笑わない魔女と、笑顔絶えぬ魔道具師
第一巻12 / 24

VOLUME I CHAPTER 12

第十二章 帰る場所

五月十八日の朝、リエッタは右手の指先に残る乾いたつっぱりを感じて、目を覚ました。

防水布の継ぎ目から細い光が差している。朝の日差しが、寝具の端と、隣の敷物に落ちた深青の髪を照らしていた。

アルシアは横向きに眠っていた。左腕を胸の前で固定し、右手は毛布の外へ出している。手袋のない指が、敷物の縁でわずかに曲がっていた。

その目の下に触れたときの感触を、リエッタの指はまだ覚えていた。

涙はもう乾いている。

口元へ渡された温かい息も、途切れた声も、夢の中の出来事のように輪郭が薄い。けれど、「生きていて」だけは、工具で刻んだ線のように残っていた。

何のための接触だったかは聞いた。謝罪も受け取った。

それ以上を尋ねるには、まだ問いの形が足りなかった。

リエッタは左手首を持ち上げた。流量針は下端から離れ、普段の印へ近づいている。昨日よりは腕に力が入ったが、上体を起こすと胸の奥が空洞のように冷えた。

寝具の布が鳴る。

アルシアの目が開いた。

「横になっていろ」

掠れた声だった。

アルシアは右手を床につき、身体を起こしかけた。固定布が引かれると眉がわずかに寄る。

「アルシアも動かない」

「お前の針を見る」

「見せるから、そっちで待って」

リエッタが左手首を返すと、アルシアは途中の姿勢で止まった。銀灰の目が針の位置を確かめ、次にリエッタの呼吸を数えるように胸元へ移る。

「上がってる」

短い沈黙のあと、アルシアは敷物に身体を戻した。

リエッタは左手首を毛布の上へ戻した。指先のつっぱりが、少しだけ遠のいた。

防水布の外から、木箱を積む音がした。ガルドが幕を上げ、二人の顔と手首を順に見る。

「起きてるなら、出発の相談だ」

「歩けるよ」

「立てるのと、歩かせていいのは別だ」

「私も歩ける」

アルシアの返答に、ガルドは左腕の固定布を指した。

「お前らは同じ荷車だ。歩ける方を決める話じゃない。歩いて悪化しない奴が歩く。今日はどっちも違う」

幕の向こうに、調査用の幌付き荷車が停められていた。荷台には二人分の寝台布が敷かれ、転律珠を収めた木箱と地図筒は、揺れないよう革帯で留められている。珠は人体へ繋がれていない。箱の小窓から見える淡金色は、昨夜と同じ弱さで回っていた。

リエッタはそれを見てから、ガルドへ尋ねた。

「遺構の中は」

「入口を封鎖した。道標と記録は残してある。深部へ戻るのは、お前らの報告を全部聞いてからだ」

「守護者と台座は、そのまま?」

「そのままだ。壊れた防護具もな」

持ち帰るものと、残すものが分かれている。

リエッタは頷いた。

荷車へ移るとき、アルシアの右手袋が旅荷の外紐に挟まれているのが見えた。リエッタが視線を止めると、アルシアは先に答えた。

「回収してもらった。針を見るから、まだ着けない」

「うん」

代わりに、アルシアが荷台へ上がるまで待った。ガルドが右側から身体を支え、リエッタは自分の寝台布を少し壁際へ寄せる。向かい合って座れば、手を伸ばさなくても互いの顔が見えた。

