VOLUME II CHAPTER 06
第六章 祝祭の夜
水は、細い樋を落ちるたび、街に灯りを一つ増やしていた。
前日、閉架塔を出るまで、リエッタはアルシアの袖を掴んでいた。
受付で返却簿が開かれ、預けていた品がそれぞれの手へ戻った。
最後に、保全室から転律珠の車台が戻された。
リエッタとサラが木枠の封紙を見た。三者の印は切れておらず、厚い布の下で外輪は止まっていた。リエッタが返却欄に署名する時、ようやく濃紺の袖から指が離れた。
それから二人は、転律珠を挟んで大書庫から商隊宿まで歩いた。
リエッタは何度も振り返らなかった。アルシアも歩けるかとは聞かなかった。足音が遅くならないことを確かめ、一歩分だけ前を歩いた。宿へ着くと、転律珠を旅荷とともに停止・未接続のまま置き、扉が閉じるところまで二人で見た。
その夜、出生台帳の空欄については話さなかった。
そして六月十五日、閉架調査は一日休みになった。
サラの研究室では、窓の外から水音と笛の調子が入り込んでいた。机には昨日の比較記録が三列に分けて置かれ、サラは王妃の筆跡とアルバスの印影を別々の紙へ写している。
「私はここに残るわ」
サラは顔を上げずに言った。
「比較所見の下書きだけでも整えておく。紙と墨の検査は明日から。あなたたちは今日、記録を増やさなくていい」
「市場を見たら、何かは記録するかも」
リエッタが窓辺から答えた。
石造りの窓枠の向こうで、橋に渡した木樋から水が落ちていた。日が傾くにはまだ早いのに、試運転中の水灯が、淡い青を灯しては消えている。
「普通に市場を見たいな」
普通に、という言葉の置かれた場所を、アルシアは考えた。
出生台帳を見るためでもない。転律珠を運ぶためでも、追跡者を探すためでもない。ただ並んだ店を見て、水灯がともるのを待つ。
研究室の奥では、ユリアナが深い紫髪を灰茶の布へ収めていた。額から一房も出ないよう結ぶと、リエッタと似た色は隠れた。服も宝石のない濃色で、王太女と示すものは見えない。
ノエルは軽装甲の上へ丈の長い外套を着ている。剣の位置までは隠せていなかったが、王家近衛の章は外されていた。
「私たちは北の橋から回ります」
ユリアナが言った。
「あなたたちの後を歩くつもりはありません」
言葉は整っていた。けれど、それを言うために一度、リエッタの方を見ていた。
リエッタは窓辺を離れ、アルシアへ向き直った。
アルシアは先に扉と窓を見た。祭りの間、中央の市場は混む。東の大通りは広いが、橋の上では人が詰まる。左肩は腕を高く上げなければ動く。熱もない。右手首の流量針は朝から同じ位置だった。
危険を数え終えても、行きたいという答えは消えなかった。
「二人で行くか」
リエッタの淡紫の目が、わずかに丸くなった。
「うん。二人で行きたい」
サラがようやく顔を上げた。
「日付が変わるまでに戻る、とは言わないわ。水灯祭でそれを守る人はいないから。警鐘が鳴ったら、音楽の鐘と間違えないこと」
「違うのか」
「嫌でも分かる音よ」
夕方、中央市場の石溝には、普段より多くの水が流されていた。
川上の取水口から高架樋へ引かれた水は、橋のたもとで二つに分かれ、通りの両側を走る細い木樋を下っている。樋の端には掌ほどの銅の羽根車が並び、その軸が薄い変換板へ繋がっていた。水が羽根を押すたび、板の刻みが一つ光り、乳白色の硝子球へ淡い青が移る。
水が止まれば、灯りも消えた。
リエッタは三つ目の屋台で立ち止まった。
「同じ樋から取ってるのに、回り方が揃ってる」
屋台の下へ屈み、羽根車の手前を覗き込む。指は触れず、目だけが水の入口を追っていた。
「ここ。小さい浮きが門を押してるんだ。水位が上がると入口を狭めて、下がると開く。だから流れが少しくらい変わっても、軸の速さが暴れない」
店番が得意そうに、木枠の横を指した。
「止める時は、その赤い取っ手を引くんだ。入口の門が閉じて、灯り一つずつ落とせるよ」
リエッタの顔が上がった。
「外から止められるんだね。変換板が割れた時も?」
「栓が先だ。直すのは暗くしてから」
「いい作りだなあ」
声が少し速くなっていた。
転律珠よりはるかに小さい。水の動きを灯りに変えるだけで、蓄える量もわずかだ。人体へ繋がらず、止める栓が手の届くところにある。
アルシアは機構より、硝子球の青を映したリエッタの横顔を見ていた。
見つかった気がして、通りの向こうへ視線を移す。
北側の路地を、灰茶の頭巾を被った女と長い外套の護衛が歩いていた。ノエルは菓子を売る台の前でも、背後の曲がり角を一度見た。ユリアナは水灯を見上げている。二人ともこちらへ寄らず、次の橋へ向かう道を選んだ。
別に歩くという約束は守られていた。
