VOLUME I CHAPTER 08
第八章 熱のある手
淡金色の線は、二度目の脈を打たなかった。
リエッタは押し下げた操作桿から手を離さず、床を走った光の名残を目で追った。円環の向こうでは、水が石の堰を越えたところで細く震えている。壁際に置いた荷物も、防水布も、位置は変わっていない。扉のそばの安全区画では、アルシアが父の杖を上げたままこちらを見ていた。
「もう一回、来る?」
「分からない。だが、今の間隔なら、先に戻せる」
掠れた声だった。
リエッタは自分の左手首に目を落とした。受け取り側の流量針は大きく振れたあと、行きつ戻りつしながら、見慣れた位置へ近づいている。呼吸をひとつ待ってから、操作桿をゆっくり戻した。
金属の軸が重くせり上がる。最後に短い音がして、石の堰を越えていた水が退いた。淡金色の線は沈黙したままだった。
「戻ったよ」
「その場を動くな」
アルシアは杖を下ろさずに円環の縁まで来た。床と壁を確かめ、異常がないと判断してから、ようやく顎を引く。
その手順はいつもどおりだった。けれど、杖の石突きが床に触れるまで、ほんの少しだけ時間がかかった。
リエッタはそれを見た。
見たけれど、その夜は何も言わなかった。閉じた扉の楔を確かめ直し、乾いた防水布の上で簡単な食事を取り、交代で眠ることにした。アルシアは先に休むよう言われても、杖を抱えて扉のそばに座った。リエッタが目を閉じたあとも、ときどき衣擦れの音がした。
翌朝、リエッタが起きたときには、アルシアはもう荷をまとめていた。
「おはよう。ちゃんと寝た?」
「必要なだけは」
答えは早かった。声は昨日より低いままだった。
リエッタが顔をのぞき込むと、アルシアは先に扉へ向き直った。楔を抜き、耳を当て、外の気配を探る。動きに迷いはない。ただ、楔を荷袋の輪へ留めようとした指が、一度、留め紐を掛け損ねた。
「私が持とうか」
「歩ける」
「持てるかどうかを聞いたんだけどなあ」
「同じことだ」
「違うよ」
リエッタは笑って言い、自分の工具袋を背負った。折り畳み防護板は、曲がった蝶番が腰に当たらない向きへ差し直した。アルシアは何か言いかけたが、結局、扉を開けるほうを選んだ。
上層制御室の外は静かだった。
壁の図に従って、二人は中層へ続く階段を下りた。石段は途中から狭くなり、壁を走る星路の線が増えていく。上では離れていた細線が、ここでは指二本分ほどの間隔で並び、一定の距離ごとに交差していた。交点を通るたび、二人の手首で流量針がかすかに鳴る。
リエッタは三つ目の交点で足を止めた。
リエッタの流量針が右へ振れ、戻る。振れ幅は上層制御室より小さい。だが、戻り方は同じだった。揺れながらも、リエッタ自身の平常位置へ寄っていく。
「アルシア、右手首の流量針を見せて」
「進みながらでいい」
「針は歩かないから、止まって見よう」
返事を待たず、リエッタはアルシアの右手首へ視線を落とした。
アルシアの流量針は、本人の平常位置より低いところにいた。星路の交点を越えるたびに細かく震え、わずかに持ち直しては、また同じところまで落ちる。昨夜より悪くなったようには見えない。よくなってもいなかった。
「変化は許容範囲だ」
「何の許容範囲?」
「行動を継続できる範囲だ」
「それ、誰が決めたの」
「私だ」
「だと思った」
笑いながら答えて、リエッタは歩き出した。
階段を下りきると、低い天井の通路に出た。湿った冷気が靴のあたりを流れている。壁の星路は一度床へ沈み、通路の中央を横切って反対側へ上がっていた。アルシアが先に杖を差し出し、反応がないことを確かめる。そのまま一歩を踏み出したところで、石突きが床を打つ音が半拍ずれた。
「待って」
「止まる理由はない」
「あるよ」
リエッタは隣へ並び、アルシアの右手首を取った。
振りほどかれはしなかった。けれど、腕にはすぐ力が入り、逃げ道を作るように肘が引かれた。
「流れを見るだけ」
「針なら、さっき見ただろう」
「針だけじゃ足りない」
手袋の留めをずらし、指先を手首の内側に当てる。脈は速い。階段を下りた直後だから、という速さではなかった。皮膚も熱を持っている。
リエッタは顔を上げた。アルシアは目を逸らさなかった。その代わり、先に言った。
「冷えている場所で動いたからだ」
「それなら手は冷たくなるよ」
「杖を握っていた」
「額も杖を握った?」
アルシアの眉が寄る。
リエッタはアルシアの手首を離すと、自分の右手をその額へ伸ばした。途中で止め、聞く。
「触っていい?」
「今さら聞くのか」
「手首と額は別の場所だからね」
