VOLUME I CHAPTER 05
第五章 一人部屋が二つ
「歩けるか」
レグナの東門が見えてから、アルシアがそう聞いたのは二度目だった。
「歩けるよ」
リエッタは自分の脚を見て答えた。流量針も朝の位置にある。荷の肩紐は鎖骨に食い込んでいたが、宿場までの残りの道は、両側に畑が並ぶ緩い下り坂だけだった。
アルシアは頷き、前を向いた。
父の杖が土を打つ。昨日まで等間隔だった音が、ときどき半拍遅れた。
「アルシアは?」
「何だ」
「歩ける?」
返事の前に、杖の音が一つ入った。
「歩ける」
同じ問いに同じ言葉を返しただけなのに、声は朝より低く掠れていた。
リエッタはアルシアの右手首を見た。送り出し側の流量針は、歩きながら読み取れるほど大きくはない。立ち止まって確かめようかと思ったが、休みたいなら自分から言うと一昨日の夜に約束していた。
代わりに、肩からずり落ちた地図筒を直すため足を止める。
アルシアも止まった。
「結び直すだけ」
「そうか」
急かしはしなかった。けれど杖を持つ指が、開いてからもう一度閉じるのが見えた。
リエッタは髪の紐も外した。二日分の埃を払って束ね直そうとすると、白い髪が肩に落ちる。アルシアの視線が一度そこに触れ、すぐに東門の番小屋へ移った。
「できたよ」
紐は少し曲がった。直すほどではない。
二人が門をくぐる頃、夕日は宿場の屋根に半分隠れていた。
レグナには、家より先に看板が並んでいた。
馬の絵、車輪、湯気の立つ椀、寝台。街道沿いの建物は一階を店にしているものが多く、軒下には旅人の泥を落とす木べらが吊られている。荷車が二台すれ違うたび、人の声と蹄の音が壁の間で押し合った。
アルシアは三軒の宿の入口を見てから、厩と食堂が同じ屋根に収まった建物を選んだ。
「裏口があるから?」
「井戸が中庭にある」
「そっちなんだ」
出入口の数も見ていたはずだが、アルシアは答えなかった。
宿へ入ると、帳場にいた女主人が二人の荷と靴を順に見た。灰色の髪を頭の上で丸く留め、片手で宿帳を押さえている。
「食事付きで一泊かい?」
「そうだ」
アルシアが答えた。
「二人部屋なら奥が一つ空いてるよ。寝台は二つ。一人部屋なら向かいで二つ取れるけど、二人部屋の方が安い」
リエッタはアルシアを見た。
銀灰の目が、リエッタの曲がった髪紐に一度下り、帳場へ戻った。
「一人部屋を二つ」
考える間はなかった。
女主人が宿帳を二行使い、鉄の鍵を二本取り出す。鍵の頭には違う刻みが入っていた。片方がリエッタの前に置かれ、もう片方がアルシアの前まで滑る。
「私、お金なら――」
「明日の補給で出せ」
アルシアは袋から硬貨を出した。一枚が指の間から木の帳場台に落ち、平たい音を立てた。
アルシアが硬貨を落とすところを、リエッタはほとんど見たことがなかった。
拾おうとした二人の手が重なりそうになり、アルシアの方が先に引いた。女主人が硬貨を取り、何も言わず残りと一緒に数える。
「階段を上がって突き当たり。夕食は日が落ちたら下で出すよ」
二本の鍵が、それぞれの掌に渡された。
アルシアの耳の下が赤い。外を歩いてきたあとの火照りなのか、帳場の灯りのせいかは分からなかった。
階段の突き当たりには、向かい合う扉が二枚あった。
「どっちがいい?」
リエッタが聞くと、アルシアは右の扉に鍵を差した。
「こっちにする」
「じゃあ、私はこっちだね」
左の扉を開ける。寝台が一つ、椅子が一つ、壁の掛け金も一つだった。窓辺には水差しと杯が一組置かれている。
一人部屋なのだから、数は合っていた。
リエッタは荷を寝台の脇に下ろした。地図筒を壁に掛け、工具袋を椅子の下に入れる。向かいで扉の閉まる音がしたあと、廊下から物音が消えた。
一昨日の夜は、火を挟んで手首を渡した。
今夜は、扉が二枚ある。
リエッタは水差しから杯に水を注ぎ、一口飲んだ。厚い陶杯の縁は、唇に冷たかった。
向かいの部屋で、水を注ぐ音がした。続いて短い咳が一つ聞こえ、すぐに途切れる。
リエッタは卓に置いた鍵を取りかけた。階下で夕食を知らせる鐘が鳴り、指を離した。
食堂へ下りると、アルシアは壁際の卓に座っていた。
