VOLUME I CHAPTER 04
第四章 同じ道、違う願い
鍵を抜いても、アルシアは扉に手を置いたままだった。
留め金は下りている。窓も閉めた。工房の炭炉には灰しか残っていない。昨夜と今朝で同じ場所を見たのだから、もう一度押す必要はなかった。
それでも扉は動かなかった。
「開いた?」
背後からリエッタが聞いた。
「閉めている」
「そっちか」
アルシアは手を離した。朝の光は母屋の壁を半分まで上がり、花壇の土には水が染みている。青い花の間に埋めた素焼きの壺は、縁だけが見えた。
玄関前へ運び出した二つの荷は、昨夜より固く締まっていた。リエッタは自分の肩紐を引き、工具が背中で動かないことを確かめる。白髪は後ろで一つに束ねてある。右手も迷わず留め具を引いていた。
アルシアは二つの荷の脇に立てた杖を取った。
「持つの?」
「私が持つ」
「昨日も聞いたよ」
リエッタはアルシアの荷から地図筒を抜き、自分の荷の肩紐に留めた。
「何をしている」
「杖の分」
「地図は軽い」
「じゃあ、次の休憩で替えるものを増やす」
何と替えるのかは言わなかった。リエッタは地図筒の留め輪を二度引き、先に門へ向かう。
アルシアは杖を右手に持った。石突きを地面へ置くと、乾いた音がした。父が持っていた頃より、その音は近く聞こえた。自分の手で鳴らしているせいだ。
杖を握り直し、門を閉じた。
西へ続く林道は、朝露をまだ残していた。
リエッタの歩調は崩れなかった。
林道を抜け、西部街道へ合流してからも同じだった。土の固い場所を選び、轍の深いところでは半歩だけ外へ寄る。荷の重みで肩が下がることもない。
アルシアは前を歩き、曲がり角ごとに後ろを見た。
一度目は、低い枝がリエッタの髪へ触れそうだったから。
二度目は、路肩の石が崩れていたから。
その次は、理由を探す前に振り返っていた。
「何かいる?」
「いない」
「さっきもいなかったね」
「確認している」
「何を?」
アルシアは道へ視線を戻した。
「後ろを」
答えになっていない。リエッタは追及せず、杖の石突きが作る音に自分の足音を重ねた。
朝の光が木々の上へ抜ける頃、街道脇に平らな境界石が見えた。休むには早い。リエッタの呼吸は乱れておらず、流量針も出発時の印から動いていない。
アルシアは境界石の前で足を止めた。
「休む」
リエッタが自分の針を見た。
「まだ歩けるよ」
「水を飲め」
「喉、乾いてないけど」
「乾いてからでは遅い」
リエッタの視線が、針からアルシアの顔へ上がった。
「私、遅れてないよね」
「遅れてから休んでも遅い」
口にしてから、言葉の形が悪いと分かった。
リエッタは少しだけ笑い、境界石に腰を下ろした。
「分かった。遅れないように休むね」
違う、と言うべきだった。
何が違うのかを口にすれば、休ませる理由まで言わなければならない。
アルシアは荷を下ろし、水筒を開けた。
「私も飲む」
「うん」
自分が飲みたいから止まったことにするには、遅かった。
リエッタは自分の荷を探り、乾燥林檎を一切れ差し出した。
「朝から食べてないでしょう」
「食べた」
「硬いパンを半分」
「見ていたのか」
「後ろを確認してたのはアルシアだけじゃないよ」
受け取らない理由がなくなった。アルシアは林檎を口に入れた。甘さより先に酸味が来る。
リエッタも別の包みから一切れ取り出した。
二つ買ったものは、同じ速さで減った。
休憩を終えてから、アルシアは振り返る回数を減らした。
減らしたつもりだった。
昼を過ぎると、街道は草地の間を通った。
風を遮る木が減り、荷の布が一定の向きへ押される。先には石造りの標識柱があり、その脇に小さな荷車が止まっていた。灰色の馬が首を下げ、御者台の男が柱の根元を覗き込んでいる。
アルシアは先に轍を見た。
荷車は街道から外れていない。馬の脚にも異常はない。周囲の草に、人や獣が潜んだ跡もなかった。
リエッタは標識柱の上を見ていた。
「灯りが消えてる」
「昼だ」
「蓄光の印も消えてる。夜だけの故障じゃないよ」
荷車の男が二人に気づいた。日に焼けた手を上げる。
「魔道具を見られるのか?」
「少しなら」
リエッタが答えた。
「少し」で済ませる声ではなかった。もう標識柱へ近づき、銅の蓋と石台の継ぎ目を見ている。
男は御者台から降りた。
「昨夜ここを通ったときも暗かった。帰りが日暮れに掛かるんでな。道の印が見えないと、林側へ入る荷車が出る」
