笑わない魔女と、笑顔絶えぬ魔道具師
第一巻04 / 24

VOLUME I CHAPTER 04

第四章 同じ道、違う願い

鍵を抜いても、アルシアは扉に手を置いたままだった。

留め金は下りている。窓も閉めた。工房の炭炉には灰しか残っていない。昨夜と今朝で同じ場所を見たのだから、もう一度押す必要はなかった。

それでも扉は動かなかった。

「まだ?」

背後からリエッタが聞いた。

「今、閉めた」

アルシアは手を離した。朝の光は母屋の壁を半分まで上がり、花壇の土には水が染みている。青い花の間に埋めた素焼きの壺は、縁だけが見えた。

玄関前へ運び出した二つの荷は、昨夜より固く締まっていた。リエッタは自分の肩紐を引き、工具が背中で動かないことを確かめる。白髪は後ろで一つに束ねてある。右手も迷わず留め具を引いていた。

アルシアは二つの荷の脇に立てた杖を取った。

「持つの?」

「私が持つ」

「昨日も聞いたよ」

リエッタはアルシアの荷から地図筒を抜き、自分の荷の肩紐に留めた。

「何をしている」

「杖の分」

「地図は軽い」

「じゃあ、次の休憩で替えるものを増やす」

何と替えるのかは言わなかった。リエッタは地図筒の留め輪を二度引き、先に門へ向かう。

アルシアは杖を右手に持った。石突きを地面へ置くと、乾いた音がした。父が持っていた頃より、その音は近く聞こえた。自分の手で鳴らしているせいだ。

杖を握り直し、門を閉じた。

西へ続く林道は、朝露をまだ残していた。

リエッタの歩調は崩れなかった。

林道を抜け、西部街道へ合流してからも同じだった。土の固い場所を選び、轍の深いところでは半歩だけ外へ寄る。荷の重みで肩が下がることもない。

アルシアは前を歩き、曲がり角ごとに後ろを見た。

一度目は、低い枝がリエッタの髪へ触れそうだったから。

二度目は、路肩の石が崩れていたから。

その次は、理由を探す前に振り返っていた。

「何かいる?」

「いない」

「じゃあ、私?」

アルシアは道へ視線を戻した。

リエッタは追及せず、杖の石突きが作る音に自分の足音を重ねた。

朝の光が木々の上へ抜ける頃、街道脇に平らな境界石が見えた。休むには早い。リエッタの呼吸は乱れておらず、流量針も出発時の印から動いていない。

アルシアは境界石の前で足を止めた。

「休む」

リエッタが自分の針を見た。

「まだ歩けるよ」

「水を飲め」

「喉、乾いてないけど」

「乾いてからでは遅い」

リエッタの視線が、針からアルシアの顔へ上がった。

「私、遅れてないよね」

「歩けるうちに休む」

リエッタは少しだけ笑い、境界石に腰を下ろした。

「分かった」

アルシアは荷を下ろし、水筒を開けた。

「私も飲む」

「うん」

自分が飲みたいから止まったことにするには、遅かった。

リエッタは自分の荷を探り、乾燥林檎を一切れ差し出した。

「朝から食べてないでしょう」

「食べた」

「硬いパンを半分」

「見ていたのか」

「後ろを確認してたのはアルシアだけじゃないよ」

受け取らない理由がなくなった。アルシアは林檎を口に入れた。甘さより先に酸味が来る。

リエッタも別の包みから一切れ取り出した。

二つ買ったものは、同じ速さで減った。

休憩を終えてから、アルシアは振り返る回数を減らした。

減らしたつもりだった。

昼を過ぎると、街道は草地の間を通った。

風を遮る木が減り、荷の布が一定の向きへ押される。先には石造りの標識柱があり、その脇に小さな荷車が止まっていた。灰色の馬が首を下げ、御者台の男が柱の根元を覗き込んでいる。

