁の縁と銀の留め具だけが光を拾い、昨夜から曲がったままの紐の少し上で見えるだろう。

どちら側がいいかまで、考えていた。

リエッタは疲れると白髪を右の耳に掛ける。なら、髪飾りは左に留めた方が邪魔にならない。

「手に取るかい」

荷車の奥から店主が声を掛けた。旅用の外套を着たまま、商品の箱を積み替えている。常設の店ではなく、この荷車で町を回る行商人らしい。

アルシアは答えなかった。

店主が白い花をつまみ、留め具を開いて見せる。

「見た目より丈夫だよ。大切な人への贈り物にもなる」

大切な人。

その言葉は間違っていない。

リエッタは大切だった。五年前より前から、命紬ができるより前から。それだけなら、何も否定する必要はない。

アルシアの手が腰の硬貨袋に触れた。

髪飾りの値段は、二部屋を取ったことで増えた昨夜の宿代より安い。金が足りないわけではなかった。

食料なら、食べなければ歩けないと言える。細布なら、工具や手袋を直すためだと言える。外套も薬も、危険から守るものだった。

この花には、言い訳に使える働きがない。

買えば、リエッタに渡すことになる。リエッタはきっと笑って受け取り、一度はアルシアの前で髪に挿す。

命紬を解いたあとには家を出ると決めている者が、相手の髪に自分の選んだ物を残す。

そんな資格はない。

「買わない」

アルシアは硬貨袋から手を離した。

店主は引き止めず、白い花を品台に戻した。

「気が変わったら、夕方までは西門の近くにいるよ」

「出る」

「そりゃ残念だ」

アルシアは井戸の青い旗に向かった。

リエッタは先に着いていた。腕に褐色の布を抱え、織り目を光に透かしている。

「何を買った」

「防水布。荷を二つ包めるだけ」

「一覧になかった」

「昨日の話で、転移した人の靴だけ濡れてたでしょう。遺構の中で水路に出るなら、油布だけじゃ足りないかもしれないから」

リエッタは布の端を弾いた。薄い油の膜が朝の光を鈍く返す。

「それに雨が降っても、研究頁は濡らしたくないしね」

「重さは」

「二人で分ければ軽いよ」

初めから二人分として買ったらしい。

アルシアは布の半分を受け取った。

「そっちは?」

リエッタが荷を見た。

「必要なものは揃えた」

「何か見てなかった?」

アルシアは白い花のある荷車を見なかった。

「何も」

正午の鐘が鳴るより前に、二人はレグナの西門を出た。

西へ進む街道は、午後になるほど細くなった。

畑が途切れ、低い灌木と黒灰色の石が増える。道の北側には古い水路の土手が並んでいたが、溝の底は草に覆われている。水音はまだ聞こえなかった。

アルシアは前方の曲がり角、足元の石、背後のリエッタを順に見た。

歩調は乱れていない。リエッタは市場で買った防水布を二つに分け、片方を自分の旅荷、もう片方をアルシアの旅荷に細い紐で括っていた。使わないうちは畳んだまま、外側の留め具に差してある。

白い髪の紐は、まだ左に傾いていた。

花を留めるなら、その少し上だった。

アルシアは道に視線を戻す。

夕方、風を避けられる岩陰を見つけたとき、予定した野営地まではもう少し距離が残っていた。

リエッタが流量針を見て言う。

「まだ歩けるよ」

「今日はここで止まる」

「地面、少し傾いてるけど」

「上に平らな場所がある」

アルシアは父の杖で岩陰の奥を示した。雨水の跡は古く、獣の足跡もない。

リエッタは坂とアルシアの顔を見比べた。

「どっちが休みたい?」

昨夜の扉越しの言葉を、逃がす気はないらしい。

「私だ」

言うと、胸の奥に引っ掛かっていたものが、わずかに位置を変えた。

リエッタは笑わなかった。大げさに頷きもせず、自分の荷を下ろした。

「分かった。じゃあ、ここにしよう」

二人で乾いた場所に敷布を広げた。リエッタは防水布を荷の下に試しに敷き、端から水が入る向きを確かめる。アルシアは火を小さく起こし、昨日残した食事の分まで豆を食べた。

