笑わない魔女と、笑顔絶えぬ魔道具師
第一巻05 / 24

VOLUME I CHAPTER 05

第五章 一人部屋が二つ

「歩けるか」

レグナの東門が見えてから、アルシアがそう聞いたのは二度目だった。

「歩けるよ」

リエッタは自分の脚を見て答えた。流量針も朝の位置にある。荷の肩紐は鎖骨に食い込んでいたが、宿場までの残りの道は、両側に畑が並ぶ緩い下り坂だけだった。

アルシアは頷き、前を向いた。

父の杖が土を打つ。昨日まで等間隔だった音が、ときどき半拍遅れた。

「アルシアは?」

「何だ」

「歩ける?」

返事の前に、杖の音が一つ入った。

「歩ける」

同じ問いに同じ言葉を返しただけなのに、声は朝より低く掠れていた。

リエッタはアルシアの右手首を見た。送り出し側の流量針は、歩きながら読み取れるほど大きくはない。立ち止まって確かめようかと思ったが、休みたいなら自分から言うと一昨日の夜に約束していた。

代わりに、肩からずり落ちた地図筒を直すため足を止める。

アルシアも止まった。

「結び直すだけ」

「そうか」

急かしはしなかった。けれど杖を持つ指が、開いてからもう一度閉じるのが見えた。

リエッタは髪の紐も外した。二日分の埃を払って束ね直そうとすると、白い髪が肩に落ちる。アルシアの視線が一度そこに触れ、すぐに東門の番小屋へ移った。

「できたよ」

紐は少し曲がった。直すほどではない。

二人が門をくぐる頃、夕日は宿場の屋根に半分隠れていた。

レグナには、家より先に看板が並んでいた。

馬の絵、車輪、湯気の立つ椀、寝台。街道沿いの建物は一階を店にしているものが多く、軒下には旅人の泥を落とす木べらが吊られている。荷車が二台すれ違うたび、人の声と蹄の音が壁の間で押し合った。

