VOLUME I CHAPTER 09
第九章 守護者の部屋
五月十五日の朝、アルシアは額に載った重みで目を覚ました。
冷却具の水はぬるくなっていた。青い光も消えかけ、平たい水嚢が呼吸に合わせてわずかにずれる。その向こうで、リエッタが左手首の流量針を見ていた。
「おはよう」
「起きていたのか」
「途中で寝たよ。アルシアより先に起きただけ」
避難室の壁際には二人分の旅荷があり、父の杖はアルシアの右側に置かれている。外した右手袋も、その石突きのそばに畳まれていた。位置は昨夜と変わっていない。
アルシアは冷却具を額から外した。身体を起こすと、頭の奥で熱が遅れて揺れた。眩暈というほどではない。そう判断してから、昨夜も同じように一つずつ軽い名を付けようとしたことを思い出す。
「腕を」
リエッタが手を出した。
アルシアは右腕を預けた。手袋を着け直す前に、リエッタの指先が手首の内側に触れた。リエッタは脈を数え、流量針の位置を昨夜の記録と比べた。それから、断られると思っている顔をせずに聞いた。
「額もいい?」
「ああ」
冷たい指が触れた。
「昨日よりは下がってる。でも、まだある」
「流量は」
「上がったよ。基準までは戻ってない」
リエッタはぬるくなった水を替え、冷却具の留め具を閉じ直した。内側の晶片に青が戻る。もう一度額へ当てられても、アルシアは自分で持つとは言わなかった。
「戻るか」
口にすると、リエッタの手が止まった。
「アルシアは?」
「先に聞いたのは私だ」
昨夜なら、深部へ進む理由を並べていた。リエッタが止めなければ、熱を測る前に歩いていた。
止められたとき、肩から力が抜けた。怒らせたことへの罪悪感より先に、歩かなくていいのだという感覚があった。それを何と呼ぶかは、まだ分からない。
だが、自分の答えだけで二人の進退を決めないことなら、できる。
「私は、遺物を確認したい。だが、お前の判断を聞く」
リエッタは記録板を膝へ置いた。二本の流量針、壁の図から読んだ距離、通ってきた交点を順に指す。
「ここで休み続けても、アルシアの針は少ししか戻らなかった。上層へ戻るには、昨日の交点をまた全部通る。深部の大きな部屋までは、その半分より近い」
「距離だけなら、進むほうが短い」
「うん。だから、次の部屋まで行く。流量針が昨夜の位置より下がったら戻る。魔法の切り替えが遅れたら、いったん入口まで下がって、続けるか二人で決め直す。その判断は私にもさせて」
「続ける条件は」
「遅れを補える手順が見つかること。なければ戻る」
アルシアは頷いた。
「お前は進みたいのか」
「進みたい。二人で入って、二人で戻るために」
冷却具の青が、リエッタの指の間で揺れた。昨夜の笑っていない顔ではない。けれど、アルシアを安心させるためだけの笑顔もなかった。
二人は食事を取り、防水布を畳んだ。アルシアは右手袋を着け、父の杖を持つ。左前腕の銅板を押すと、内側の導晶は冷たく、革帯にも緩みはない。リエッタは冷却具を工具袋の外側へ留め、曲がった折り畳み防護板が歩行の邪魔にならないよう向きを直した。
避難室を出る前に、アルシアは通路の左右を確かめた。
リエッタが隣で待っている。
先へ出ろとも、後ろにいろとも言わなかった。
「行くぞ」
「うん」
中層の奥では、壁の星路が太くなっていた。細い線が合流するたび、石の内側から水の押す音がする。冷気は消え、代わりに靴底へ熱が上がった。アルシアの右手首で流量針が震えたが、避難室を出たときの位置よりは落ちなかった。
通路は、円形の石扉で終わっていた。
扉の中央には、上下へ割れた星形の溝がある。リエッタが壁際の石栓を回すと、扉の二枚は左右の壁へ沈み込んだ。
熱を含んだ空気が流れ出す。