喉の掠れは残ったが、前夜のように頭が重くなることはなかった。けれど眠りは浅く、目を覚ますたび、命紬を通る魔力が途切れていないことを確かめた。

翌朝、空は一面の灰色だった。

雲は高く、雨の匂いはしない。鳥も鳴いている。すぐに崩れる空には見えなかった。

二人は火の跡を消し、街道に戻った。

昼近くまで、雨は降らなかった。

先に変わったのは風だった。西から吹いていた弱い風が止まり、灌木の葉が裏返ったまま動かなくなる。遠くの鳥の声が一つ途切れた。

アルシアは足を止めた。

「外套を出せ」

リエッタが空を見上げる。

「雨?」

「来る」

西の丘の向こうが暗い。雲の下から白い幕が街道へ近づいていた。

周囲を見渡す。道の南に、枝を広く張った大樹がある。幹の根元は高く、地面も街道側へ傾いている。雨水は溜まらない。

「あそこだ」

二人が走り出すより先に、雨が来た。

大粒の水が石を打ち、道の色を一息で変える。リエッタが防水布を引き抜こうとして、髪に雨を受けた。

アルシアは自分の外套を外し、リエッタの肩に掛けた。

「先にこれを使え」

外套の前を合わせ、胸元の留め具を留める。白い髪が濃紺の布に入りきらず、頬に濡れて貼りついた。

「アルシアの分は?」

「私の服は、あとで熱を通せば乾く」

「でも、魔力を使うでしょう」

「この程度なら足りる」

アルシアはリエッタの返事を待たず、二人分の荷を持って大樹へ走った。

根元へ滑り込むと、葉が雨の勢いを半分ほど削った。完全には防げない。幹を伝う水を避け、風上から外れた窪みに荷を置く。

リエッタは濃紺の外套を着たまま、防水布を広げた。一枚を地面に、一枚を二つの旅荷に掛ける。端を荷の下に折り込み、地面から跳ねる泥まで防いだ。

「買ってよかった」

「そうだな」

「今、素直に認めた?」

「必要な物だった」

リエッタが笑った。

アルシアは濡れた前髪を後ろに払った。外套のない肩から袖まで、水が布に染み込んでいる。熱を通せば乾かせる。だが、雨の中で使えば、乾いた分だけまた濡れる。

今は待つ方がいい。

大樹の下には、二人が横に座れるだけの乾いた根があった。アルシアは街道が見える側に立ち、リエッタを幹側に座らせる。

雨は葉と道を同じ音で叩き続けた。

「こういうの、前にもあったね」

リエッタが言った。

「いつだ」

「三人で北の村へ行ったとき。雨宿りした木の中が空洞で、アルバスが先に入ったら鳥が飛び出してきた」

覚えている。父は驚いて杖を天井にぶつけ、リエッタは鳥より大きな声で笑った。

「あれは枯れ木だった」

「今度はちゃんと生きてる木だね」

リエッタは背中を幹に預けた。アルシアの外套は小柄な身体には長く、裾が根を覆っている。

「家にいるのも好きだけど」

雨音の間に、声が続いた。

「こうして二人で旅するの、好きだな」

アルシアは街道を見たまま動かなかった。

リエッタの指が、濃紺の外套の端をつまむ。

「好きっていうか。落ち着く、かな」

言い換えられた言葉は、先に聞いた方を消さなかった。

守るためなら、外套を渡す理由がある。濡らせば身体が冷える。リエッタは低温に弱い。事実だけで説明できる。

白い花を留めたリエッタを見たいと思った。受け取ってほしいと思った。

家族なら、それで説明できるはずだった。だが今は、そう言い切れなかった。

「アルシアは?」

リエッタが聞いた。

雨が少し弱くなっていた。

「道を見る」

「今の答え?」

「荷車が来る」

東から、車輪が泥を押す音が近づいている。

アルシアは父の杖を取り、街道側へ半歩出た。

雨の幕から、幌を張った荷車が現れた。

馬は速度を落とし、御者台の人影が大樹を見上げる。アルシアはリエッタと荷の前に立ち、荷車の側面と幌の奥を確かめた。

昨日の市場で髪飾りを並べていた行商人だった。

「昨日の二人か」

行商人もアルシアに気づいたらしい。

「木陰の端、借りるよ。こいつが雨を嫌って動かない」

馬は既に大樹に首を向けていた。

アルシアは道を塞がない位置まで荷を寄せた。行商人が手綱を引き、荷車を枝の下に入れる。幌から流れた水が、街道に細い溝を作った。

リエッタが立ち上がる。

「昨日のお店の人?」

「そうだよ。そっちのお連れは何も買わなかったけどね」

アルシアは行商人を見た。

「余計なことは言うな」