アルシアは三軒の宿の入口を見てから、厩と食堂が同じ屋根に収まった建物を選んだ。

「裏口があるから?」

「井戸が中庭にある」

「そっちなんだ」

出入口の数も見ていたはずだが、アルシアは答えなかった。

宿へ入ると、帳場にいた女主人が二人の荷と靴を順に見た。灰色の髪を頭の上で丸く留め、片手で宿帳を押さえている。

「食事付きで一泊かい?」

「そうだ」

アルシアが答えた。

「二人部屋なら奥が一つ空いてるよ。寝台は二つ。一人部屋なら向かいで二つ取れるけど、二人部屋の方が安い」

リエッタはアルシアを見た。

銀灰の目が、リエッタの曲がった髪紐に一度下り、帳場へ戻った。

「一人部屋を二つ」

考える間はなかった。

女主人が宿帳を二行使い、鉄の鍵を二本取り出す。鍵の頭には違う刻みが入っていた。片方がリエッタの前に置かれ、もう片方がアルシアの前まで滑る。

「私、お金なら――」

「明日の補給で出せ」

アルシアは袋から硬貨を出した。一枚が指の間から木の帳場台に落ち、平たい音を立てた。

アルシアが硬貨を落とすところを、リエッタはほとんど見たことがなかった。

拾おうとした二人の手が重なりそうになり、アルシアの方が先に引いた。女主人が硬貨を取り、何も言わず残りと一緒に数える。

「階段を上がって突き当たり。夕食は日が落ちたら下で出すよ」

二本の鍵が、それぞれの掌に渡された。

アルシアの耳の下が赤い。外を歩いてきたあとの火照りなのか、帳場の灯りのせいかは分からなかった。

階段の突き当たりには、向かい合う扉が二枚あった。

「どっちがいい?」

リエッタが聞くと、アルシアは右の扉に鍵を差した。

「こっちにする」

「じゃあ、私はこっちだね」

左の扉を開ける。寝台が一つ、椅子が一つ、壁の掛け金も一つだった。窓辺には水差しと杯が一組置かれている。

一人部屋なのだから、数は合っていた。

リエッタは荷を寝台の脇に下ろした。地図筒を壁に掛け、工具袋を椅子の下に入れる。向かいで扉の閉まる音がしたあと、廊下から物音が消えた。

一昨日の夜は、火を挟んで手首を渡した。

今夜は、扉が二枚ある。

リエッタは水差しから杯に水を注ぎ、一口飲んだ。厚い陶杯の縁は、唇に冷たかった。

向かいの部屋で、水を注ぐ音がした。続いて短い咳が一つ聞こえ、すぐに途切れる。

リエッタは卓に置いた鍵を取りかけた。階下で夕食を知らせる鐘が鳴り、指を離した。

食堂へ下りると、アルシアは壁際の卓に座っていた。

出入口と階段の両方が見える席だった。向かいには、豆と根菜の煮込みが二椀置かれている。片方の椀から上がる湯気はまだ太い。

「頼んでくれたの?」

「遅い」

「髪、直してた」

アルシアの視線が一度、リエッタの肩口まで下りた。結び直した紐は、部屋の鏡で見てもやはり曲がっていた。

「座れ。冷める」

リエッタは向かいに座った。

煮込みには街道で食べた乾燥豆より大きな豆が入り、塩気も強かった。最初の一口で舌が温まり、二口目には空腹を思い出す。

アルシアはパンを小さく割っていた。食べる速さはリエッタより遅い。椀を口元まで運んでも、すぐ卓に戻す。

「味、濃い?」

「普通だ」

「熱い?」

「お前は食べろ」

正面から返ってこない答えだった。

そのとき、斜め後ろの卓で椅子が鳴った。

旅装の女が一人、外套を椅子の背に掛けている。短く切った茶色の髪には砂が残り、革の胸当ての縁は白く擦れていた。女主人が空の杯を取りに来ると、女は腰の袋を探りながら言った。

「西の道はしばらく使わないよ。エルドラの入口までで靴底が一枚なくなった」

リエッタの匙が止まった。

女がこちらを見る。

「行くのか?」

「エルドラへ?」

「その顔は行く顔だな」

どういう顔だろう。リエッタは自分の頬に触れた。

「調査で行きます。中のこと、知ってるんですか?」

女は空いている椅子を見た。リエッタたちの卓には四脚あり、二脚が使われていない。

「座っても?」

リエッタはアルシアを見た。

アルシアは椀の脇に匙を置いた。

「聞けるうちに聞け」

女は卓の端の椅子を引いた。女主人から新しい杯を受け取り、卓の脇に置く。

「私は入口と上の水路までだ。深いところの話は、戻った連中から聞いた。だから、見た話と聞いた話は分けるぞ」

「助かります」

リエッタは椅子の下から小さな記録帳を出した。工具の寸法を書くためのもので、紙の端には銅粉が染みている。

「まず、見た方からお願いしてもいいですか」

女は頷いた。

入口近くの石段は、夕方になると地面から熱が上がる。上層の水路には今も水音があるが、流れが見えない場所がある。壁際の古い通信灯は、同じ列でも点くものと消えるものが混じっていた。