アルシアは杖を先に入れた。
部屋は、上層制御室より広かった。床の縁を水路が一周し、四方から中央の石台へ細い溝が集まっている。石台の上には輪が立ち、その内側で掌ほどの珠が淡く回っていた。下方から上がる熱が空気を揺らし、珠から伸びる線だけが淡金色に光っている。
その手前に、石の塊が蹲っていた。
頭のない人型に見えた。胴を覆う石殻の下から、太い二本の腕が床へ伸び、脚は深く折り畳まれている。肩と膝の輪には黒ずんだ金属が挟まれ、壁から来た細い水路がその背へ繋がっていた。
「動いてないね」
リエッタが扉の外から言った。
「まだ入るな」
アルシアは床に杖先を触れさせた。入口から中央まで、星形の溝が三列に分かれている。右は乾き、中央は薄く濡れ、左は淡い光を持っていた。
乾いた列へ足を置く。
壁の奥で、水が止まった。
石の塊が動いた。
肩が低く沈む。折り畳まれていた脚へ重さが集まり、太い腕が音もなく床を捉える。
五年前の獣も、飛ぶ前に同じ沈み方をした。
砕けた床。低い影。石の上に散った、まだ紫だった髪。
アルシアの肺から空気が消えた。
目の前にいるのは石だ。分かっている。爪も息もない。それでも、杖を持つ指が動かなかった。
「アルシア、右!」
リエッタの声が身体を引いた。
一歩目が遅れた。
守護者の腕が、アルシアのいた床を抉った。割れた石片が頬を打つ。二歩目で身を翻し、杖から風圧を放つ。石の胴は押し返せなかったが、向きをわずかに逸らし、その脇を抜ける間は作れた。
着地した足が滑る。熱が目の奥で膨らんだ。
「戻れ!」
「出てないよ!」
リエッタは入口脇の石柱から動いていなかった。守護者ではなく、右壁を見ている。壁には半球状の弁が並び、水路がその下を通っていた。
守護者が左腕を引く。
同時ではない。
先に、右壁の弁が一つ沈んだ。そのあとで肩の輪が回った。
リエッタが冷却具を外した。青い水嚢を弁へ当てると、内側の水が脈を打つように揺れた。
「アルシア、先に壁が動いてる!」
守護者が再び身を沈める。
今度は、アルシアにも弁の音が聞こえた。
「右肩は、上から二つ目!」
リエッタの声に合わせ、アルシアは守護者の外側へ回った。
弁が沈む。水が細い管を走る。遅れて右肩の金属輪が締まり、石の腕を前へ押し出す。
速い。重い。だが、音がないのではない。身体が動く前に、壁と水が合図を出している。
「閉じた直後だけ、関節の戻りが止まる!」
「どれだけだ」
「次の弁が上がるまで!」
守護者の腕が横へ薙いだ。アルシアは身を伏せた。頭上を石が通り、髪を結んだ紐が風圧で鳴る。
熱が呼吸を浅くした。魔力を冷却へ調律するまで、普段より一拍長い。
切り替えが遅れたら、入口へ戻る。
約束が脳裏を横切る。今の遅れを、リエッタも見たはずだった。
「アルシア、入口まで下がって!」
否定しかけた言葉を噛み潰す。
アルシアは守護者の次の腕を避け、乾いた列を扉へ戻った。守護者は追う。入口の線を越える直前、背の管が張り、動きが鈍った。
リエッタが冷却具を壁から離した。
「今ので分かった。管の届く範囲からは出ない。遅れを補えるやり方もある。私の合図で一回だけ試したい。駄目なら戻る」
「私の切り替えが遅れた」
「見た。だから、アルシアが自分で追わなくていい形にする」
「形は」
リエッタは冷却具を右壁の弁へ押し当てた。青い水の中へ、熱の筋が細く入っては消える。
「弁が閉じるとき、肩の内側へ水圧がかかる。その瞬間に内側を冷やして。次に開こうとするとき、外の輪だけ熱で広げる。縮んだ内側と、広がる外側が噛み合わなくなる」
「石殻が先に割れる」
「たぶん。私が閉じる瞬間と開く瞬間を言う」
たぶん、とリエッタは言った。