アルシアは先に轍を見た。

荷車は街道から外れていない。馬の脚にも異常はない。周囲の草に、人や獣が潜んだ跡もなかった。

リエッタは標識柱の上を見ていた。

「灯りが消えてる」

「昼だ」

「蓄光の印も消えてる。夜だけの故障じゃないよ」

荷車の男が二人に気づいた。日に焼けた手を上げる。

「魔道具を見られるのか?」

「少しなら」

リエッタが答えた。

「少し」で済ませる声ではなかった。もう標識柱へ近づき、銅の蓋と石台の継ぎ目を見ている。

男は御者台から降りた。

「昨夜ここを通ったときも暗かった。帰りが日暮れに掛かるんでな。道の印が見えないと、林側へ入る荷車が出る」

標識柱には二方向の矢印が彫られていた。昼なら読める。夜は上部の灯りが正しい街道側だけを照らす仕組みだった。

アルシアは太陽の位置を見た。今日の野営地までは余裕がある。だが、余裕は怪我や天候のために残すもので、道具の修理に使うものではない。

リエッタは銅の蓋へ耳を寄せた。

「中で部品が外れてます。開けてもいいですか」

男が何度も頷いた。

アルシアは言った。

「中を見ろ。すぐ直らなければ行く」

リエッタは振り返らなかった。

アルシアの右手には父の杖がある。左前腕には、リエッタが作った防護具が袖の上から巻かれている。そのどちらも、今の標識灯を直せない。

「うん」

返事だけは素直だった。

リエッタは荷を下ろし、工具袋を開いた。細い鍵を蓋の穴へ差し、内部の留め具を押し上げる。錆びた音のあと、銅蓋が半分浮いた。

中には小さな導晶と、矢印の向きへ光を送る二本の銅線が収まっていた。片方の銅線が留め溝から外れ、蓋の裏に触れている。風で柱が揺れるたび、金属同士が擦れたらしい。線の表面は黒く曇っていた。

「折れてはいない」

リエッタの声が少し速くなる。

「留め具が緩んで線が逃げただけ。焦げたところを落として、溝へ戻せば点くと思う。導晶も割れてない」

「掛かる時間は」

「硬いパンを一枚食べるより短い」

男が笑った。アルシアは笑わなかったが、止めもしなかった。

リエッタは細い鑢で銅線の曇りを落とした。白い指に黒い粉が付く。留め溝へ線を戻し、予備の金具を一つ噛ませる。蓋を閉じる前に、工具袋から小さな試験用導晶を出した。

「アルシア、この棒を持ってて」

アルシアは父の杖を肘へ掛け、差し出された棒の端を押さえた。

「もう少し上。そう、そこで止めて」

リエッタはアルシアの顔を見ずに指示した。

試験用導晶を端子へ当てる。

標識灯の内側で、淡い黄の線が走った。二方向のうち、西へ向く矢印だけが光る。リエッタは導晶を離し、線が消えるまでの間を見た。

「蓄えるところも大丈夫。夜には点きます」

「もう直ったのか」

男が柱を覗いた。

「仮留めじゃないです。次に蓋を開けた人が迷わないよう、外れた場所へ印も付けました」

リエッタは銅蓋を閉じ、鍵を抜いた。作業を始めたときより、道具袋の中は整っている。

男は標識灯とリエッタを交互に見た。

「腕のいい魔道具師が一緒で助かったな」

「知っている」

言葉が先に出た。

リエッタがアルシアを見上げる。淡紫の目が一度瞬いた。

アルシアは支えていた棒を工具袋へ戻した。

「風が強くなる。行くぞ」

「うん」

リエッタの口元が緩んだ。笑われた理由を聞けば、今の言葉をもう一度言わされる気がした。

男は何度も礼を言い、荷車を東へ進めた。黄の矢印は導晶を外しているため消えていたが、磨かれた銅線だけが蓋の隙間で光を返した。

リエッタは黒くなった指を細布で拭いた。

「予定、崩れた?」

アルシアは空を見た。

「崩れていない」

「私がいても?」

「お前が直したからだ」

リエッタは細布を畳み、工具袋の外側へ差した。

「そっか」

それ以上は言わず、街道へ戻った。

今度はアルシアが先に歩き出すまで待たなかった。

野営地は、街道から少しだけ離れた高い草地に決めた。

西からの風は弱く、地面に新しい獣の跡はない。古い焚き火跡は土で覆われ、近くの低木にも折れた枝がなかった。誰かが使った場所だが、今夜戻る気配はない。

アルシアが荷を下ろすと、リエッタは先に地面を踏んだ。

「こっちは少し柔らかいね」

「水が残っている」

「じゃあ寝床は向こう。火は石の近く」

言いながら、リエッタは二人分の敷布を乾いた側へ運ぶ。

アルシアは止めなかった。風向きと火の位置を見直し、問題がないことだけを確かめた。

父の杖で地面を突く。石突きが、土の下にある平たい石へ当たった。

乾いた音だった。

五年前より前、三人で旅をした夜にも、同じ音を聞いたことがある。

アルバスは杖で地面へ寝床の線を引いた。まだ紫の髪だったリエッタが、その線の端へしゃがみ込み、土を指で崩した。

――ここだと、雨が来たら水が入るよ。

父は笑わず、なぜ分かる、と聞いた。リエッタは草の根と石の傾きを順に指し、杖を借りて別の場所へ線を引いた。

その夜、雨は降らなかった。

アルシアは、父がリエッタの好きにさせただけだと思っていた。翌朝、アルバスは古い線の窪みへ水を一杯流し、どちらへ落ちるか二人に見せた。水はリエッタが避けた場所に溜まった。

父は答えそのものよりも、先に地面を見たことを褒めた。次もそうしろと言った。

アルシアは石突きを平たい石から離した。

目の前では、リエッタが敷布の端へ石を置いている。風でめくれない位置を、一度で選んだ。

「何?」

見ていたことに気づかれた。

「そこなら濡れない」

「雨は降らないよ」

「降ってもだ」

リエッタは杖を見て、それから草地を見た。

「前にも、同じこと言われた気がする」

「父にか」

「アルシアに」

覚えていない。否定する根拠もなかった。

二人で火を起こし、硬いパンと乾燥豆を温めた。アルシアが鍋を見ている間に、リエッタは使った工具だけを布の上へ並べる。標識灯の修理に使った鑢を拭き、黒い粉が残っていないことを確かめてから袋へ戻した。

