笑わない魔女と、笑顔絶えぬ魔道具師
第二巻18 / 24

VOLUME II CHAPTER 06

第六章 祝祭の夜

水は、細い樋を落ちるたび、街に灯りを一つ増やしていた。

前日、閉架塔を出るまで、リエッタはアルシアの袖を掴んでいた。

受付で返却簿が開かれ、預けていた品がそれぞれの手へ戻った。

最後に、保全室から転律珠の車台が戻された。

リエッタとサラが木枠の封紙を見た。三者の印は切れておらず、厚い布の下で外輪は止まっていた。リエッタが返却欄に署名する時、ようやく濃紺の袖から指が離れた。

それから二人は、転律珠を挟んで大書庫から商隊宿まで歩いた。

リエッタは何度も振り返らなかった。アルシアも歩けるかとは聞かなかった。足音が遅くならないことを確かめ、一歩分だけ前を歩いた。宿へ着くと、転律珠を旅荷とともに停止・未接続のまま置き、扉が閉じるところまで二人で見た。

その夜、出生台帳の空欄については話さなかった。

そして六月十五日、閉架調査は一日休みになった。

サラの研究室では、窓の外から水音と笛の調子が入り込んでいた。机には昨日の比較記録が三列に分けて置かれ、サラは王妃の筆跡とアルバスの印影を別々の紙へ写している。

「私はここに残るわ」

サラは顔を上げずに言った。

「比較所見の下書きだけでも整えておく。紙と墨の検査は明日から。あなたたちは今日、記録を増やさなくていい」

「市場を見たら、何かは記録するかも」

リエッタが窓辺から答えた。

石造りの窓枠の向こうで、橋に渡した木樋から水が落ちていた。日が傾くにはまだ早いのに、試運転中の水灯が、淡い青を灯しては消えている。

「普通に市場を見たいな」

普通に、という言葉の置かれた場所を、アルシアは考えた。

出生台帳を見るためでもない。転律珠を運ぶためでも、追跡者を探すためでもない。ただ並んだ店を見て、水灯がともるのを待つ。

研究室の奥では、ユリアナが深い紫髪を灰茶の布へ収めていた。額から一房も出ないよう結ぶと、リエッタと似た色は隠れた。服も宝石のない濃色で、王太女と示すものは見えない。

ノエルは軽装甲の上へ丈の長い外套を着ている。剣の位置までは隠せていなかったが、王家近衛の章は外されていた。

「私たちは北の橋から回ります」

ユリアナが言った。

「あなたたちの後を歩くつもりはありません」

言葉は整っていた。けれど、それを言うために一度、リエッタの方を見ていた。

リエッタは窓辺を離れ、アルシアへ向き直った。

アルシアは先に扉と窓を見た。祭りの間、中央の市場は混む。東の大通りは広いが、橋の上では人が詰まる。左肩は腕を高く上げなければ動く。熱もない。右手首の流量針は朝から同じ位置だった。

危険を数え終えても、行きたいという答えは消えなかった。

「二人で行くか」

リエッタの淡紫の目が、わずかに丸くなった。

「うん。二人で行きたい」

サラがようやく顔を上げた。

「日付が変わるまでに戻る、とは言わないわ。水灯祭でそれを守る人はいないから。警鐘が鳴ったら、音楽の鐘と間違えないこと」

「違うのか」

「嫌でも分かる音よ」

夕方、中央市場の石溝には、普段より多くの水が流されていた。

川上の取水口から高架樋へ引かれた水は、橋のたもとで二つに分かれ、通りの両側を走る細い木樋を下っている。樋の端には掌ほどの銅の羽根車が並び、その軸が薄い変換板へ繋がっていた。水が羽根を押すたび、板の刻みが一つ光り、乳白色の硝子球へ淡い青が移る。

水が止まれば、灯りも消えた。

リエッタは三つ目の屋台で立ち止まった。

「同じ樋から取ってるのに、回り方が揃ってる」

屋台の下へ屈み、羽根車の手前を覗き込む。指は触れず、目だけが水の入口を追っていた。

「ここ。小さい浮きが門を押してるんだ。水位が上がると入口を狭めて、下がると開く。だから流れが少しくらい変わっても、軸の速さが暴れない」

店番が得意そうに、木枠の横を指した。

「止める時は、その赤い取っ手を引くんだ。入口の門が閉じて、灯り一つずつ落とせるよ」

リエッタの顔が上がった。

「外から止められるんだね。変換板が割れた時も?」

「栓が先だ。直すのは暗くしてから」

「いい作りだなあ」

声が少し速くなっていた。

転律珠よりはるかに小さい。水の動きを灯りに変えるだけで、蓄える量もわずかだ。人体へ繋がらず、止める栓が手の届くところにある。

アルシアは機構より、硝子球の青を映したリエッタの横顔を見ていた。

見つかった気がして、通りの向こうへ視線を移す。

北側の路地を、灰茶の頭巾を被った女と長い外套の護衛が歩いていた。ノエルは菓子を売る台の前でも、背後の曲がり角を一度見た。ユリアナは水灯を見上げている。二人ともこちらへ寄らず、次の橋へ向かう道を選んだ。

