笑わない魔女と、笑顔絶えぬ魔道具師
第二巻23 / 24

VOLUME II CHAPTER 11

第十一章 選ぶ側

鞄は、研究室まで傾かなかった。

リエッタが一つ、アルシアが一つ、持ち手を握っていた。保守通路の狭い階段では肩が触れそうになったが、どちらも手を離さなかった。

日付が六月二十二日に変わって間もなく、サラが保全原簿を開いた。

リエッタの持出し記録は消さない。その次の行に、屋上からの返却時刻と、封紙に損傷がないことを書き足す。さらに一行空けてから、サラはペン先を止めた。

「もう一度、持っていくのね」

「うん」

「今度は、黙ってじゃない」

開いた遮断箱の中へ、鞄は戻さなかった。封紙付きの木枠が入ったまま、机の脚に触れない位置へ置く。転律珠は回らず、乾いた音も立てなかった。

向かいにはユリアナがいた。深い紫の髪を結び直す時間もなかったらしく、肩へ一筋落ちている。ノエルは閉じた扉の前に立ち、アルシアはリエッタの隣で左腕を低く保っていた。

リエッタは机上の命令書をユリアナへ向けた。「保護」に落ちた油の染みは、もう指で拭っても消えない。

「私は、今は王都へ行かない。転律珠も渡さない」

ユリアナの右小指が、掌へ折れた。

「それが返事?」

「うん。拒否だよ」

リエッタは工具袋に触れず、机上の命令書を見ていた。

「これを、私が選んだ返事として扱ってほしい」

ユリアナはすぐには答えなかった。

窓の外には宮廷部隊の灯りが並んでいる。聴聞までの執行留保は、朝になれば終わる。王太女が支持欄に署名しなくても、命令そのものは消えない。

「王国に危機が迫っていることまで、偽りだとは思わないで」

ユリアナの声は揺れなかった。

「星路の乱れは、オルフェンにいても分かる。王都から届いた報告では、天蓋の縁で小さな欠損が増えている。もし、あなたがそれを止めるために必要なら――」

「何をされるの」

言葉が止まった。

「第二鍵って、何をする人?」

「それは、王都で説明を受ければ」

「いつ帰れるの」

ユリアナの指が開いた。

「危機の内容も、私が何をされるかも、期間も、解除条件も書いてない。王都へ着いてから聞けばいい命令なら、着いてから拒否できることも書けるはずだよ」

命令書の空欄は、問いを置くたびに増えて見えた。

「危機があるなら、なおさら隠さないでほしい。知らないまま同意したことにはできない」

ユリアナは窓へ目を向けた。灯りを数えるように、一つずつ見ていく。

「あなたを行かせれば、命令への違反を助けることになる」

「残せば、拒否した人を連れていく側になる」

アルシアでも、サラでもなく、ノエルが答えた。

「本人の返事は拒否です」

ユリアナが振り返る。

ノエルは扉から動かなかった。

「命令は有効です。ですが、自発同行とは記録できません。殿下が何を選ばれても、そこは変わりません」

「私に、命令を取り消す権限はないわ」

「承知しています」

「朝になれば、部隊は動く」

「その前に出すことはできます」

ノエルは折り畳んだ書庫の防災図を机へ広げた。六つの出入口ではなく、建物の下を流れる細い青線を指す。

「旧保全階の下に、星路冷却用の水路があります。西門の外側へ抜けますが、途中の王家封印は近衛印では開きません」

指が、二つ星を記した小さな四角で止まった。

ユリアナは外套の内側へ手を入れた。取り出した王太女印は、灯りの下で淡い紫を返した。

「これを使えば、開けた者の記録が残る」

「はい。部隊もいずれ気づきます。三枚の水門を落とせば、破壊せず追うには水路管理官の回し鍵が要る。西門へ知らせが届くまでの時間は稼げます」

「あなたは?」

「殿下と残ります。追跡を遅らせた者が誰かも、記録に残します」

逃げ道ではなく、時間を借りる道だった。借りた分は、ここに残る人が支払う。

リエッタはサラを見た。

丸眼鏡の奥の目は、机の三つの紙束へ向いていた。アルバスの杖は紙束の手前にあり、二本の筒も鍵箱に残っている。

「原本は動かさないわ」

サラは言った。

「暗号書簡も個人記録も、大書庫の受領印がある。ここへ残して、押収されるなら押収された事実まで記録にする。私が同行すれば、その記録を守る人がいなくなる」

机の端には、薄い防水布で包んだ紙束が用意されていた。

「持っていくのは認証した複写。転律珠は停止、未接続のまま。原本を置いていくことと、調査を諦めることを混ぜないで」

リエッタは頷いた。

「混ぜない」

そして、まだ図面を見ているユリアナへ尋ねた。

「その道を、開けてくれる?」

ユリアナは王太女印を握った。

命令書へ押すはずだった印だった。押さなくても命令を止められず、別の場所へ押せば自分の関与だけは消せない。

「開ける」

サラは持出し記録の三行目に、複写の番号を一つずつ書いた。

転律珠の封紙と木枠を確かめ、鞄の口を閉じる。リエッタとアルシアを共同の持出者とし、最後に立会人欄に自分の名を記した。

「これで正しくなるわけじゃない」

ペンを置いて、サラは言った。

「でも、なかったことにはさせない」

リエッタは防水布に包んだ複写を、厚布の鞄の外ポケットへ収めた。アルバスの杖には触れなかった。

五人は、研究室の奥から旧保全階段を下りた。

石段は途中から湿り、壁の灯りはなくなった。ノエルの手灯りが、足元だけを細く照らす。アルシアは左腕を身体の脇に下ろしたまま、右手で鞄の持ち手を取っていた。リエッタも反対側を持つ。低い段では二人の歩幅がずれ、鞄の中で木枠が布へ沈んだ。