「売り損ねた話しかしてないさ」

リエッタは首を傾げたが、問いを重ねなかった。

ほどなく雨が上がった。葉から落ちる雫の方が、街道を打つ水より大きな音を立て始める。

行商人は御者台から下り、後輪に絡んだ草を外し始めた。その腰袋に、黒灰色の薄い石が下がっている。

リエッタの視線が止まった。

石の中央には、角の一つが欠けた星形の溝があった。

「その石、どこで?」

リエッタが幹側から出る。

アルシアは腕で止めなかった。代わりに、行商人の腰袋と手の位置を見てから一歩横へ寄る。

行商人が石を持ち上げた。

「これか。西の古い排水口で車輪に挟まってた。模様があるから売れるかと思って拾ったんだ」

「エルドラの近く?」

「北側を回る道だ。遺構の外壁から下ってくる石溝がある」

リエッタは工具袋から布を出し、その上で見せてもらえるか尋ねた。行商人は値を付ける前の品だからと念を押し、布の中央に石を置く。

星形の溝は、依頼書の透かしより太い。周囲に輪はなく、欠けた断面には新しい傷と古い摩耗が混じっていた。

「壁から剥がれたものか」

アルシアが聞く。

「さあな。だが、水は今も出てたよ」

リエッタが顔を上げた。

「水路が動いてるんですか?」

「排水口から流れてた。雨の前だ。車輪の泥を落とせるくらいにはな」

「冷たかった?」

「いや。手を入れると、外の水より温かった」

一昨夜の要約紙にあった地熱と水音が繋がる。

「流れは途切れたか」

「見ていた間はずっとだ。石溝の奥は格子で塞がってたから、中までは入ってない」

「入らなくていいです」

リエッタの返事が速かった。

行商人が笑う。

「ずいぶん念を押すな」

「分からない場所なので」

リエッタは石を裏返さず、見える面だけを目で追った。星の溝から外に伸びる細線は途中で欠けている。

「これだけで深部まで水が通ってるとは言えない。でも、外に出るところは止まってない」

「地熱もある」

アルシアが言うと、リエッタは頷いた。

「水と熱。遺物が変換器なら、入力になるものが二つある」

「まだ決めるな」

「うん。現地で確かめる」

リエッタは石を行商人に返し、記録帳に排水口の位置と流れの向きを書いた。道順は、北側の分かれ道、崩れた石柱、低い土手。リエッタは、行商人が自分で見た範囲だけを聞き取り、分からないところには印を付けなかった。

西の空が明るくなり、濡れた街道に荷車の影が戻った。

行商人は石を腰袋に戻し、馬の背を撫でた。

「私は先へ行く。日暮れまでに次の宿へ着きたい」

荷車の幌を畳み、濡れた店板を後ろに固定する。昨日の市場で見た革紐や留め具が、板の内側で揺れた。

アルシアは濡れた袖に熱を通した。

湯気が薄く上がる。濡れた布の冷たさは消えたが、魔力が戻るまでに一呼吸余計に掛かった。

リエッタがその手元を見る。

「全部乾かさなくていいからね」

「分かっている」

アルシアは熱を止めた。

リエッタから外套を返される。内側にはまだ体温が残り、襟から白い髪が一本だけ離れずにいた。指で取り、風に流す。

行商人が御者台に上がった。

荷車が動き出す。水を含んだ轍を越え、二人より速く西へ進んでいく。

濡れた店板の端に、売れ残った白い花が留まっていた。

花弁に雨滴を受けた髪飾りは、揺れる店先で小さくなり、そのまま西の道へ遠ざかっていった。

第6章 了

TABLE OF CONTENTS

公開目次

  1. 01畳まれた毛布
  2. 02持ち帰られた依頼書
  3. 03旅支度の距離
  4. 04同じ道、違う願い
  5. 05一人部屋が二つ
  6. 06白い花の髪飾り
  7. 07エルドラ遺構
  8. 08熱のある手
  9. 09守護者の部屋
  10. 10罠の光
  11. 11命の距離
  12. 12帰る場所
  13. 13父の声を宿す球
  14. 14追跡者の印
  15. 15書庫都市オルフェン
  16. 16もう一人の紫
  17. 17名もない王女
  18. 18祝祭の夜
  19. 19姉という他人
  20. 20父が隠したもの
  21. 21王家の回収命令
  22. 22離れるための嘘
  23. 23選ぶ側
  24. 24白い王女の帰路
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