荷車が東へ動き出した。

エルドラの外壁は木々の隙間で小さくなり、やがて見えなくなった。

帰路の最初の一日は、車輪の軋みと休息で終わった。

リエッタが眠りから戻るたび、アルシアは同じ荷台にいた。地図を開くときも、湯を受け取るときも、右手首の流量針を調査員へ見せるときも、見える場所から動かなかった。

命紬は、そこにいる理由を教えない。

五月二十日の夕方、荷車はレグナの西門へ入った。

往路で泊まった宿の看板が、同じ金具で風に揺れている。玄関の段差を上がるだけでリエッタの脚は震えたが、今度は笑って隠す前に手摺に手を置いた。

アルシアが右手を差し出す。

「借りてもいい?」

「ああ」

リエッタは自分から尋ね、その手を取った。アルシアは引き上げず、手摺と同じ高さで支えるだけにした。

帳場の係が、二人とガルドを見比べた。

「前にお使いになった、向かいの一人部屋が二つ空いています」

あの二枚の扉が、廊下の奥に見えた。

同じ灯りを細く漏らしながら、間に人一人分の廊下を置く扉。

アルシアの指が、リエッタの手の下でわずかに固くなった。

「二人部屋は」

帳場の係が台帳をめくる。

「寝台が二つの部屋でしたら、一つございます」

「そこを」

言いかけたアルシアが、リエッタを見た。

「体調を見る必要がある。だが、それとは別に聞く。同じ部屋でいいか」

リエッタは、廊下の奥の二枚の扉から目を戻した。

「うん。同じ部屋がいい」

アルシアの肩が、ごくわずかに下がった。負傷していない右側だけの、小さな動きだった。

ガルドは何も言わず、帳場の係に二人部屋と自分たちの部屋を頼んだ。

二人部屋には、本当に寝台が二つあった。

アルシアは入口と窓を確かめたあと、扉に近い方へ自分の旅荷を置いた。リエッタの寝台との間には小卓が一つあり、流量針も呼吸も、起き上がれば互いに見える距離だった。

「今日は寝台で寝てね」

「ああ」

アルシアは父の杖を壁に立て、固定した左腕を庇いながら寝台に腰を下ろした。

「夜中に苦しくなったら起こせ」

「アルシアも、熱が上がったら起こして」

「分かった」

「先に確認。起こされるの、嫌じゃない?」

アルシアは一度だけ瞬いた。

「嫌なら同じ部屋を選ばない」

リエッタは答えの代わりに毛布を引き上げた。

窓の外で、宿場の灯りが一つずつ消えていく。向かいの寝台からは、しばらく衣擦れの音がした。やがてそれも止まり、規則正しい呼吸だけが残った。

リエッタは右手の指先を毛布の上へ出した。

涙は乾けば跡を失う。だからといって、落ちなかったことにはならない。

同じように、救命だった接触に別の答えを急いで足す必要もなかった。

アルシアが泣いた。

今は、その事実だけでよかった。

リエッタは目を閉じた。

夜の途中で一度目を覚ましたときも、向かいの寝台には深青の髪があった。

五月二十四日の昼過ぎ、リュネ郊外の家は、出発した朝と同じ場所に立っていた。

門の蝶番は少し重くなり、花壇に埋めた素焼き壺の水は底近くまで減っていた。それでも土は完全には乾かず、若い葉が二枚、風に揺れている。

アルシアは門を開けたところで足を止めた。

リエッタが先に庭へ入るまで、脇へ寄って待った。

「帰ってきたね」

「ああ」

短い返事は、旅の前と同じだった。

けれどアルシアは母屋へ先回りせず、リエッタの歩幅に合わせた。左腕の固定布はまだ外れていない。熱は二日前から上がっていないが、肩を動かせば痛みが残る。リエッタの流量針は普段の印へ戻っても、長く歩けば脚が重くなった。

