笑わない魔女と、笑顔絶えぬ魔道具師
第一巻04 / 10

VOLUME I CHAPTER 04

第四章 同じ道、違う願い

鍵を抜いても、アルシアは扉に手を置いたままだった。

留め金は下りている。窓も閉めた。工房の炭炉には灰しか残っていない。昨夜と今朝で同じ場所を見たのだから、もう一度押す必要はなかった。

それでも扉は動かなかった。

「開いた?」

背後からリエッタが聞いた。

「閉めている」

「そっちか」

アルシアは手を離した。朝の光は母屋の壁を半分まで上がり、花壇の土には水が染みている。青い花の間に埋めた素焼きの壺は、縁だけが見えた。

玄関前へ運び出した二つの荷は、昨夜より固く締まっていた。リエッタは自分の肩紐を引き、工具が背中で動かないことを確かめる。白髪は後ろで一つに束ねてある。右手も迷わず留め具を引いていた。

アルシアは二つの荷の脇に立てた杖を取った。

「持つの?」

「私が持つ」

「昨日も聞いたよ」

リエッタはアルシアの荷から地図筒を抜き、自分の荷の肩紐に留めた。

「何をしている」

「杖の分」

「地図は軽い」

「じゃあ、次の休憩で替えるものを増やす」

何と替えるのかは言わなかった。リエッタは地図筒の留め輪を二度引き、先に門へ向かう。

アルシアは杖を右手に持った。石突きを地面へ置くと、乾いた音がした。父が持っていた頃より、その音は近く聞こえた。自分の手で鳴らしているせいだ。

杖を握り直し、門を閉じた。

西へ続く林道は、朝露をまだ残していた。

リエッタの歩調は崩れなかった。

林道を抜け、西部街道へ合流してからも同じだった。土の固い場所を選び、轍の深いところでは半歩だけ外へ寄る。荷の重みで肩が下がることもない。

アルシアは前を歩き、曲がり角ごとに後ろを見た。

一度目は、低い枝がリエッタの髪へ触れそうだったから。

二度目は、路肩の石が崩れていたから。

その次は、理由を探す前に振り返っていた。

「何かいる?」

「いない」

「さっきもいなかったね」

「確認している」

「何を?」

アルシアは道へ視線を戻した。

「後ろを」

答えになっていない。リエッタは追及せず、杖の石突きが作る音に自分の足音を重ねた。

朝の光が木々の上へ抜ける頃、街道脇に平らな境界石が見えた。休むには早い。リエッタの呼吸は乱れておらず、流量針も出発時の印から動いていない。

アルシアは境界石の前で足を止めた。

「休む」

リエッタが自分の針を見た。

「まだ歩けるよ」

「水を飲め」

「喉、乾いてないけど」

「乾いてからでは遅い」

リエッタの視線が、針からアルシアの顔へ上がった。

「私、遅れてないよね」

「遅れてから休んでも遅い」

口にしてから、言葉の形が悪いと分かった。

リエッタは少しだけ笑い、境界石に腰を下ろした。

「分かった。遅れないように休むね」

違う、と言うべきだった。

何が違うのかを口にすれば、休ませる理由まで言わなければならない。

アルシアは荷を下ろし、水筒を開けた。

「私も飲む」

「うん」

自分が飲みたいから止まったことにするには、遅かった。

リエッタは自分の荷を探り、乾燥林檎を一切れ差し出した。

「朝から食べてないでしょう」

「食べた」

「硬いパンを半分」

「見ていたのか」

「後ろを確認してたのはアルシアだけじゃないよ」

受け取らない理由がなくなった。アルシアは林檎を口に入れた。甘さより先に酸味が来る。

リエッタも別の包みから一切れ取り出した。

二つ買ったものは、同じ速さで減った。

休憩を終えてから、アルシアは振り返る回数を減らした。

減らしたつもりだった。

昼を過ぎると、街道は草地の間を通った。

風を遮る木が減り、荷の布が一定の向きへ押される。先には石造りの標識柱があり、その脇に小さな荷車が止まっていた。灰色の馬が首を下げ、御者台の男が柱の根元を覗き込んでいる。