市場の奥で太鼓が鳴った。
一拍目で、通りの人々が広場の方へ動いた。二拍目には、橋から来た一団が横から合流する。リエッタはまだ浮き門を見ていた。
アルシアは右から来る肩の列と、左の石溝を見た。
リエッタの腕を掴めば早い。
手は伸ばさなかった。
代わりに、右の掌を上へ向けた。
「掴むか」
リエッタが羽根車から顔を上げた。
視線がアルシアの掌へ落ち、そのあと右手首の流量針へ移った。
「針は?」
「変わってない」
人の流れが近づく。アルシアは一歩だけ外側へ出た。左腕で遮らず、体の向きで通り道を作る。
「これは確認じゃない」
リエッタは少しだけ息を止めた。
それから、左手を重ねた。
指先ではなく、掌まで触れた。
「こっちだ」
声がいつもより低くなった。
「うん」
アルシアは人の流れへ入った。
右手を引きすぎない。リエッタの歩幅より半歩先へ出ない。石溝の角では、自分が外側へ回る。普段なら考えずにできることが、今日は一つずつ掌へ返ってきた。
リエッタの指が動くたび、離されるのかと思った。
離れなかった。
夜になると、水灯は橋の輪郭まで青くした。
二人は中央広場を抜け、川幅の狭い石橋で足を止めた。欄干の下には小さな羽根車が連なり、流れを受けるたび、橋脚の硝子灯が上流から下流へ順に光る。風が水面を削り、青い線をいくつにも折った。
広場の笛はここまで届いた。人の声は近いのに、橋の中央だけは流れの音が勝っている。
リエッタの手は、まだ繋がっていた。
「アルシア」
「何だ」
「もし、私が本当にあの記録の子だったら」
言葉が水音の間で止まった。
アルシアは待った。
「王家へ戻れって、言われるのかな」
リエッタは欄干の灯りを見たままだった。
「戻ったこともないのに、戻るって」
言われない、と答えたかった。
ユリアナは呼び方を待った。宮廷の部隊を退かせ、記録を持ち出さなかった。だが、王家にはユリアナだけで決められない命令がある。アルシアはそれを知らないふりはできなかった。
「言われるかもしれない」
リエッタの指に、かすかな力が入った。
「そうだよね」
「だが、言われたことと、お前が決めることは別だ」
リエッタがこちらを見た。
アルシアは、帰るなという言葉を飲み込んだ。
「記録も、ユリアナの話も、まだ終わってない。今、答えを出さなくていい」
「待ってくれる?」
「待つ」
「アルシアは、その間どうしたい?」
問いが自分へ戻ってきた。
川から上がる風が、リエッタの白髪を頬へ運んだ。払う手は繋がっている。もう片方を上げれば左肩が痛む。アルシアはどちらも動かさなかった。
「今は」
水灯が一つ消え、浮き門が開くとまた灯った。
「このまま歩きたい」
リエッタの目元が、ようやく少し緩んだ。
「私も」
広場へ戻ると、輪舞が始まっていた。
決まった相手と踊るものではないらしい。人々は大きな輪を作り、笛の三拍で右へ進み、太鼓の一拍で中央へ寄る。次の一拍で外へ戻る。足を間違えた者が笑い、輪は形を崩してはまた丸くなった。
リエッタが足を止めた。
「やってみる?」
「知らない」
「私も知らないよ」
それは断る理由にならないらしい。
差し出された隣の人の手を、アルシアは左手で低く取った。肩より上げなければ痛みは鈍い。右手でリエッタの左手を持ったまま、輪の中へ入った。
三歩、右へ。
一歩、内へ。
一歩、外へ。
リエッタは最初の三歩目で隣の足を踏みかけた。二度目には太鼓より早く内へ入り、アルシアの腕を引いた。三度目でようやく合い、青い水灯の下で声を立てて笑った。
アルシアは笑えなかった。
代わりに、肩の力が下がった。
日付が変わったことを告げる遠い鐘が一度鳴ったあとも、笛は止まらなかった。
輪が小さくなり、また大きくなる。何度目かの内向きの一歩で、前の列が詰まった。
リエッタがアルシアのすぐ前で止まった。
近かった。
リエッタの息が頬へ触れた。輪が止まっても、左手はアルシアの掌に残っていた。
低い鐘が、東門の方角から広場の音を断ち切った。
笛が止まる。
二度目は、ひとつ手前の鐘楼で鳴り継がれ、石畳を震わせた。
祭りの鐘ではなかった。人々の笑い声が消え、屋台の店番たちが赤い取っ手を引く。通りの水灯が、端から一つずつ落ち始めた。
東の大通りから、市の警備員の声が走った。
「道を空けろ! 宮廷の部隊が東門から入った!」
広場の反対側で、灰茶の頭巾が止まった。
ノエルがユリアナの前へ出る。長い外套の下で、剣の柄に手を置いた。
三度目の警鐘が鳴った。
リエッタの指が、アルシアの掌の中で動いた。
離れるためではなかった。
アルシアも握り返した。
消えていく水灯の青が二人の手を横切っても、どちらの指も、まだほどけなかった。