玄関には、ガルドと調査員が運んだ荷が並べられた。

転律珠の木箱。地図筒。依頼書と記録板。工具袋。アルバスの杖。

出発の朝には二人分の旅荷の間にあった杖が、今は持ち帰ったものの隣に立っている。

ガルドが依頼書に仮の帰還印を押した。

「正式な報告は明日でいい。今日は負傷と回収物の確認までだ」

ガルドは自分の地図筒から、縁の擦れた調査紙を一枚出した。

「それと、約束していた元の調査紙だ。依頼書と照合した。星の透かしはこっちにもある。支部が依頼書へ足した印じゃない」

リエッタは二枚を光に透かした。角度も、短い欠けも同じだった。

「元の調査紙に入った経緯は?」

「記録がない。分かるのは、俺たちの支部印ではないことまでだ」

分からない線が、帰ってきても一本残った。

「転律珠の状態だけ見たい」

リエッタが言うと、ガルドは木箱に手を置いた。

「保管前の安全確認か」

「うん。移動中も回ってた。入力がないように見えるのに、止まらない原因を切り分けたい。それと、研究頁の切り抜き」

「長引かせないなら立ち会う。第一調査権は支部にある」

「分かってる」

アルシアがリエッタの顔を見た。

「先に休めるか」

以前なら、休めと言われたことへ笑って頷き、工房へ隠れていただろう。

「一度休む。食べて、日が傾いてから。確認は短くする」

「短いは基準にならない」

「じゃあ、感知板が三つ目の刻みまで光ったら止める。私の針が普段の印から下がっても止める。アルシアの熱が戻っても止める」

「私も入るのか」

「立ち会うなら」

ガルドが低く笑った。

「三人とも止める権利を持て。それならいい」

リエッタは頷き、木箱の封を切らずに母屋へ入った。

家の中には、閉め切った木と乾いた香草の匂いが残っていた。食卓の三つ目の椅子も、食器棚の青縁の杯も、出発した場所から動いていない。

アルシアは窓へ向かいかけ、途中で止まった。

「何からする」

「窓を開けて、そのあと食べる。二人でできるところまで」

「分かった」

リエッタが手前の留め具を外し、アルシアが右手で奥の窓を押した。

風が家の中を通った。

日が沈む前、工房の作業台の中央には、検査対象が三つだけ置かれていた。

転律珠。アルバスの研究頁。リエッタの感知板。

工具は必要なものだけを右側へ並べ、残りは革箱へ戻した。ガルドは入口脇で記録板を持ち、アルシアは作業台の向かいに立っている。左腕は固定したままだ。

リエッタは木箱の封を切った。

補修布を開くと、掌大の珠が淡金色を返した。遺構の水路から離れて何日も経つのに、内側の二つ星はまだ別々の速さで巡っている。

「蓄えていた分だけで動いてるなら、減り方が遅すぎる」

「入力があるのか」

アルシアの問いに、リエッタは珠に触れず、四方から感知板をかざした。

「移動中に箱の外から測った範囲では、外部魔力の流入はなかった。熱かな。荷車の揺れもあった。小さい入力を拾い続けてる可能性はある」

「止めるか」

「止めずに、何に反応するかだけ見る」

リエッタは球形部品を支える三点架台を作業棚から出した。三本の真鍮脚に布を巻き、珠が転がらない深さに調整する。右側の小輪には手回しの柄があり、回せば珠の外周にごく弱い動きだけを渡せる。

「人体には繋がない。導晶にも蓄えない。回転を一度だけ足して、感知板の刻みを見る」

ガルドが記録板に条件を書いた。

アルシアは右手首の流量針が見えるよう、袖を折った。

「始めるよ」

リエッタが柄を半周させる。

珠の外周が遅れて回り、内側の二つ星の片方が強く光った。感知板は一つ目の刻みだけを灯す。

手を離すと、光は弱くなった。

「動きは入力になる」

「遺構の水圧より小さい分、出力も小さい」

「うん。無限に作ってるわけじゃない」

リエッタは次に、研究頁を地図筒から出した。

乾いた紙の中央に、星形の切り抜きがある。遺構の壁面星形とは外周が合わず、依頼書の透かしより線が長い。何度重ねても答えにならなかった形だった。

作業台の固定枠に頁を挟み、珠と白い壁の間に立てる。

「アルシア、枠の右を押さえて。左腕は使わないで」

「右だけで足りる」

「ガルドさん、光が二つ目を越えたら止めて」

「三つ目じゃなかったのか」

「紙が反応するか分からないから、一つ下げる」

ガルドが頷いた。

リエッタは柄に指を掛けた。

珠にわずかな回転を渡す。淡金色の光が頁を照らし、星形の切り抜きを抜けて壁に映った。

角度が違う。

一度戻し、架台の脚を一目盛りだけ縮める。今度は星の上端が合ったが、短い欠けが逆を向いた。

「珠を回すんじゃなくて、紙の方」

リエッタは固定枠をゆっくり傾けた。

切り抜きの縁と、内側を巡る一つ目の星が重なる。

短い欠けまで、隙間なく合った。

紙の中で、見えなかった細線が淡く光った。

一本ではなかった。切り抜きの星から頁の余白に伸び、途中で折れ、もう一つの星の輪郭を作る。アルバスが切り抜いたのは、片方だけだった。残り半分は、転律珠の光がなければ見えないよう封じられていた。