リエッタは三つに分けて書いた。

熱。水音。灯り。

「灯りは、入口から何個目でした?」

「数えてない。左の壁に三つ並んで、真ん中だけ消えていた場所は覚えてる」

「壊れている音は?」

「しなかったな。叩いてないぞ」

「叩かないでくれてよかったです」

「叩きそうに見えたか?」

「ちょっとだけ」

女が笑った。リエッタも笑う。

アルシアは笑わなかったが、記録帳に目を向けた。

「深部の話は」

短い声で促す。

女は杯を置いた。

「守り手がいるらしい。石像だと言う奴と、空の鎧だと言う奴がいる。剣が通らないってところだけは同じだ」

リエッタは見た話の下に線を引き、その先に聞いた話と書いた。

「同じ人が両方を見たわけじゃないんですね」

「そうだ。石像だと言っていた男は、入口で会った運び屋から聞いた。鎧を見たって話は、怪我人を運んだ薬師からだ」

「動き方は?」

「速い、重い、音がしない。酒場を一軒回るたび、都合よく強くなる」

「じゃあ、今のところは形も速さも分からない」

「話を聞いてがっかりしないのか」

「分からないところが分かったので」

女は杯を持ち上げたまま、リエッタを見た。

「話しやすいな、あんた」

「聞きたいことが多いだけです」

「それを話しやすいって言うんだよ」

また笑い声が重なった。

アルシアの左手が袖口の留め具に触れた。外れていない金具を親指で一度押し、すぐに手を下ろす。

リエッタは守り手の下に、形・速さ・起動条件は不明、と書く。

「もう一つある」

女が声を落とした。

「床が光って、人が消えたって話だ」

リエッタの鉛筆が止まる。

アルシアも顔を上げた。

「死んだのか」

「生きて戻った。閉じた水門の向こうにいたそうだ。仲間とは別の通路に出て、半日後に合流した」

「光った形は?」

「輪だったと言う奴と、星だったと言う奴がいる。青白かったのは同じだ。踏んだのか、壁に触ったのか、それも食い違ってる」

リエッタは紙の余白に、小さな輪を描いた。輪の中には星を描かない。

「消えた人から直接聞いたんですか?」

「いや。そいつと一緒だった弓使いから聞いた。消えた本人は、装備が乾くのも待たずに先に街道を戻った」

アルシアの指が、椀の縁で止まった。

「自分で歩いたのか」

「歩いた。片脚は引きずってたそうだが、飛ばされたときの傷か、戻る途中の傷かは分からない」

女の答えを聞きながら、リエッタはアルシアの耳の下を見た。

帳場で見えた赤みは、まだ消えていない。

「アルシア、顔が赤いよ」

アルシアは椀の中身を半分残したまま立ち上がった。

「先に戻る」

「もう?」

「続きを聞け。出発前に見る」

「一緒に聞かなくていいの?」

アルシアは卓の端に置いた自分の鍵を取った。

「お前が聞いた方が詳しい」

女に会釈し、階段へ向かう。リエッタに話をやめろとは言わなかった。

ただ、振り返らなかった。

女がアルシアの残した椀を見た。

「連れ、疲れてるんじゃないか」

「二日半、歩いたから」

答えてから、リエッタは自分の椀を見た。底が見えている。アルシアを待たせている間、自分だけ食べ終えていた。

「続き、短くしてもらってもいいですか」

「もちろんだ」

女は話を水路の位置と、噂を聞いた相手の特徴だけに絞った。消えた人物が見つかったとき、靴は足首まで濡れ、外套には水滴がなかったという。リエッタは転移先、水路の浅瀬、と疑問符付きで書き、見た事実に丸、伝聞に三角を付けた。

最後に礼を言い、女の飲み物一杯分を払った。

食堂を出るとき、アルシアの椀から湯気は消えていた。

自分の部屋へ戻り、リエッタは記録帳を開いた。

一人分の卓は、地図筒と工具袋を載せるだけで埋まった。椅子を寝台に寄せ、聞いた話を新しい紙に写す。

上段には、女が見たもの。

地熱。見えない水流。列の中で一つだけ消える通信灯。

下段には、伝聞。

深部の守り手。材質、速度、起動条件は不明。青白い転移らしき光。輪か星か、接触条件は不明。転移した人物は別の水路に出て、自力で帰還。脚の負傷原因は不明。

断定できないものには線を引かず、疑問符を付けた。

アルシアなら、最初に情報源を確認する。誰が見たか、いつ見たか、間に何人入ったか。リエッタが話を聞き続けたのも、そこを分けるためだった。

それでも、待たせたことは変わらない。

二人部屋なら、戻ったときに紙を見せられた。声が掠れていたなら、水を渡せた。額に手を当てる理由も探せたかもしれない。

一人部屋を二つ選んだのは、アルシアだった。

リエッタは紙を一度だけ折った。

廊下へ出る。向かいの扉の下には、細い灯りが残っていた。

紙を敷居の前に置こうと屈むと、床板が鳴った。

「リエッタか」

扉の向こうから声がした。

「起こした?」

「起きている」

近くで聞いても、声はやはり少し掠れていた。

「さっきの話、罠のところだけまとめたの。見た話と聞いた話も分けた。ここに置いていい?」

短い間があった。

「下から入れ」

リエッタは紙を床に置き、指先で押した。折った端が敷居に一度引っ掛かり、向こうから引かれて見えなくなる。

「助かる」

「待たせてごめんね」

「待っていない」

胸の内側で、小さな歯車が空回りした。

「そっか」

リエッタは取っ手へ手を伸ばさなかった。

「明日は日の出に食堂だ」

向こうからアルシアが言った。

「市場が開いたら補給する。正午の鐘より前に西門を出る」

「分かった。遅れないよ」

「歩けるかは、朝に聞く」

一昨日決めた言葉を、アルシアは覚えていた。

「うん。休みたかったら、私から言う」

「そうしろ」

「アルシアもね」

返事はすぐには来なかった。

扉の向こうで、水差しが杯に触れる音がした。

「分かった」

今度は、アルシアが言った。

リエッタは自分の扉へ戻った。

「おやすみ」

「おやすみ」

同じ言葉が、閉じた扉の前で半分重なった。

リエッタが部屋へ入り、鍵を回す。

廊下には、向かい合う二枚の扉だけが残った。

その下から、同じ色の灯りが細く漏れていた。

第5章 了

TABLE OF CONTENTS

公開目次

  1. 01畳まれた毛布
  2. 02持ち帰られた依頼書
  3. 03旅支度の距離
  4. 04同じ道、違う願い
  5. 05一人部屋が二つ
  6. 06白い花の髪飾り
  7. 07エルドラ遺構
  8. 08熱のある手
  9. 09守護者の部屋
  10. 10罠の光
  11. 11命の距離
  12. 12帰る場所
  13. 13父の声を宿す球
  14. 14追跡者の印
  15. 15書庫都市オルフェン
  16. 16もう一人の紫
  17. 17名もない王女
  18. 18祝祭の夜
  19. 19姉という他人
  20. 20父が隠したもの
  21. 21王家の回収命令
  22. 22離れるための嘘
  23. 23選ぶ側
  24. 24白い王女の帰路
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