標識柱には二方向の矢印が彫られていた。昼なら読める。夜は上部の灯りが正しい街道側だけを照らす仕組みだった。
アルシアは太陽の位置を見た。今日の野営地までは余裕がある。だが、余裕は怪我や天候のために残すもので、道具の修理に使うものではない。
リエッタは銅の蓋へ耳を寄せた。
「中で部品が外れてます。開けてもいいですか」
男が何度も頷いた。
アルシアは言った。
「どれくらい掛かる」
「見てから」
「先に決めろ」
「決めるために見るんだよ」
リエッタは振り返らなかった。
アルシアの右手には父の杖がある。左前腕には、リエッタが作った防護具が袖の上から巻かれている。そのどちらも、今の標識灯を直せない。
「見るだけだ」
「うん」
返事だけは素直だった。
リエッタは荷を下ろし、工具袋を開いた。細い鍵を蓋の穴へ差し、内部の留め具を押し上げる。錆びた音のあと、銅蓋が半分浮いた。
中には小さな導晶と、矢印の向きへ光を送る二本の銅線が収まっていた。片方の銅線が留め溝から外れ、蓋の裏に触れている。風で柱が揺れるたび、金属同士が擦れたらしい。線の表面は黒く曇っていた。
「折れてはいない」
リエッタの声が少し速くなる。
「留め具が緩んで線が逃げただけ。焦げたところを落として、溝へ戻せば点くと思う。導晶も割れてない」
「掛かる時間は」
「硬いパンを一枚食べるより短い」
男が笑った。アルシアは笑わなかったが、止めもしなかった。
リエッタは細い鑢で銅線の曇りを落とした。白い指に黒い粉が付く。留め溝へ線を戻し、予備の金具を一つ噛ませる。蓋を閉じる前に、工具袋から小さな試験用導晶を出した。
「アルシア、杖を持ってて」
「持っている」
「私のも」
渡されたのは、蓋を支える細い棒だった。アルシアは父の杖を肘へ掛け、棒の端を押さえた。
「もう少し上。そう、そこで止めて」
リエッタはアルシアの顔を見ずに指示した。
試験用導晶を端子へ当てる。
標識灯の内側で、淡い黄の線が走った。二方向のうち、西へ向く矢印だけが光る。リエッタは導晶を離し、線が消えるまでの間を見た。
「蓄えるところも大丈夫。夜には点きます」
「もう直ったのか」
男が柱を覗いた。
「仮留めじゃないです。次に蓋を開けた人が迷わないよう、外れた場所へ印も付けました」
リエッタは銅蓋を閉じ、鍵を抜いた。作業を始めたときより、道具袋の中は整っている。
男は標識灯とリエッタを交互に見た。
「腕のいい魔道具師が一緒で助かったな」
「知っている」
言葉が先に出た。
リエッタがアルシアを見上げる。淡紫の目が一度瞬いた。
アルシアは支えていた棒を工具袋へ戻した。
「蓋を閉めろ。風が強くなる」
「もう閉めたよ」
「なら、荷を持て」
リエッタの口元が緩んだ。笑われた理由を聞けば、今の言葉をもう一度言わされる気がした。
男は何度も礼を言い、荷車を東へ進めた。黄の矢印は導晶を外しているため消えていたが、磨かれた銅線だけが蓋の隙間で光を返した。
リエッタは黒くなった指を細布で拭いた。
「予定、崩れた?」
アルシアは空を見た。
「崩れていない」
「私がいても?」
「お前が直したからだ」
リエッタは細布を畳み、工具袋の外側へ差した。
「そっか」
それ以上は言わず、街道へ戻った。
今度はアルシアが先に歩き出すまで待たなかった。
野営地は、街道から少しだけ離れた高い草地に決めた。
西からの風は弱く、地面に新しい獣の跡はない。古い焚き火跡は土で覆われ、近くの低木にも折れた枝がなかった。誰かが使った場所だが、今夜戻る気配はない。
アルシアが荷を下ろすと、リエッタは先に地面を踏んだ。
「こっちは少し柔らかいね」
「水が残っている」
「じゃあ寝床は向こう。火は石の近く」
言いながら、リエッタは二人分の敷布を乾いた側へ運ぶ。
アルシアは止めなかった。風向きと火の位置を見直し、問題がないことだけを確かめた。
父の杖で地面を突く。石突きが、土の下にある平たい石へ当たった。
乾いた音だった。
五年前より前、三人で旅をした夜にも、同じ音を聞いたことがある。
アルバスは杖で地面へ寝床の線を引いた。まだ紫の髪だったリエッタが、その線の端へしゃがみ込み、土を指で崩した。
――ここだと、雨が来たら水が入るよ。
父は笑わず、なぜ分かる、と聞いた。リエッタは草の根と石の傾きを順に指し、杖を借りて別の場所へ線を引いた。
その夜、雨は降らなかった。