短い沈黙のあと、アルシアがわずかに頭を下げた。
額は、手首よりはっきり熱かった。
リエッタの指先に、乾いた熱が移る。昨日、制御室で声を聞いたときに確かめておけばよかった。そう思ったが、今それを口にしても熱は下がらない。
「熱がある」
「軽い」
「測ってないのに?」
「意識は明瞭だ。歩行にも支障はない」
「杖の音がずれた」
「一度だけだ」
「楔の紐も掛け損ねた」
アルシアの口が閉じた。
リエッタはもう一度、二人の針を見比べた。自分の流量針は、交点を越えてから平常位置へ戻りつつある。アルシアの流量針は、戻りきらない。命紬は止まっていない。自分の身体は、今もアルシアから魔力を受け取っている。そのうえで、この遺構を走る何かが針を揺らすたび、アルシアの側だけ回復が遅れる。
「分かったことと、まだ分からないことを分けるね」
リエッタは壁際に寄り、荷袋から記録板を抜いた。歩きながら書くつもりはなかった。観察した順に、短く線を引く。
「命紬の供給は続いてる。受け取り側の私の流量針は、自分の平常位置まで戻ろうとしてる。送り出し側のアルシアの流量針は戻りが遅い。星路の交点で、二本とも揺れる。でも、アルシアのほうは揺れるたびに回復をやり直してるみたいに見える」
「見える、だけだ」
「うん。だから、仕組みが分かったとは言わない。遺構が命紬に直接働きかけてるのか、アルシアの魔力だけに干渉してるのかも、まだ分からない」
板に、二本の針の位置を記す。昨日の記録と並べると、差は小さくても明瞭だった。
「でも今のアルシアには、私へ送り続ける負担と、遺構の中で削られて戻りにくくなる負担が、重なってる。二重の負荷がかかってると診る。熱がある状態で、このまま深部へ行くのは駄目」
「診断ではない」
「診立てだよ。だから休んで、もう一度比べる」
「休めば干渉が消える保証はない」
「保証がないから、動き続けるの?」
「ここで止まっても、命紬は止まらない」
アルシアは言って、通路の奥へ視線を向けた。暗がりの先で、星路の線がまた一度交わっている。
「早く遺物を取れば、お前が自由に――」
声が途切れた。
アルシアの指が、杖を握り直す。左の前腕には、一度きりの防護具がまだ留められている。使っていないそれを確かめるように、親指が縁へ触れた。
「命紬を解く手がかりになる。そうなれば、この状態を終わらせられる可能性がある。お前を守るのは私の責任だ」
言い直された言葉には、迷いがなかった。
いつものアルシアの言葉だった。隙間なく積んだ石みたいに、理由がまっすぐ並んでいる。リエッタが笑って受け取れば、そのまま二人で歩ける形をしていた。
だから、リエッタは笑わなかった。
「違う」
声は思ったより低く出た。
アルシアがこちらを見る。
「何がだ」
「私を守るために自分を壊すのは、守ることじゃない」
通路を流れる冷気が、二人の間を抜けた。
アルシアの顔から、返事が消えた。驚いたときほど表情の動かない人なのだと、リエッタは今さら思い出す。
「私は壊れていない」
「壊れかけるまで進むつもりでしょう」
「必要なら」
「それに私が従うと思ってる?」
リエッタは記録板を荷袋へ戻した。留め具を閉じ、背負う代わりに、その荷袋を床へ置く。乾いた金具の音が通路に響いた。
「アルシアが休まないなら、私はここから進まない」
「リエッタ」
「置いていっても駄目。命紬があるなら、離れるほど条件が悪くなるかもしれない。分からないことを理由に進むなら、同じ分からないことを理由に私は止まる」
「それは合理的な判断ではない」
「うん。私の選択」
アルシアは杖を立てたまま動かなかった。
「私の命を理由にするなら、私がどうしたいかも聞いて。私は、アルシアを燃料にして自由になりたくない」
「燃料ではない」
「同じだよ。アルシアが自分の減っていく分を、必要だからって負担に数えないなら」
「深部へ着かなければ、解決しない」
「今日、今すぐ着かなくてもいい」
「その根拠は」
「昨日の私たちは生きてて、今日の私たちも生きてる。今すぐ止まる兆候は、二本の針には出てない。逆に、今すぐ進んでいい数字も出てない」
数字、と呼べるほど正確な目盛りではない。けれどアルシアはそこを訂正しなかった。
リエッタは自分の頬が動かないのを意識した。相手を安心させる形を作らずに立っていると、顔は思いのほか寒かった。
「怒っているのか」
「怒ってる」
即答すると、アルシアが一度まばたきをした。
「私に?」
「そう。私に黙って熱を出したことじゃないよ。具合が悪くなるのは選べないから。具合が悪いって分かっても、それを私のためだって言って進もうとすることに怒ってる」
