VOLUME I CHAPTER 03
第三章 旅支度の距離
翌日の昼前、依頼書の折れた角はガルドの親指の下にあった。
リュネ冒険者ギルドの小机に、四つ折りの紙と昨夜の記録紙が並んでいる。窓から入る光は白いが、机に伏せた紙の内側までは見えなかった。
ガルドは先に記録紙を読んだ。
遺物へ直接魔力を流さない。
単独で先へ進まない。
どちらか一人が退却を求めた場合、二人で退く。
最後の一行で、古傷のある左手が止まった。
「これは、どっちが書いた」
「私です」
「決めたのは」
「二人で」
リエッタが答えると、隣に立つアルシアが短く頷いた。
ガルドは二人の顔を順に見た。疑っているのか、確かめただけなのか、リエッタには読めない。やがて太い指で紙の余白に印を一つ付けた。
「現場でも忘れるな」
「忘れません」
「お前は道具を見つけたら忘れる」
「今回は書いてあります」
「紙を忘れるなよ」
返す言葉を探している間に、ガルドは依頼書をリエッタの前へ回した。同行者の欄が空いている。
アルシアの名は、その一段上にあった。角張った字で、必要な幅だけを使っている。
リエッタはペンを取った。
自分の名を書くだけなのに、紙が少し遠い。椅子を引き寄せ、折れた角を左手で押さえる。昨夜二人の指が重なった折り目は、白い筋になって残っていた。
リエッタ、と書く。
最後の払いを終えると、ガルドが依頼書を取り上げた。
「これで正式受理だ。出発は八日の朝。遅らせるなら前日までに知らせろ」
「遺物が逃げた場合は?」
「報酬を上げる」
リエッタは笑った。ガルドも今度は声を上げて笑い、アルシアだけが依頼書の下段を見ていた。
「昨日の注意書きですが」
リエッタは記録紙の端に指を置いた。
「石壁で通信具が乱れる、というところ。距離が開いたときだけですか」
ガルドの笑いが引いた。
「いや。今朝、先遣の追加記録が届いた。同じ部屋で試した二つの通信灯のうち、一方だけが消えた場所がある」
「同じ部屋で?」
「間に柱が一本あった。消えたほうの通信灯を柱から数歩ずらすと、また点いたそうだ」
距離だけの問題ではない。
石に含まれるものか、壁の裏を走る古い術式か。狭い範囲に、魔力の流れを逸らす箇所がある。強い力を流せば抜けるのかもしれないが、何に繋がるか分からない遺構内で試す手ではなかった。
リエッタは記録紙に短く書き足した。
増幅しない。流量は各自の手元で測る。角を曲がるときは非魔法の連絡手段を使う。
「命紬にも同じことが起きると思うか」
ガルドの問いに、すぐには答えなかった。
「同じとは限りません。でも、違うと確かめるために離れるのは駄目です」
「そうだな」
横からアルシアの手が伸び、記録紙を自分の側へ引いた。書き足した三行を読み、二行目の「各自」に指を置く。
「何を作る」
「流れを見る針。送る道具じゃなくて、それぞれの手首で出入りを測るだけのもの」
「石の影響は」
「受けるかもしれない。だから針だけには頼らない。細い綱も持つ。見えない角では結んで進む」
「切れたら」
「止まる」
「針が落ちたら」
「止まる」
「お前が先に仕掛けを見つけても」
「止まります」
アルシアの指が記録紙から離れた。
ガルドは依頼書に受理印を押し、記録用の写しを机の脇へ退けた。原本を二人に返す。リエッタは受け取る前に、紙を窓の光にかざした。
星と細い輪が、薄く浮かぶ。
「この印、支部のものですか」
ガルドが紙を受け取り、自分でも透かした。眉の間に深い皺が寄る。
「違う。支部で星は使わん」
「では、何の印です?」
「分からん。俺が印を押す前からあった」
「元の調査紙にもありますか」
「まだ照らし合わせていない。戻る頃までに、先遣の記録とまとめて出す」
戻ってから。
リエッタはその言葉を記録紙に書かなかった。
依頼書を畳み、工具袋の平らな仕切りに入れる。今度は折れた角を直そうとしなかった。
市場の奥にある旅支度店へ入ると、アルシアは最初に縄を見た。
市場の入口でリエッタが食料の屋台を見ていた時間より、縄の撚りを指で確かめる時間のほうが長い。一本を持ち上げて重さを確かめ、別の一本は端を解いて中まで乾いているかを見る。
「細い綱は私が選ぶよ」