確定していないことを隠さない声だった。
守護者が管の端で身を起こす。右肩の金属輪から水が滴り、床の溝へ戻っていく。
「行ける?」
アルシアは右手首を見た。流量針は下がっている。だが、昨夜の位置までは落ちていない。杖を握る指には力が入り、冷却と熱の調律も今なら分けられる。
「一回だ」
「一回で決める」
アルシアは部屋へ戻った。
守護者が右腕を引く。壁の弁はまだ上がったままだ。
アルシアは目の前の肩を見ず、リエッタの声を待った。
五年前には、誰の合図も待てなかった。父の声も、リエッタの息も、獣の影に押し流された。今も胸の内側は冷え、足は逃げる方向を探している。
恐怖は消えていない。
それでも、ここにある声は聞こえる。
「閉じる!」
冷気を一点へ絞った。
守護者の右肩が白く曇る。金属輪の内側へ霜が走り、水圧を受けた軸が軋んだ。
石の腕が振り下ろされる。
「まだ、熱は待って!」
アルシアは杖を引いた。守護者の左腕が、予想より早く床を突く。砕けた石で足場が傾き、避ける方向が半歩狭くなった。
右腕の影が迫る。
間に合わない。
アルシアは左腕を上げた。
銅板の溝が白く光った。
衝撃は腕を折る代わりに、板の曲面を滑って横へ逸れた。守護者の拳が肩先を掠め、アルシアの身体は床へ投げ出された。父の杖が右手から離れる。左肘から石へ落ち、息が止まった。
導晶が一度で熱を持つ。袖越しにも焼ける温度が伝わり、革帯の端から焦げた匂いが立った。
「外して!」
リエッタが冷却具を床へ滑らせた。
アルシアは右手で受け止め、青い水嚢を銅板へ押し当てた。蒸気が上がる。熱が落ちた隙に冷却具を脇へ置き、右手で革帯を外した。防護具を床へ放る。導晶には中央までひびが入り、銅板は逃がした力の方向へ折れていた。父の杖を拾い直す。
守護者が腕を持ち上げる。
凍らせた右肩の軸は、元の位置へ戻っていない。
「開くよ!」
アルシアは床に膝をついたまま、杖先を外側の金属輪へ向けた。
熱を通す。
輪が赤みを帯びた。外側だけが膨らみ、霜に覆われた内側がそれを拒む。
亀裂は、金属と石の境から走った。
短い破裂音がする。
守護者の右肩が割れた。
守護者の右腕が床へ落ち、背の管が根元から抜ける。熱い水が噴き出し、溝を越えて中央へ流れた。胴を支えていた圧が抜け、左腕と両脚の輪も順に緩む。
守護者はもう一度だけ起き上がろうとした。
右側へ重さが逃げる。石の胴が傾き、床へ伏した。
それきり動かなかった。
部屋に水音が戻った。
アルシアは杖を床へついた。立ち上がろうとして、腕より先に熱が身体を押し返す。
「そのまま」
リエッタが入口脇の石柱を離れ、守護者の管を避けて乾いた列を走ってきた。
「左腕、見せて」
「防護具は外した」
「腕のほう」
肩先は打たれている。肘も石へ落ちた。動かせば痛むが、折れてはいない。リエッタは袖の上から輪郭を確かめ、次に額へ手を当てた。
「熱、上がってる」
「魔法を使った」
「理由の説明は聞いてないよ」
「そうだったな」
リエッタは床の冷却具を拾い、熱を吸った水を溝へ捨てた。新しい水を注いで留め具を閉じると、晶片に青が戻った。
アルシアは、床に転がる防護具を見た。浅く曲げられた銅板。自分の腕へ合う革帯。導晶へ力を逃がす溝。リエッタが余り物だと言ったものは、一撃を受けて役目を終えている。
自分の魔法より先に、それが身体を守った。
そして、その一撃のあとに勝てたのは、リエッタが弁を見て、合図を出したからだ。
「助かった」
声にすると、リエッタがまばたきをした。
「うん。私も」
アルシアは壁へ背を預けた。冷却具を額へ戻されても、今度は自分で持てるとは言わない。床に伏した守護者の姿を見ると、胸の奥で五年前の影がまだ動いた。