出入口と階段の両方が見える席だった。向かいには、豆と根菜の煮込みが二椀置かれている。片方の椀から上がる湯気はまだ太い。
「頼んでくれたの?」
「遅い」
「髪、直してた」
アルシアの視線が一度、リエッタの肩口まで下りた。結び直した紐は、部屋の鏡で見てもやはり曲がっていた。
「座れ。冷める」
リエッタは向かいに座った。
煮込みには街道で食べた乾燥豆より大きな豆が入り、塩気も強かった。最初の一口で舌が温まり、二口目には空腹を思い出す。
アルシアはパンを小さく割っていた。食べる速さはリエッタより遅い。椀を口元まで運んでも、すぐ卓に戻す。
「味、濃い?」
「普通だ」
「熱い?」
「お前は食べろ」
正面から返ってこない答えだった。
そのとき、斜め後ろの卓で椅子が鳴った。
旅装の女が一人、外套を椅子の背に掛けている。短く切った茶色の髪には砂が残り、革の胸当ての縁は白く擦れていた。女主人が空の杯を取りに来ると、女は腰の袋を探りながら言った。
「西の道はしばらく使わないよ。エルドラの入口までで靴底が一枚なくなった」
リエッタの匙が止まった。
女がこちらを見る。
「行くのか?」
「エルドラへ?」
「その顔は行く顔だな」
どういう顔だろう。リエッタは自分の頬に触れた。
「調査で行きます。中のこと、知ってるんですか?」
女は空いている椅子を見た。リエッタたちの卓には四脚あり、二脚が使われていない。
「座っても?」
リエッタはアルシアを見た。
アルシアは椀の脇に匙を置いた。
「聞けるうちに聞け」
女は卓の端の椅子を引いた。女主人から新しい杯を受け取り、卓の脇に置く。
「私は入口と上の水路までだ。深いところの話は、戻った連中から聞いた。だから、見た話と聞いた話は分けるぞ」
「助かります」
リエッタは椅子の下から小さな記録帳を出した。工具の寸法を書くためのもので、紙の端には銅粉が染みている。
「まず、見た方からお願いしてもいいですか」
女は頷いた。
入口近くの石段は、夕方になると地面から熱が上がる。上層の水路には今も水音があるが、流れが見えない場所がある。壁際の古い通信灯は、同じ列でも点くものと消えるものが混じっていた。
リエッタは三つに分けて書いた。
熱。水音。灯り。
「灯りは、入口から何個目でした?」
「数えてない。左の壁に三つ並んで、真ん中だけ消えていた場所は覚えてる」
「壊れている音は?」
「しなかったな。叩いてないぞ」
「叩かないでくれてよかったです」
「叩きそうに見えたか?」
「ちょっとだけ」
女が笑った。リエッタも笑う。
アルシアは笑わなかったが、記録帳に目を向けた。
「深部の話は」
短い声で促す。
女は杯を置いた。
「守り手がいるらしい。石像だと言う奴と、空の鎧だと言う奴がいる。剣が通らないってところだけは同じだ」
リエッタは見た話の下に線を引き、その先に聞いた話と書いた。
「同じ人が両方を見たわけじゃないんですね」
「そうだ。石像だと言っていた男は、入口で会った運び屋から聞いた。鎧を見たって話は、怪我人を運んだ薬師からだ」
「動き方は?」
「速い、重い、音がしない。酒場を一軒回るたび、都合よく強くなる」
「じゃあ、今のところは形も速さも分からない」
「話を聞いてがっかりしないのか」
「分からないところが分かったので」
女は杯を持ち上げたまま、リエッタを見た。
「話しやすいな、あんた」
「聞きたいことが多いだけです」
「それを話しやすいって言うんだよ」
また笑い声が重なった。
アルシアの左手が袖口の留め具に触れた。外れていない金具を親指で一度押し、すぐに手を下ろす。
リエッタは守り手の下に、形・速さ・起動条件は不明、と書く。
「もう一つある」
女が声を落とした。
「床が光って、人が消えたって話だ」
リエッタの鉛筆が止まる。
アルシアも顔を上げた。
「死んだのか」
「生きて戻った。閉じた水門の向こうにいたそうだ。仲間とは別の通路に出て、半日後に合流した」
「光った形は?」
「輪だったと言う奴と、星だったと言う奴がいる。青白かったのは同じだ。踏んだのか、壁に触ったのか、それも食い違ってる」