「お前は切れにくさを見る。私は足に絡んだとき切れるかを見る」
「両方いるね」
「だから見ている」
アルシアは太い縄と細い綱を一本ずつ残し、ほかを棚へ戻した。
二人で買い物に来ることは珍しくない。工房の材料が多い日はアルシアが運び、食料が多い日はリエッタが値段を比べる。けれど今回は、買ったものがすべて何日も家を空ける形をしていた。
油を含ませた布。替えの留め具。乾燥豆。硬いパン。冷却具を包む断熱布。
品名だけを追うと、昨日の記録紙と変わらない。手に取ったとき、その物を誰が使うかで重さが変わった。
アルシアが金具の箱を見ている間に、リエッタは乾燥林檎の包みを一つ籠の底に入れた。
旅の最初の日、アルシアは食べ物を後回しにする。声を掛けても「あとで」と言い、立ったまま食べられる物だけは無言で受け取る。乾燥林檎なら、歩きながらでも口にする。
その横に、油引きの細布を一巻き置く。手袋の縫い目が裂けたとき、革の裏に当てられる。どちらも買い物の一覧にはなかった。
アルシアが戻ってきたので、リエッタは上から乾燥豆の袋を載せた。
「何を入れた」
「食料」
「見れば分かる」
「じゃあ、聞かなくてもいいね」
アルシアは籠の底を探らなかった。
次の棚で、リエッタが薄い銅板の反りを見比べている間、籠が少し重くなった。振り返るとアルシアは替えの靴紐を選んでいる。籠の上には何も増えていない。
見間違いかもしれない。
会計台で店主が品物を一つずつ並べた。
縄、細い綱、断熱布、乾燥豆。続いて、乾燥林檎の包みが二つ出た。
リエッタは一つを指した。
「それ、同じものです」
「同じだな」
店主が答え、二つを重ねる。
「一つ戻すかい」
「戻しません」
「戻せ」
リエッタとアルシアの声が重なった。
二人で顔を向ける。
「アルシアが入れたの?」
「お前が入れたのか」
「先に聞いたのは私」
アルシアは答えず、店主の手元を見た。
油引きの細布も二巻き出てきた。
「これも二つだね」
店主は余計なことを言わず、二組を会計台の端へ寄せた。
「林檎はアルシアが歩きながら食べる用」
「お前が作業中でも食べる用だ」
「細布は手袋の補修」
「工具の柄を巻き直す」
理由まで、きれいにずれていた。
リエッタは二つの包みを見た。片方を戻せば、どちらかの理由を選ぶことになる。
「両方ください」
「多い」
「食べ物は食べれば減るよ」
「布は」
「アルシア、よく破るでしょう」
「お前の工具がだ」
店主が二巻きとも袋に入れた。アルシアは止めなかった。
市場を出ると、荷は行きより重くなっていた。太い縄をアルシアが持ち、細い綱と材料袋をリエッタが持つ。乾燥林檎はどちらの袋にも入れず、二人の間の籠に残った。
翌日、リエッタは工房の窓辺に二枚の薄い銅板を並べた。
一枚は流量を見る針の台座。もう一枚は、小型防護具の外殻になる。
防護具の銅板だけ、アルシアの前腕に沿うよう浅く曲げてある。内側に薄い革を張り、衝撃を受けた瞬間だけ導晶へ逃がす溝を刻んだ。強い力を散らす代わりに、導晶は一度で熱を持つ。刃や持続する圧力には効かない。
刃を受けるにも、長く押し返すにも足りない。けれど、崩れた石の一つを横へ逸らせれば、アルシアが次の足を置く間は作れる。
リエッタは溝に銀線を押し込み、木槌の柄で端を均した。右手の甲に残っていた赤みは、もう薄い。握る動作にも支障はない。
扉の前で足音が止まった。
「入るよ」
「もう入ってる」
アルシアは返事と同時に工房へ入り、作業台の上を見た。最初に針の台座、次に銅板、その後でリエッタの指に視線が移る。
「手は」
「治った」
「見せろ」
「赤くないよ」
「そうか」
言いながらも、アルシアは手の甲を確かめた。触れはしない。リエッタが指を広げて見せると、ようやく銅板を取った。
「これは」
「余った銅板と導晶で作ったもの。持っていっていいよ」
アルシアが裏返す。
革帯の穴は、彼女の腕に合わせた位置に三つだけ開けてある。溝の向きも、アルシアが風圧を放つときに手首を返す動きを妨げないよう調整した。余り物であるのは材料だけだった。
「性能は」
「急な衝撃を横へ逃がす。一度、強い力を受けたら外して。熱くなった導晶が腕を傷める」
「刃は」