「次、深い」

アルシアが先に言った。

リエッタは濡れた段の縁を確かめてから降りた。

階段の底には、緑青の浮いた円形扉があった。中央の板に二つの星が刻まれ、一方の星だけに印章を受ける窪みがある。

ユリアナが王太女印を合わせた。

淡紫の光が星の角を一周する。隣の星へ短い線が走り、扉の奥で重い歯が一枚ずつ外れた。

印を離しても、窪みには同じ紋が薄く残った。

「消せないね」

リエッタが言うと、ユリアナは扉の輪へ手を掛けた。

「消さない」

ノエルと二人で輪を回す。扉が人一人ぶん開くと、冷たい水の匂いが流れ込んだ。

サラはそこで止まった。

「西門の外へ出たら、北西の街道は使わないで。宮廷部隊の早馬が先に回る」

「サラは」

「原本のそばにいる。朝の聴聞にも出るわ。移送される本人がいなくても、空欄が埋まったことにはならないもの」

サラは鞄ではなく、リエッタの顔を見た。

「次は、持ち出す前に相談しなさい」

「うん」

サラを残して、円形扉が閉じた。

地下水路は、二人が並べる幅しかなかった。右側を浅い水が走り、左側に濡れた石の足場が続く。ユリアナとノエルが前、リエッタとアルシアが鞄を挟んで後ろを進んだ。

一枚目の水門を越えた時、遠くで金属を打つ音がした。

一度。間を置いて、二度。

ノエルが振り返った。

「開扉記録が確認された合図です。急ぎます」

水音の向こうに、複数の靴音が混じり始めた。

ノエルは壁の把手を引いた。背後で格子が落ち、石を噛む音が水路を揺らす。格子の向こうから制止の声が届いた。

「王太女殿下! そこでお止まりください!」

ユリアナの足が一瞬止まる。

「殿下」

ノエルは命令せず、先の暗がりを手灯りで示した。

ユリアナは進んだ。

二枚目の水門までの足場は、途中で半分崩れていた。鞄を水平にしたままでは通れない。

アルシアが右手を離し、先に狭い縁を渡り切った。左肩は上げない。身体の向きを変え、右手をリエッタへ差し出す。

「鞄を先に」

リエッタは二つの持ち手をまとめ、木枠を壁へ当てないよう渡した。アルシアが右手で受け、向こう側の足元へ下ろす。左腕を使わないぶん動きは遅く、後ろの靴音が一つ近づいた。

持ち手を離したアルシアが、右手をもう一度差し出した。

リエッタは差し出された手を掴んだ。

濡れた靴底が石の縁で滑る。アルシアは指に力を込めたが、引き上げず、リエッタが足を置き直すまで支えた。

二人が渡り終えた直後、後方で魔法の光が格子へぶつかった。鉄が白く光り、冷えた水が蒸気になる。

「長くは持ちません」

ノエルが二枚目の門を落とした。

水路の先に、夜明け前の灰色が見えた。その手前には、西門の外へ続く最後の水門が残っていた。

最後の門は、上へ巻き上げて開く厚い鉄板でできていた。

ノエルが輪を回し、アルシアが鞄を持って先にくぐる。リエッタは水門の手前で振り返った。

ユリアナは来なかった。

王太女印を胸元へ戻し、ノエルの隣に立っている。二人がこちら側へ出れば、追手を止める者がいなくなる。

「王都へ来る理由を、一つだけ伝える」

背後の格子が、もう一度大きく鳴った。

「命紬の全記録は、王都の星環織機でしか開けない」

リエッタは頷いた。

後半の記録がそこにあることは、出る前にサラがユリアナとノエルへ伝えていた。

「だから来て、とは言わない」

「来るなら、自分の意思で」

門の内側から、兵の声が近づく。

リエッタは灰色の空と、鞄を持って待つアルシアを見た。腰の小袋には、リュネの家の鍵がある。

「今は、答えを持って帰る」

「ええ」

リエッタは水門をくぐった。

ノエルが輪を逆方向へ回す。鉄板が下り始め、ユリアナの姿を顔から順に隠していく。

「リエッタ」

名だけが、閉じる水門の向こうから届いた。

第11章 了

TABLE OF CONTENTS

公開目次

  1. 01畳まれた毛布
  2. 02持ち帰られた依頼書
  3. 03旅支度の距離
  4. 04同じ道、違う願い
  5. 05一人部屋が二つ
  6. 06白い花の髪飾り
  7. 07エルドラ遺構
  8. 08熱のある手
  9. 09守護者の部屋
  10. 10罠の光
  11. 11命の距離
  12. 12帰る場所
  13. 13父の声を宿す球
  14. 14追跡者の印
  15. 15書庫都市オルフェン
  16. 16もう一人の紫
  17. 17名もない王女
  18. 18祝祭の夜
  19. 19姉という他人
  20. 20父が隠したもの
  21. 21王家の回収命令
  22. 22離れるための嘘
  23. 23選ぶ側
  24. 24白い王女の帰路
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