リエッタは紙の余白に、小さな輪を描いた。輪の中には星を描かない。
「消えた人から直接聞いたんですか?」
「いや。そいつと一緒だった弓使いから聞いた。消えた本人は、装備が乾くのも待たずに先に街道を戻った」
アルシアの指が、椀の縁で止まった。
「自分で歩いたのか」
「歩いた。片脚は引きずってたそうだが、飛ばされたときの傷か、戻る途中の傷かは分からない」
女の答えを聞きながら、リエッタはアルシアの耳の下を見た。
帳場で見えた赤みは、まだ消えていない。
「アルシア、顔が赤いよ」
「歩ける」
「今はそれ、聞いてない」
「話を続けろ」
アルシアは椀の中身を半分残したまま立ち上がった。
「先に戻る」
「もう?」
「情報は最後まで聞け。出発前に見る」
「一緒に聞かなくていいの?」
アルシアは卓の端に置いた自分の鍵を取った。
「お前が聞いた方が詳しい」
女に会釈し、階段へ向かう。リエッタに話をやめろとは言わなかった。
ただ、振り返らなかった。
女がアルシアの残した椀を見た。
「連れ、疲れてるんじゃないか」
「二日半、歩いたから」
答えてから、リエッタは自分の椀を見た。底が見えている。アルシアを待たせている間、自分だけ食べ終えていた。
「続き、短くしてもらってもいいですか」
「もちろんだ」
女は話を水路の位置と、噂を聞いた相手の特徴だけに絞った。消えた人物が見つかったとき、靴は足首まで濡れ、外套には水滴がなかったという。リエッタは転移先、水路の浅瀬、と疑問符付きで書き、見た事実に丸、伝聞に三角を付けた。
最後に礼を言い、女の飲み物一杯分を払った。
食堂を出るとき、アルシアの椀から湯気は消えていた。
自分の部屋へ戻り、リエッタは記録帳を開いた。
一人分の卓は、地図筒と工具袋を載せるだけで埋まった。椅子を寝台に寄せ、聞いた話を新しい紙に写す。
上段には、女が見たもの。
地熱。見えない水流。列の中で一つだけ消える通信灯。
下段には、伝聞。
深部の守り手。材質、速度、起動条件は不明。青白い転移らしき光。輪か星か、接触条件は不明。転移した人物は別の水路に出て、自力で帰還。脚の負傷原因は不明。
断定できないものには線を引かず、疑問符を付けた。
アルシアなら、最初に情報源を確認する。誰が見たか、いつ見たか、間に何人入ったか。リエッタが話を聞き続けたのも、そこを分けるためだった。
それでも、待たせたことは変わらない。
二人部屋なら、戻ったときに紙を見せられた。声が掠れていたなら、水を渡せた。額に手を当てる理由も探せたかもしれない。
一人部屋を二つ選んだのは、アルシアだった。
リエッタは紙を一度だけ折った。
廊下へ出る。向かいの扉の下には、細い灯りが残っていた。
紙を敷居の前に置こうと屈むと、床板が鳴った。
「リエッタか」
扉の向こうから声がした。
「起こした?」
「起きている」
近くで聞いても、声はやはり少し掠れていた。
「さっきの話、罠のところだけまとめたの。見た話と聞いた話も分けた。ここに置いていい?」
短い間があった。
「下から入れ」
リエッタは紙を床に置き、指先で押した。折った端が敷居に一度引っ掛かり、向こうから引かれて見えなくなる。
「助かる」
「待たせてごめんね」
「待っていない」
胸の内側で、小さな歯車が空回りした。
「そっか」
リエッタは取っ手へ手を伸ばさなかった。
「明日は日の出に食堂だ」
向こうからアルシアが言った。
「市場が開いたら補給する。正午の鐘より前に西門を出る」
「分かった。遅れないよ」
「歩けるかは、朝に聞く」
一昨日決めた言葉を、アルシアは覚えていた。
「うん。休みたかったら、私から言う」
「そうしろ」
「アルシアもね」
返事はすぐには来なかった。
扉の向こうで、水差しが杯に触れる音がした。
「分かった」
今度は、アルシアが言った。
リエッタは自分の扉へ戻った。
「おやすみ」
「おやすみ」
同じ言葉が、閉じた扉の前で半分重なった。
リエッタが部屋へ入り、鍵を回す。
廊下には、向かい合う二枚の扉だけが残った。
その下から、同じ色の灯りが細く漏れていた。