「止められない。熱も駄目。正面から受けなかった力にも反応しにくい」
アルシアは棚の端から、試験用の木片を取った。防護具を木片に巻き付け、作業台の万力に固定する。銅板の端には、逃がした力の向きを見る小さな重りが細糸で吊られていた。
「ちょっと、今やるの?」
「使う前に試す」
「私がもう試したよ」
「お前が使うわけじゃない」
アルシアは木片から半歩離れた。短く息を吐き、指先に風を集める。工房の紙片が一方向に伏せた。
「弱くしてね」
風圧が木片に当たった。
銅板の溝が淡く光り、吊るしていた重りが横へ揺れる。木片は万力から外れなかった。導晶の表面に熱が集まり、油を薄く塗った革から匂いが立つ。
アルシアはすぐに魔法を止めた。銅板に指を近づけ、触れる前に熱を読む。
「逃げる向きが一定じゃない」
「姿勢で変わるから。腕を上げて受ける前提」
「転んでいたら」
「効かないと思って」
「分かった」
アルシアは防護具を木片から外した。
試した個体を持っていくつもりなら、導晶を替えなければならない。リエッタが手を出すより早く、アルシアは作業台の隅に置いた予備を見つけた。
「これか」
「うん。溝の向きがあるから、私が——」
最後まで言う前に、アルシアは留め具を外し、焼けた導晶を抜いた。新しい導晶の刻みを銅板の印に合わせ、銀線を挟まない角度で押し込む。
一度、裏から見直す。
間違っていなかった。
「いつ覚えたの?」
「お前が作っている間に見た」
「ずっと?」
「必要なところだけだ」
アルシアは革帯を自分の左前腕に巻いた。袖の上から位置を直し、手首を曲げる。銅板は関節を邪魔しなかった。
余った物なら、試験が終われば棚へ戻せばいい。
アルシアは外さなかった。
リエッタは針の台座に向き直った。
「そっちは二つ作るから」
「流量を見るものか」
「うん。片方はアルシアの送り出し、片方は私の受け取りを見る。針が落ちても、相手の状態は分からない。石の影響か、距離か、私たち自身の変化かも区別できない」
「分かるのは」
「進むのをやめる時だけ」
「十分だ」
リエッタは細い針を台座に置いた。
窓辺には同じ大きさの台座が二つ並んだ。銀線の長さも、革帯の穴の数も同じにした。
革帯の油が乾くのを待ってから、二人は台座を手首に巻いた。アルシアは防護具と重ならない右に、リエッタは左に。アルシアがいつもの流れを整えると、二本の針が細かく振れ、それぞれ止まった。
同じ位置ではない。
送り出す側と受け取る側では、針を押す向きも強さも違う。リエッタは双方の位置を台座に刻み、印の脇に名前を書きかけてやめた。形で見分けられるよう、アルシアの台座だけ角を一つ落とす。
「入れ替えたら」
「すぐ分かる。でも暗かったら触って確かめて」
アルシアは目を閉じ、二つを順に撫でた。角を落とした台座を迷わず自分の手元に置く。
次は細い綱を廊下まで伸ばした。工房の戸を半分閉めると、アルシアの姿は壁の向こうへ消える。綱が一定の速さで手の中から出ていく。リエッタは途中で持つ力を抜いた。
向こうの足音が止まった。
「引かれたら止まるんじゃないの?」
「張りがなくなった時点で止まる。引かれるまで進んだら遅い」
「綱が柱に掛かったら」
「掛けた側が戻す。外せないなら二人で戻る」
戸の向こうで足音が戻る。リエッタは緩んだ綱を手の中に巻き取り、アルシアが見えるまで動かなかった。
流れが読めなくなったとき、針も綱も相手の無事を教えてはくれない。ただ、先へ行かない理由を一つずつ増やしていた。
四日目の夜、工房の棚からアルバスの研究帳を下ろした。
革表紙は何度も開いた場所だけ柔らかい。机に置くと、金具が乾いた音を立てる。リエッタはその横に、旅用の油布を広げた。
研究帳を丸ごと持っていくか、必要な頁だけにするか。
朝から何度考えても、答えを先へ送っていた。
持っていけば、遺構の中で父の記録をすぐ確かめられる。知らない術式に出会ったとき、一枚足りないために判断を誤るかもしれない。
けれど水路で濡らすか、崩落で失えば、残りは戻らない。
リエッタは革表紙を開いた。
命紬の結び目を描いた頁。切断前に代わりの流れを用意せよ、と薄い墨で記された頁。石壁と古い水路の断面を、何度も書き直した頁。