消えたわけではない。
ただ、その影と今の石像の間に、リエッタの声が残っていた。
休息のあと、アルシアは先に部屋の出口を確かめた。
入口の石扉以外に、正面奥へ細い通路が一本ある。床に新しい足跡はなく、壁の星路にも不規則な点滅はない。守護者の背から抜けた管は、水圧を失ったまま溝へ沈んでいた。
リエッタは中央の石台を調べていた。
「触る前に呼べ」
「呼ぶよ。今は見るだけ」
返事をしながらも、指は珠を囲む輪の少し手前で止まっている。昨夜の約束が、戦闘が終わっても残っていた。
アルシアは隣へ立った。
石台の下には二本の流路があった。一方は床を回る水路から入り、もう一方は熱い空気を下から上へ通す。二つは輪の根元で合流し、珠が回るたび、淡金色の線が外側の導晶へ伸びていた。
「昨日の図と同じだね」
「水と熱が入る」
「出てるのは、魔力」
リエッタは工具袋から細い感知板を出し、淡金色の線の上へかざした。板の刻みが一つずつ光る。次に、水路の脇にある石栓へ手を掛けた。
「閉じるよ」
「待て。私が支える」
アルシアが石栓の軸へ杖を添える。リエッタが回すと、水の流れが細くなった。
珠の回転が遅くなる。
感知板の光も、同じ順で消えた。
リエッタは石栓を元へ戻した。水が走り、珠は再び回転を速める。下から来る熱が輪を通るたび、淡金の線が脈打った。
「止めたら、出なくなる」
「中に魔力を蓄えているだけではないのか」
「蓄えてる分はあると思う。でも、水を戻したらすぐ出力も戻った。下の熱路も輪へ入ってる。これは、何もないところから作ってるんじゃない」
リエッタは感知板へ、流れの順を短く書き込んだ。
「水の押す力と熱差を、魔力に変えてる。変換器だよ」
上層制御室で付けた疑問符が、そこでようやく外れた。
リエッタは輪の根元へ顔を寄せた。石の縁には古代文字の列が刻まれている。一字ずつ記録板へ写し取り、その下の「変換器」の脇に新しい名を書いた。
「転律珠」
「読めたのか」
「まさか。一字も読めないよ。水と熱の律を魔力へ転じる珠だから。記録で呼ぶための仮の名前」
アルシアはその名を繰り返さなかった。
遺物の名より先に、石台の受け皿へ刻まれた模様が目に入った。
星が二つある。
同じ大きさの星が、中心をわずかにずらして重なっていた。それぞれの線は交わっても混ざらず、別の溝として輪の左右へ続いている。
二つ星の外周にも、読めない短い銘が残っていた。リエッタは文字列を記録し、重なった星を指で囲んだ。
「こっちは、双星紋」
「それも仮の名か」
「うん。形を呼び分けるための」
「リエッタ」
「見えてる」
リエッタは防水包みから調査依頼書を出した。何度も畳まれた紙を広げ、珠の淡金色の光に透かす。
依頼書の星形透かしが浮いた。
リエッタは紙を石台へ寄せ、透かしを二つ星の片方に重ねるようにかざした。角度も、短い欠けも一致する。透かしの端で途切れていた線は、もう一つの星へ続く線だった。
「支部の印じゃなかった」
「なぜ依頼書にある」
「分からない。元の調査紙から写ったのかもしれない。でも、同じ印だよ」
分からないものを、分からないまま残す。リエッタは依頼書と台座の模様を記録板へ写し、二つ星の脇に疑問符を付けた。
珠を外す留め具は、輪の裏側にあった。
アルシアが床と壁をもう一度確認し、リエッタが留め具を順に緩める。最後の一つを外す前に、リエッタが顔を上げた。
「取るよ」
「ああ」
「一緒に戻ろうね」
「戻る」
留め具が開いた。
リエッタは両手で珠を受け取った。台座から淡金色の線が退き、部屋を巡る水音が一段低くなる。
珠は止まらなかった。
リエッタの掌で、転律珠が回っていた。
その内側で、二つの星が別々の速さで光っていた。