食事が終わる頃、空は濃い青へ変わった。

街道を通る荷車の音はもうない。焚き火の向こうにリエッタの白髪が見え、そのさらに外側は草の揺れだけになった。

アルシアは出入口のない場所でも、逃げる方向を二つ決めてから座った。

リエッタが左手首を持ち上げた。

流量針が、朝に刻んだ位置より低いところで揺れている。

「下がってる」

アルシアは自分の右手首を見た。角を落とした台座の針は、朝とほぼ同じ位置にある。

「いつからだ」

「食べる前は戻ってた。今見たら、ここ」

「手を出せ」

リエッタは焚き火を回り込まず、腕だけを火の脇へ伸ばした。

アルシアも身を寄せ、左手首を取る。

命紬の流れは、触れる前からあった。いつもと同じ圧で自分から抜け、リエッタへ渡っている。手を取ったのは、糸を繋ぐためではない。

親指を手首の内側に当てる。

脈は平常の速さへ戻っている。乱れはない。指先も冷えすぎてはいなかった。魔力の受け取りにも、途切れは感じない。

「苦しくないか」

「ないよ。眠くなってきたくらい」

「目眩は」

「ない」

「吐き気」

「ないです」

最後だけ、診療所で答えるような声になった。

アルシアは革帯の端を見た。昼の作業で細かな砂が入り、台座が肌からわずかに浮いている。砂を払い、革帯を穴一つ分だけ締める。

針が細かく震え、朝の印へ戻った。

「道具のずれだ」

「よかった」

リエッタは右手で台座を撫でた。

確認は終わった。

アルシアは親指の下で脈をもう一度数えた。数える必要はない。リエッタも腕を引かなかった。

火の中で細い枝が折れた。

「標識灯のとき」

リエッタが言った。

「何だ」

「途中から、手を出さなかったね」

「必要なかった」

「私の仕事だから?」

「そうだ」

リエッタの脈が指先に触れる。速くなったかは数えなかった。

「朝も、私の足だったよ」

声は柔らかいままだった。

アルシアは返す言葉を探した。朝の境界石で、リエッタは休まなくても歩けると言った。針もそう示していた。それでも止めた。

「次は聞く」

「休みたいか?」

「歩けるか」

「似てるけど、少し違うね」

「どっちがいい」

リエッタは火を見た。手首はまだアルシアの掌にある。

「歩けるか、でいいよ。歩けても休みたいときは、私から言う」

「分かった」

会話も終わった。

アルシアは指の力を緩めた。リエッタは手を引かなかった。掌の上で、手首だけが楽な位置へ少し傾いた。

離すなら、そのときだった。

火がもう一度鳴るまで、どちらも動かなかった。

アルシアは脈を数えるのをやめていた。

翌朝、草の先には露が溜まっていた。

火を消し、土を戻し、二人分の荷を背負う。アルシアは父の杖を右手に持った。リエッタが地図筒を荷の肩紐に留め、留め輪を引く。

街道へ戻る前に、アルシアは聞いた。

「歩けるか」

リエッタは流量針ではなく、自分の脚を見た。爪先を二度地面に当て、荷の位置を直す。

「歩ける。休みたくなったら言う」

「分かった」

草地を下りると、西の丘の間に低い屋根が見えた。朝の煙が数本上がり、街道沿いの標識に宿場レグナの名が刻まれている。

「今日中に着く?」

「あれは見えているだけだ。着くのは明日の夕方になる」

「そっか。じゃあ、今日は景色を目印に歩けるね」

リエッタは目を細め、煙の本数を数えた。

リエッタが笑い、草地の縁を歩き出す。アルシアは半歩先へ出ようとして、その歩調に足を合わせた。

背後の朝露に、二人分の足跡が残っていた。

宿場へ向かう二筋は、同じ歩幅で並んでいた。

第4章 了

TABLE OF CONTENTS

公開目次

  1. 01畳まれた毛布
  2. 02持ち帰られた依頼書
  3. 03旅支度の距離
  4. 04同じ道、違う願い
  5. 05一人部屋が二つ
  6. 06白い花の髪飾り
  7. 07エルドラ遺構
  8. 08熱のある手
  9. 09守護者の部屋
  10. 10罠の光
  11. 11命の距離
  12. 12帰る場所
  13. 13父の声を宿す球
  14. 14追跡者の印
  15. 15書庫都市オルフェン
  16. 16もう一人の紫
  17. 17名もない王女
  18. 18祝祭の夜
  19. 19姉という他人
  20. 20父が隠したもの
  21. 21王家の回収命令
  22. 22離れるための嘘
  23. 23選ぶ側
  24. 24白い王女の帰路
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