その次には、小さな星形が切り抜かれた紙がある。切り口は古く、何かの印を写すために父が使ったのだと思っていた。星から伸びる線は途中で消え、何に繋がるかは描かれていない。
ギルドでガルドに見せた依頼書にも、星があった。
似た形は珍しくない。星を印に使う職人も、古い施設もある。しかも紙に残る輪は半分が欠け、依頼書と同じ印かどうかは重ねても決められない。ガルドが元の調査紙を照らし合わせれば、印が現場から来たのか、紙の偶然なのかは分かるかもしれなかった。
戻ってから確かめるものが、また一つ増えた。
リエッタは綴じ糸を緩めた。紙を破らないよう、必要な頁の束だけを金具から抜く。切断手順、古い水路、星形の切り抜き。残した頁がずれないよう、新しい糸で表紙を綴じ直した。
抜いた頁を油布で包み、細い紐を二度回す。
研究帳本体は棚へ戻さなかった。
工房の奥にある木箱を開け、乾燥剤と一緒に入れる。蓋を閉じ、留め具を掛ける。帰ってきたら、抜いた頁を同じ場所へ戻す。
箱の上に工具を一つ置きかけ、やめた。隠してもアルシアは見つけるし、隠す相手でもない。
工房を出ると、庭から土を擦る音がした。
アルシアが花壇の前に膝をついている。
昼間に用意した小さな素焼きの壺を、青い花の株の間に埋めていた。壺には細い穴があり、満たした水が少しずつ土へ染みる。表面には乾いた葉を重ね、日中の熱で水が逃げないよう押さえている。
リエッタは石段に座った。
「何日くらい持つの?」
「雨が降らなくても、帰るまでは」
アルシアは顔を上げずに答えた。
「予定より遅れたら?」
「もう一つ増やす」
「壺を?」
「水を」
すでに横に二つ目があった。
アルシアは土を戻し、株の根元を指で押さえた。旅へ持っていく手袋ではなく、庭仕事用の古い手袋を使っている。手袋の指先に泥が付いていた。
「花壇だけじゃないよね」
「何が」
「朝から戸締まりを三回見てる」
「二回だ」
「工房と母屋で二回ずつ」
アルシアの手が土の上で止まった。
「窓枠が一つ緩んでいた」
「直してたね」
「帰ってきたとき外れていたら困る」
リエッタは膝に頬を載せた。
アルシアは土を均し、余った水を壺に足した。帰ってきたとき、という言葉を言い直さなかった。
命紬を解くものが見つかれば、次の旅で二人分の荷を並べる理由はなくなるかもしれない。
それでも明日の旅には、帰る場所が要る。
リエッタは立ち上がり、空になった水差しを取った。
「もう一杯、汲んでくる」
「重い」
「空だよ」
「戻りは重い」
アルシアが手を出す。
リエッタは水差しを渡さず、代わりに小さな水桶を押しつけた。
「じゃあ半分ずつ」
アルシアは水桶を見た。断る理由を探しているようだったが、やがて受け取った。
井戸から戻ると、母屋の窓はすべて閉まり、勝手口の留め金も下りていた。工房の作業台には布が掛けられ、炭炉の灰は冷えている。寝る前にもう一度確認するだろう。
玄関には二つの荷が並んでいた。
リエッタの荷には工具と、油布で包んだ頁。アルシアの荷には地図、食料、野営具。重さが偏らないよう、太い縄と細い綱、冷却具は二つの荷に振り分けてある。
乾燥林檎も一包みずつ入っていた。
「杖も持っていくの?」
アルシアは食卓の脇に立ててあった古い杖を取った。
アルバスが使っていたものだ。黒い木の表面は手の触れたところだけ滑らかで、石突きには細かな傷が重なっている。五年前から、アルシアが手入れだけは続けてきた。
「古い術式なら、父の杖が反応するかもしれない」
「記録にはなかったよ」
「なくても持つ」
アルシアは布で石突きを拭き、革紐の緩みを確かめた。自分の荷に括ろうとする。杖は荷より長く、石突きが底から大きくはみ出した。歩けば脚に当たる。アルシアは革紐を解いた。
「明日、持つ人を決めよう」
「私が持つ」
「工具もあるでしょう」
「お前より余裕がある」
「だから明日」
リエッタは杖を二つの荷の間へ立て掛けた。
アルシアが何か言いかけ、やめた。代わりに玄関の扉を一度引き、留め金が掛かることを確かめる。
二人分の荷は、肩紐を同じ向きにして並んでいた。
その間で、アルバスの古い杖がまっすぐ立っていた。