アルシアは先に轍を見た。

荷車は街道から外れていない。馬の脚にも異常はない。周囲の草に、人や獣が潜んだ跡もなかった。

リエッタは標識柱の上を見ていた。

「灯りが消えてる」

「昼だ」

「蓄光の印も消えてる。夜だけの故障じゃないよ」

荷車の男が二人に気づいた。日に焼けた手を上げる。

「魔道具を見られるのか?」

「少しなら」

リエッタが答えた。

「少し」で済ませる声ではなかった。もう標識柱へ近づき、銅の蓋と石台の継ぎ目を見ている。

男は御者台から降りた。

「昨夜ここを通ったときも暗かった。帰りが日暮れに掛かるんでな。道の印が見えないと、林側へ入る荷車が出る」

標識柱には二方向の矢印が彫られていた。昼なら読める。夜は上部の灯りが正しい街道側だけを照らす仕組みだった。

アルシアは太陽の位置を見た。今日の野営地までは余裕がある。だが、余裕は怪我や天候のために残すもので、道具の修理に使うものではない。

リエッタは銅の蓋へ耳を寄せた。

「中で部品が外れてます。開けてもいいですか」

男が何度も頷いた。

アルシアは言った。

「どれくらい掛かる」

「見てから」

「先に決めろ」

「決めるために見るんだよ」

リエッタは振り返らなかった。

アルシアの右手には父の杖がある。左前腕には、リエッタが作った防護具が袖の上から巻かれている。そのどちらも、今の標識灯を直せない。

「見るだけだ」

「うん」

返事だけは素直だった。

リエッタは荷を下ろし、工具袋を開いた。細い鍵を蓋の穴へ差し、内部の留め具を押し上げる。錆びた音のあと、銅蓋が半分浮いた。

中には小さな導晶と、矢印の向きへ光を送る二本の銅線が収まっていた。片方の銅線が留め溝から外れ、蓋の裏に触れている。風で柱が揺れるたび、金属同士が擦れたらしい。線の表面は黒く曇っていた。

「折れてはいない」

リエッタの声が少し速くなる。

「留め具が緩んで線が逃げただけ。焦げたところを落として、溝へ戻せば点くと思う。導晶も割れてない」

「掛かる時間は」

「硬いパンを一枚食べるより短い」

男が笑った。アルシアは笑わなかったが、止めもしなかった。

リエッタは細い鑢で銅線の曇りを落とした。白い指に黒い粉が付く。留め溝へ線を戻し、予備の金具を一つ噛ませる。蓋を閉じる前に、工具袋から小さな試験用導晶を出した。

「アルシア、杖を持ってて」

「持っている」

「私のも」

渡されたのは、蓋を支える細い棒だった。アルシアは父の杖を肘へ掛け、棒の端を押さえた。

「もう少し上。そう、そこで止めて」

リエッタはアルシアの顔を見ずに指示した。

試験用導晶を端子へ当てる。

標識灯の内側で、淡い黄の線が走った。二方向のうち、西へ向く矢印だけが光る。リエッタは導晶を離し、線が消えるまでの間を見た。

「蓄えるところも大丈夫。夜には点きます」

「もう直ったのか」

男が柱を覗いた。

「仮留めじゃないです。次に蓋を開けた人が迷わないよう、外れた場所へ印も付けました」

リエッタは銅蓋を閉じ、鍵を抜いた。作業を始めたときより、道具袋の中は整っている。

男は標識灯とリエッタを交互に見た。

「腕のいい魔道具師が一緒で助かったな」

「知っている」

言葉が先に出た。

リエッタがアルシアを見上げる。淡紫の目が一度瞬いた。

アルシアは支えていた棒を工具袋へ戻した。

「蓋を閉めろ。風が強くなる」

「もう閉めたよ」

「なら、荷を持て」

リエッタの口元が緩んだ。笑われた理由を聞けば、今の言葉をもう一度言わされる気がした。

男は何度も礼を言い、荷車を東へ進めた。黄の矢印は導晶を外しているため消えていたが、磨かれた銅線だけが蓋の隙間で光を返した。

リエッタは黒くなった指を細布で拭いた。

「予定、崩れた?」

アルシアは空を見た。

「崩れていない」

「私がいても?」

「お前が直したからだ」

リエッタは細布を畳み、工具袋の外側へ差した。

「そっか」

それ以上は言わず、街道へ戻った。

今度はアルシアが先に歩き出すまで待たなかった。

野営地は、街道から少しだけ離れた高い草地に決めた。

西からの風は弱く、地面に新しい獣の跡はない。古い焚き火跡は土で覆われ、近くの低木にも折れた枝がなかった。誰かが使った場所だが、今夜戻る気配はない。

アルシアが荷を下ろすと、リエッタは先に地面を踏んだ。

「こっちは少し柔らかいね」

「水が残っている」

「じゃあ寝床は向こう。火は石の近く」

言いながら、リエッタは二人分の敷布を乾いた側へ運ぶ。

アルシアは止めなかった。風向きと火の位置を見直し、問題がないことだけを確かめた。

父の杖で地面を突く。石突きが、土の下にある平たい石へ当たった。

乾いた音だった。

五年前より前、三人で旅をした夜にも、同じ音を聞いたことがある。

アルバスは杖で地面へ寝床の線を引いた。まだ紫の髪だったリエッタが、その線の端へしゃがみ込み、土を指で崩した。

――ここだと、雨が来たら水が入るよ。

父は笑わず、なぜ分かる、と聞いた。リエッタは草の根と石の傾きを順に指し、杖を借りて別の場所へ線を引いた。

その夜、雨は降らなかった。

アルシアは、父がリエッタの好きにさせただけだと思っていた。翌朝、アルバスは古い線の窪みへ水を一杯流し、どちらへ落ちるか二人に見せた。水はリエッタが避けた場所に溜まった。