「黙ってはいない。聞かれなかった」
「そこも少し怒っていい?」
「もう怒っているだろう」
「じゃあ、まとめて怒る」
アルシアの杖を握る指が、一本ずつ緩んだ。
肩が、ごくわずかに下がる。階段を下りてからずっと背中に入っていた力が、そこで初めて抜けたように見えた。
リエッタは、笑って助け舟を出したくなるのをこらえ、アルシアの返事を待った。
やがてアルシアは、通ってきた方向へ目を戻した。
「壁の図に、退避に使える小室があった。ここから上へ戻るより近い」
「うん」
「そこで針を測る」
「熱も」
「……熱もだ」
「休む?」
もう一度、アルシアは黙った。今度の沈黙は短かった。
「休む」
リエッタは頷き、床の荷袋を持ち上げた。口元はそのままにした。
退避に使える小室は、分岐を一つ戻った先にあった。
扉はなかったが、入口が曲がっていて、通路を流れる冷気は直接入ってこない。床は乾いている。壁の低い位置には細い星路が一本だけ通り、ほかの線との交点は見当たらなかった。
アルシアが安全を確かめる間、リエッタは防水布を広げた。荷袋を壁際へ寄せ、食料と水、それから冷却具を取り出す。
平たい水嚢を包む布を開くと、内側に留めた晶片が鈍く光った。交換しておいた水を注ぎ、留め具を閉じる。熱を逃がし始めた晶片の青が、水を通して薄く広がった。
「座って」
「命令か」
「お願い。聞いてくれなかったら、また選択にするけど」
アルシアは防水布の端に座った。壁へ背を預けようとして、一度姿勢を正し、それから諦めたように肩をつける。
「腕、貸して」
今度は理由を聞かれなかった。
差し出された右腕を受け取り、リエッタはアルシアの右手袋を外した。手首の脈を数えながら、送り出し側の流量針を見る。通路にいたときより乱れは小さいが、針はまだ低い。休めばすぐ戻る、という動きではなかった。
「冷たいよ」
「冷却具だからな」
「そこは笑うところ」
「笑わせたいのか、笑わず怒っていたいのか、どちらかにしろ」
「怒ったまま、おかしいことは言えるよ」
冷却具を布越しに額へ当てる。アルシアの目が一瞬だけ細くなったが、避けなかった。リエッタは水嚢の角度を変え、こめかみに留め具が当たらない位置を探した。
「自分で持てる」
「知ってる。でも今日は私が持つ」
「腕が疲れる」
「そのとき交代する」
「進まないと言ったときより、譲歩が早いな」
「これは二人とも困らないから」
アルシアは口を閉じた。反論がなくなったのか、使う力を惜しんだのかは分からない。
少しして、リエッタは冷却具をアルシアの手へ渡した。食べやすいものを選び、水と一緒に差し出す。アルシアは必要量を計るように食べ始めたので、リエッタも隣で同じものを口へ運んだ。
「全部食べてとは言わないよ」
「食べられる」
「今度は同じ意味だね」
噛む速さは遅かった。それでもアルシアは手を止めず、渡した分を食べた。水も飲んだ。空になった器を返す指先には、まだ熱があった。
リエッタは記録板を膝に置き、時間を置いて二本の針を写した。交点から離れた小室では、不意の揺れは起きなかった。リエッタの流量針はほぼ平常位置へ戻っている。アルシアの流量針もほんの少し上がったが、基準には遠い。
「今日はここで休む」
「深部までの距離は長くない」
アルシアはそう言ったが、立ち上がろうとはしなかった。
「だから、休んだあとでも行ける」
「明日、熱と針を確認する。悪化していたら戻る」
「うん。戻る道でも交点は通るから、そこも考えて決めよう」
「改善していれば進む」
リエッタはすぐには頷かなかった。
「二人で決める」
「条件を見て、二人で決める」
「約束?」
「約束だ」
ようやく頷く。
アルシアは冷却具を額に当てたまま、目を閉じた。杖は右側、すぐ手が届く位置に置かれている。左前腕の防護具も外してはいない。眠るには固すぎる姿勢だったが、先ほどまでより呼吸は深い。
「リエッタ」
「なに?」
「お前が止まると言わなければ、私は進んでいた」
「知ってる」
「そうか」
青い光の下で、杖に添えられていた指が離れた。
それ以上、アルシアは話さなかった。
リエッタは壁際に座り、冷却具の水がぬるくなれば向きを変えた。自分の流量針と、眠りに落ちていくアルシアの流量針を、交互に確かめる。針の差はまだ埋まらない。額の熱も消えてはいない。それでも、急いで先へ運ばなければならないものは、今ここにはなかった。
小室の外で、遺構の水が遠く鳴っている。
避難室の床で、リエッタの笑っていない顔が、冷却具の青い光に照らされていた。