感知板の二つ目の刻みが灯る。

「止める」

リエッタは柄から手を離した。

回転を足す力は消えた。それでも頁の細線だけは、しばらく光を保った。

かすかな雑音がした。

金属が擦れる音ではない。古い導晶に息を吹き込んだときのような、短い震えだった。

アルシアの右手が固定枠から離れない。

雑音の奥で、声がした。

『リエッタ。アルシア』

固定枠に掛けたリエッタの指が滑り、調整ねじが床へ落ちた。

転がり出す前に、ガルドが靴先で止めた。

忘れるはずのない声だった。

五年前より少し掠れ、記録の向こうで遠くなっていても、作業を覗き込むときの穏やかな間が残っている。

『これを開いたなら、二つの星を追ってほしい』

音が一度途切れた。

アルシアの呼吸が止まり、また戻る。

『これは命を縛るための術ではない』

リエッタは作業台の縁を掴んだ。

問いがいくつも浮かび、どれも声には追いつかなかった。

『続きは、オルフェンの大書庫に――』

そこで記録は切れた。

工房に、珠の細い回転音だけが残る。

「お父さん」

呼んでも、頁は答えなかった。

アルシアは固定枠から右手を離し、作業台の上に置いた。リエッタの手には触れない。けれど、指を伸ばせば届くところにあった。

「どの術のことだ」

「分からない」

リエッタは声の消えた頁を見た。

「命紬かもしれない。双星紋の仕組みかもしれない。でも、私たちが知ってる片結びだけを答えにしたら、たぶん間違う」

「オルフェンに続きがある」

「うん」

リエッタは感知板の余白に「不明」と記し、声が切れた位置に疑問符を付けた。

今度は、その先に場所があった。

頁の光が、もう一度強くなる。

切り抜きの下に、重なった二つ星が投影された。そのさらに下に、細い線で囲まれた古い記号が現れる。

ガルドの左手が止まった。

「知ってるの?」

「古い王家の保管印だ。封を切らずに運ぶ文書へ使われていた。支部印じゃない理由は、これか」

「どうして依頼書に」

「それはまだ分からん」

ガルドは答えを増やさず、記号の形を記録板に写した。

王家。

その言葉はリエッタの中のどの歯車にも噛み合わなかった。だから今は、形だけを記録する。

記号の下には座標列があった。古代文字ではなく、アルバスが研究帳で使っていた星路の表記だ。リエッタは工房の壁地図へ目を移し、経線と星路の交点を順に追った。

一つ目は、学術都市オルフェン。

さらに細かい補助印が、その中心にある大書庫を示している。

そこから、もう一本の線が壁地図を横切っていた。

王都アステラを示す印へ向かう線だった。

転律珠の二つ星が、同時に一度だけ明滅した。

同じ夜、王都アステラの宮廷地下で、長く消えていた観測環の一点が淡紫に灯った。

環に沿って細い光が走り、封じられた記録板に新しい一筋を焼き付ける。

夜番の記録係は時刻と光の位置だけを書き留め、警報鐘の紐を引いた。

低い鐘が一度、石の廊下を渡った。

リュネの工房では、淡金色の投影がまだ壁に残っていた。

宮廷で鳴った鐘を、リエッタたちは知らない。

リエッタはオルフェンの座標に指を置いた。

「行きたい」

アルシアがリエッタを見る。

「一人で決めるな」

「じゃあ、聞くね」

リエッタは作業台から両手を離した。

「アルシアは、どうしたい?」

銀灰の目が、壁の座標とアルバスの研究頁を見て、リエッタへ戻った。

「一緒に行く」

ガルドが記録板を閉じる。

「行く話は、二人とも治って、報告を終えてからだ」

「うん」

「分かった」

二つの返事が重なった。

暗い工房の壁に、二つの星と、王都へ伸びる一本の線が浮かんでいた。

第12章 了

TABLE OF CONTENTS

公開目次

  1. 01畳まれた毛布
  2. 02持ち帰られた依頼書
  3. 03旅支度の距離
  4. 04同じ道、違う願い
  5. 05一人部屋が二つ
  6. 06白い花の髪飾り
  7. 07エルドラ遺構
  8. 08熱のある手
  9. 09守護者の部屋
  10. 10罠の光
  11. 11命の距離
  12. 12帰る場所
  13. 13父の声を宿す球
  14. 14追跡者の印
  15. 15書庫都市オルフェン
  16. 16もう一人の紫
  17. 17名もない王女
  18. 18祝祭の夜
  19. 19姉という他人
  20. 20父が隠したもの
  21. 21王家の回収命令
  22. 22離れるための嘘
  23. 23選ぶ側
  24. 24白い王女の帰路
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