父は答えそのものよりも、先に地面を見たことを褒めた。次もそうしろと言った。

アルシアは石突きを平たい石から離した。

目の前では、リエッタが敷布の端へ石を置いている。風でめくれない位置を、一度で選んだ。

「何?」

見ていたことに気づかれた。

「そこなら濡れない」

「雨は降らないよ」

「降ってもだ」

リエッタは杖を見て、それから草地を見た。

「前にも、同じこと言われた気がする」

「父にか」

「アルシアに」

覚えていない。否定する根拠もなかった。

二人で火を起こし、硬いパンと乾燥豆を温めた。アルシアが鍋を見ている間に、リエッタは使った工具だけを布の上へ並べる。標識灯の修理に使った鑢を拭き、黒い粉が残っていないことを確かめてから袋へ戻した。

食事が終わる頃、空は濃い青へ変わった。

街道を通る荷車の音はもうない。焚き火の向こうにリエッタの白髪が見え、そのさらに外側は草の揺れだけになった。

アルシアは出入口のない場所でも、逃げる方向を二つ決めてから座った。

リエッタが左手首を持ち上げた。

流量針が、朝に刻んだ位置より低いところで揺れている。

「下がってる」

アルシアは自分の右手首を見た。角を落とした台座の針は、朝とほぼ同じ位置にある。

「いつからだ」

「食べる前は戻ってた。今見たら、ここ」

「手を出せ」

リエッタは焚き火を回り込まず、腕だけを火の脇へ伸ばした。

アルシアも身を寄せ、左手首を取る。

命紬の流れは、触れる前からあった。いつもと同じ圧で自分から抜け、リエッタへ渡っている。手を取ったのは、糸を繋ぐためではない。

親指を手首の内側に当てる。

脈は平常の速さへ戻っている。乱れはない。指先も冷えすぎてはいなかった。魔力の受け取りにも、途切れは感じない。

「苦しくないか」

「ないよ。眠くなってきたくらい」

「目眩は」

「ない」

「吐き気」

「ないです」

最後だけ、診療所で答えるような声になった。

アルシアは革帯の端を見た。昼の作業で細かな砂が入り、台座が肌からわずかに浮いている。砂を払い、革帯を穴一つ分だけ締める。

針が細かく震え、朝の印へ戻った。

「道具のずれだ」

「よかった」

リエッタは右手で台座を撫でた。

確認は終わった。

アルシアは親指の下で脈をもう一度数えた。数える必要はない。リエッタも腕を引かなかった。

火の中で細い枝が折れた。

「標識灯のとき」

リエッタが言った。

「何だ」

「途中から、手を出さなかったね」

「必要なかった」

「私の仕事だから?」

「そうだ」

リエッタの脈が指先に触れる。速くなったかは数えなかった。

「朝も、私の足だったよ」

声は柔らかいままだった。

アルシアは返す言葉を探した。朝の境界石で、リエッタは休まなくても歩けると言った。針もそう示していた。それでも止めた。

「次は聞く」

「休みたいか?」

「歩けるか」

「似てるけど、少し違うね」

「どっちがいい」

リエッタは火を見た。手首はまだアルシアの掌にある。

「歩けるか、でいいよ。歩けても休みたいときは、私から言う」

「分かった」

会話も終わった。

アルシアは指の力を緩めた。リエッタは手を引かなかった。掌の上で、手首だけが楽な位置へ少し傾いた。

離すなら、そのときだった。

火がもう一度鳴るまで、どちらも動かなかった。

アルシアは脈を数えるのをやめていた。

翌朝、草の先には露が溜まっていた。

火を消し、土を戻し、二人分の荷を背負う。アルシアは父の杖を右手に持った。リエッタが地図筒を荷の肩紐に留め、留め輪を引く。

街道へ戻る前に、アルシアは聞いた。

「歩けるか」

リエッタは流量針ではなく、自分の脚を見た。爪先を二度地面に当て、荷の位置を直す。

「歩ける。休みたくなったら言う」

「分かった」

草地を下りると、西の丘の間に低い屋根が見えた。朝の煙が数本上がり、街道沿いの標識に宿場レグナの名が刻まれている。

「今日中に着く?」

「あれは見えているだけだ。着くのは明日の夕方になる」

「そっか。じゃあ、今日は景色を目印に歩けるね」

リエッタは目を細め、煙の本数を数えた。

リエッタが笑い、草地の縁を歩き出す。アルシアは半歩先へ出ようとして、その歩調に足を合わせた。

背後の朝露に、二人分の足跡が残っていた。

宿場へ向かう二筋は、同じ歩幅で並んでいた。

第4章 了

TABLE OF CONTENTS

第一巻 目次

  1. 01畳まれた毛布
  2. 02持ち帰られた依頼書
  3. 03旅支度の距離
  4. 04同じ道、違う願い
  5. 05一人部屋が二つ
  6. 06白い花の髪飾り
  7. 07エルドラ遺構
  8. 08熱のある手
  9. 09守護者の部屋
  10. 10罠の光
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