アルシアは、父がリエッタの好きにさせただけだと思っていた。翌朝、アルバスは古い線の窪みへ水を一杯流し、どちらへ落ちるか二人に見せた。水はリエッタが避けた場所に溜まった。
父は答えそのものよりも、先に地面を見たことを褒めた。次もそうしろと言った。
アルシアは石突きを平たい石から離した。
目の前では、リエッタが敷布の端へ石を置いている。風でめくれない位置を、一度で選んだ。
「何?」
見ていたことに気づかれた。
「そこなら濡れない」
「雨は降らないよ」
「降ってもだ」
リエッタは杖を見て、それから草地を見た。
「前にも、同じこと言われた気がする」
「父にか」
「アルシアに」
覚えていない。否定する根拠もなかった。
二人で火を起こし、硬いパンと乾燥豆を温めた。アルシアが鍋を見ている間に、リエッタは使った工具だけを布の上へ並べる。標識灯の修理に使った鑢を拭き、黒い粉が残っていないことを確かめてから袋へ戻した。
食事が終わる頃、空は濃い青へ変わった。
街道を通る荷車の音はもうない。焚き火の向こうにリエッタの白髪が見え、そのさらに外側は草の揺れだけになった。
アルシアは出入口のない場所でも、逃げる方向を二つ決めてから座った。
リエッタが左手首を持ち上げた。
流量針が、朝に刻んだ位置より低いところで揺れている。
「下がってる」
アルシアは自分の右手首を見た。角を落とした台座の針は、朝とほぼ同じ位置にある。
「いつからだ」
「食べる前は戻ってた。今見たら、ここ」
「手を出せ」
リエッタは焚き火を回り込まず、腕だけを火の脇へ伸ばした。
アルシアも身を寄せ、左手首を取る。
命紬の流れは、触れる前からあった。いつもと同じ圧で自分から抜け、リエッタへ渡っている。手を取ったのは、糸を繋ぐためではない。
親指を手首の内側に当てる。
脈は平常の速さへ戻っている。乱れはない。指先も冷えすぎてはいなかった。魔力の受け取りにも、途切れは感じない。
「苦しくないか」
「ないよ。眠くなってきたくらい」
「目眩は」
「ない」
「吐き気」
「ないです」
最後だけ、診療所で答えるような声になった。
アルシアは革帯の端を見た。昼の作業で細かな砂が入り、台座が肌からわずかに浮いている。砂を払い、革帯を穴一つ分だけ締める。
針が細かく震え、朝の印へ戻った。
「道具のずれだ」
「よかった」
リエッタは右手で台座を撫でた。
確認は終わった。
アルシアは親指の下で脈をもう一度数えた。数える必要はない。リエッタも腕を引かなかった。
火の中で細い枝が折れた。
「標識灯のとき」
リエッタが言った。
「何だ」
「途中から、手を出さなかったね」
「必要なかった」
「私の仕事だから?」
「そうだ」
リエッタの脈が指先に触れる。速くなったかは数えなかった。
「朝も、私の足だったよ」
声は柔らかいままだった。
アルシアは返す言葉を探した。朝の境界石で、リエッタは休まなくても歩けると言った。針もそう示していた。それでも止めた。
「次は聞く」
「休みたいか?」
「歩けるか」
「似てるけど、少し違うね」
「どっちがいい」
リエッタは火を見た。手首はまだアルシアの掌にある。
「歩けるか、でいいよ。歩けても休みたいときは、私から言う」
「分かった」
会話も終わった。
アルシアは指の力を緩めた。リエッタは手を引かなかった。掌の上で、手首だけが楽な位置へ少し傾いた。
離すなら、そのときだった。
火がもう一度鳴るまで、どちらも動かなかった。
アルシアは脈を数えるのをやめていた。
翌朝、草の先には露が溜まっていた。
火を消し、土を戻し、二人分の荷を背負う。アルシアは父の杖を右手に持った。リエッタが地図筒を荷の肩紐に留め、留め輪を引く。
街道へ戻る前に、アルシアは聞いた。
「歩けるか」
リエッタは流量針ではなく、自分の脚を見た。爪先を二度地面に当て、荷の位置を直す。
「歩ける。休みたくなったら言う」
「分かった」
草地を下りると、西の丘の間に低い屋根が見えた。朝の煙が数本上がり、街道沿いの標識に宿場レグナの名が刻まれている。
「今日中に着く?」
「あれは見えているだけだ。着くのは明日の夕方になる」
「そっか。じゃあ、今日は景色を目印に歩けるね」
リエッタは目を細め、煙の本数を数えた。
リエッタが笑い、草地の縁を歩き出す。アルシアは半歩先へ出ようとして、その歩調に足を合わせた。
背後の朝露に、二人分の足跡が残っていた。
宿場へ向かう二筋は、同じ歩幅で並んでいた。