別に歩くという約束は守られていた。

市場の奥で太鼓が鳴った。

一拍目で、通りの人々が広場の方へ動いた。二拍目には、橋から来た一団が横から合流する。リエッタはまだ浮き門を見ていた。

アルシアは右から来る肩の列と、左の石溝を見た。

リエッタの腕を掴めば早い。

手は伸ばさなかった。

代わりに、右の掌を上へ向けた。

「掴むか」

リエッタが羽根車から顔を上げた。

視線がアルシアの掌へ落ち、そのあと右手首の流量針へ移った。

「針は?」

「変わってない」

人の流れが近づく。アルシアは一歩だけ外側へ出た。左腕で遮らず、体の向きで通り道を作る。

「これは確認じゃない」

リエッタは少しだけ息を止めた。

それから、左手を重ねた。

指先ではなく、掌まで触れた。

「こっちだ」

声がいつもより低くなった。

「うん」

アルシアは人の流れへ入った。

右手を引きすぎない。リエッタの歩幅より半歩先へ出ない。石溝の角では、自分が外側へ回る。普段なら考えずにできることが、今日は一つずつ掌へ返ってきた。

リエッタの指が動くたび、離されるのかと思った。

離れなかった。

夜になると、水灯は橋の輪郭まで青くした。

二人は中央広場を抜け、川幅の狭い石橋で足を止めた。欄干の下には小さな羽根車が連なり、流れを受けるたび、橋脚の硝子灯が上流から下流へ順に光る。風が水面を削り、青い線をいくつにも折った。

広場の笛はここまで届いた。人の声は近いのに、橋の中央だけは流れの音が勝っている。

リエッタの手は、まだ繋がっていた。

「アルシア」

「何だ」

「もし、私が本当にあの記録の子だったら」

言葉が水音の間で止まった。

アルシアは待った。

「王家へ戻れって、言われるのかな」

リエッタは欄干の灯りを見たままだった。

「戻ったこともないのに、戻るって」

言われない、と答えたかった。

ユリアナは呼び方を待った。宮廷の部隊を退かせ、記録を持ち出さなかった。だが、王家にはユリアナだけで決められない命令がある。アルシアはそれを知らないふりはできなかった。

「言われるかもしれない」

リエッタの指に、かすかな力が入った。

「そうだよね」

「だが、言われたことと、お前が決めることは別だ」

リエッタがこちらを見た。

アルシアは、帰るなという言葉を飲み込んだ。

「記録も、ユリアナの話も、まだ終わってない。今、答えを出さなくていい」

「待ってくれる?」

「待つ」

「アルシアは、その間どうしたい?」

問いが自分へ戻ってきた。

川から上がる風が、リエッタの白髪を頬へ運んだ。払う手は繋がっている。もう片方を上げれば左肩が痛む。アルシアはどちらも動かさなかった。

「今は」

水灯が一つ消え、浮き門が開くとまた灯った。

「このまま歩きたい」

リエッタの目元が、ようやく少し緩んだ。

「私も」

広場へ戻ると、輪舞が始まっていた。

決まった相手と踊るものではないらしい。人々は大きな輪を作り、笛の三拍で右へ進み、太鼓の一拍で中央へ寄る。次の一拍で外へ戻る。足を間違えた者が笑い、輪は形を崩してはまた丸くなった。

リエッタが足を止めた。

「やってみる?」

「知らない」

「私も知らないよ」

それは断る理由にならないらしい。

差し出された隣の人の手を、アルシアは左手で低く取った。肩より上げなければ痛みは鈍い。右手でリエッタの左手を持ったまま、輪の中へ入った。

三歩、右へ。

一歩、内へ。

一歩、外へ。

リエッタは最初の三歩目で隣の足を踏みかけた。二度目には太鼓より早く内へ入り、アルシアの腕を引いた。三度目でようやく合い、青い水灯の下で声を立てて笑った。

アルシアは笑えなかった。

代わりに、肩の力が下がった。

日付が変わったことを告げる遠い鐘が一度鳴ったあとも、笛は止まらなかった。

輪が小さくなり、また大きくなる。何度目かの内向きの一歩で、前の列が詰まった。

リエッタがアルシアのすぐ前で止まった。

近かった。

リエッタの息が頬へ触れた。輪が止まっても、左手はアルシアの掌に残っていた。

低い鐘が、東門の方角から広場の音を断ち切った。

笛が止まる。

二度目は、ひとつ手前の鐘楼で鳴り継がれ、石畳を震わせた。

祭りの鐘ではなかった。人々の笑い声が消え、屋台の店番たちが赤い取っ手を引く。通りの水灯が、端から一つずつ落ち始めた。

東の大通りから、市の警備員の声が走った。

「道を空けろ! 宮廷の部隊が東門から入った!」

広場の反対側で、灰茶の頭巾が止まった。

ノエルがユリアナの前へ出る。長い外套の下で、剣の柄に手を置いた。

三度目の警鐘が鳴った。

リエッタの指が、アルシアの掌の中で動いた。

離れるためではなかった。

アルシアも握り返した。

消えていく水灯の青が二人の手を横切っても、どちらの指も、まだほどけなかった。

第6章 了

TABLE OF CONTENTS

公開目次

  1. 01畳まれた毛布
  2. 02持ち帰られた依頼書
  3. 03旅支度の距離
  4. 04同じ道、違う願い
  5. 05一人部屋が二つ
  6. 06白い花の髪飾り
  7. 07エルドラ遺構
  8. 08熱のある手
  9. 09守護者の部屋
  10. 10罠の光
  11. 11命の距離
  12. 12帰る場所
  13. 13父の声を宿す球
  14. 14追跡者の印
  15. 15書庫都市オルフェン
  16. 16もう一人の紫
  17. 17名もない王女
  18. 18祝祭の夜
  19. 19姉という他人
  20. 20父が隠したもの
  21. 21王家の回収命令
  22. 22離れるための嘘
  23. 23選ぶ側
  24. 24白い王女の帰路
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