笑わない魔女と、笑顔絶えぬ魔道具師
第二巻22 / 24

VOLUME II CHAPTER 10

第十章 離れるための嘘

一番細い鑢だけが、扉に残されていた。

柄に一本、斜めの傷がある。リエッタが考え込むたび、親指でなぞる鑢だった。

先端は、研究室の奥にある細い扉の留め金に差し込まれている。普段は壁と同じ色の板に隠れ、書物運搬機の裏を整備する時しか使わない扉だ。戻ろうとする金具を鑢が押さえ、指二本ぶんの隙間を残していた。

アルシアは柄に触れず、先に室内を見た。

夜の二つ目の鐘が鳴る前だった。サラは評議会用に写した保全記録を届けに出ていた。ユリアナとノエルは別室にいた。アルシアが廊下の見張りの交替を確かめ、戻るまでに百も数えていない。

リエッタはいなかった。

机にはリエッタの聴聞請求書と、第二王女保護命令の写しが残っている。「保護」の上に落ちた油は、紙に染みても黒い輪郭を失っていなかった。その横で、保全原簿の一行だけが増えていた。

――六月二十一日、夜。転律珠を封紙付き木枠のまま移動。停止、未接続。持出者、リエッタ。

行き先はない。

遮断箱の蓋は開いていた。中には木枠の形にへこんだ厚布だけがあり、封紙の切れ端も、壊された留め具もない。アルバスの杖と三つの紙束は机に残され、鍵箱にも触れた跡がなかった。

持ち出したのは、転律珠だけだ。

昼の階段下で、セヴランが告げた言葉が戻った。

自ら同行し、転律珠を渡せば、大書庫を強制捜索しない。アルシアに同行の義務はない。

右手首には流量針があった。そこにある針は命紬の流れだけを測り、向きも、場所も、相手の考えも示さない。

アルシアは見なかった。

細い鑢を留め金から抜く。扉が閉じかけたため、右足を入れて押し返した。左肩の奥に鈍い痛みが走る。左腕は上げず、右手だけで身体の通る幅を開けた。

扉の向こうは、書物運搬機の鎖に沿って上る保守通路だった。

壁の灯りは三つに一つしか点いていない。石段の埃に、小さな靴跡が続いている。隅には、厚い布から落ちたらしい糸が一本あった。

アルシアは歩幅を広げた。

命紬は使わない。冷気で足跡を浮かせることもしなかった。曲がり角では石壁に響く音を聞き、分岐では擦れた埃を見た。上から、鞄の金具が石に触れる音が一度だけ落ちてきた。

階段は屋上へ続いていた。

最後の鉄扉は、風に押されて細く鳴っている。リエッタが油を差した遮断板とは違う、乾いた音だった。

アルシアは扉を開けた。

夜の風が、髪と外套を後ろへ引いた。

大書庫の屋上は、低い石縁に囲まれていた。昼に閉じられた四つの出入口は上から見えない。代わりに、正面口へ続く橋と、通りへ並んだ宮廷部隊の灯りが見えた。濃紺の旗は色を失い、金具だけが火を返している。

リエッタは石縁の前に立っていた。

足元には厚布の鞄がある。二つの持ち手の間から、木枠の留め具を渡る封紙の端が見えた。切れていない。

リエッタは下の灯りを見て、息を吸った。

「呼ぶな」

肩が揺れた。

振り返った顔に、笑みはなかった。白髪が風に乱れ、頬へ張り付いている。

「どうして」

アルシアは細い鑢を見せた。

リエッタの視線が、柄の傷で止まる。

「お前は使った工具を置いていかない」

「扉が閉まったら、通れなかったから」

「戻る道なら、別の物を使う」

返事はなかった。

アルシアは鉄扉から三歩進んだ。リエッタにも、鞄にも手は伸ばさない。下の灯りとリエッタの間へ立てる位置で止まった。

「封紙は」

「切ってないよ。停止したまま。持ち出した時刻も、私の名前も記録に残した」

「どこへ持っていく」

「下にいる人へ渡す」

リエッタは鞄を見た。

「ここから呼んで、私が同行するって先に伝える。正面口では私だけが外へ出る。受け渡しは評議会の人にも見てもらう。そうすれば、サラの部屋を捜されなくて済む」

「朝まで待つと言った」

「待ったら、聴聞のあとに命令を執行されるかもしれない」

「今なら違うのか」

「少なくとも、私が選んだことにはできる」

風が二人の間を抜けた。

遠くで、橋の柵を動かす音がした。屋上の会話はまだ下へ届いていない。宮廷部隊の列にも動きはなかった。

「私が行けば、書庫の人たちは巻き込まれない。ユリアナも命令に逆らわなくていい。ノエルも、止める側に立たなくて済む」

「サラは、無断で持ち出された記録を書くことになる」

「私がやったって残した」

「それでサラが何も感じないと思うのか」

リエッタの口が閉じた。

「お前は人数を減らしているだけだ」

「減らせるなら、そのほうがいいよ」

「お前自身を数えていない」

「数えてる」

「私一人と、ここにいる人たちなら、一人のほうが少ない」

「私も数えていない」

「アルシアは命令の対象じゃない」

「命紬がある」

「王都には、後半の記録がある。宮廷は転律珠の中まで知ってた。解除する方法だって――」

「あると答えたのか」

リエッタは答えなかった。

セヴランは、王都で説明するとしか言っていない。期間も解除条件も空白だった。リエッタは、自分の身体と転律珠をその男に先に渡そうとしている。

「解除できたら」

リエッタの指が、鞄の持ち手に触れた。

「アルシアは自由になれる」

胸の奥で、何かが狭くなった。

五年前から何度も聞いた言葉だった。リエッタは解除試験のたびに、アルシアを自由にすると言った。アルシアも遺構の深部で、遺物を持ち帰ればリエッタを自由にできると言いかけた。

同じ言葉を、二人とも相手の前に置いてきた。

「それは、誰が決めた自由だ」

リエッタが顔を上げた。

「え」

「私が、お前に離してくれと頼んだか」

「でも、命紬がなかったら、アルシアは魔力を渡さなくていい。どこへでも行ける」

「行けることと、行きたいことは違う」

「ずっと、家にいる必要もなくなる」

「必要の話をしていない」

リエッタの指が持ち手から離れた。

アルシアは息を吸った。冷たい風が喉へ入る。短く言えば、別の意味へ逃がせない言葉だった。

「私はお前から離れたいと言ったことはない」

屋上の音が、一度遠くなった。

リエッタは目を瞬いた。笑おうとはしなかった。

「解除したら、家を出ると思ってた」

「言っていない」

「言わなかったから」

「お前も言っていない」

「何を」

「解除したあと、私に離れてほしいと」

リエッタの右手が、空中で一度閉じた。探すはずの工具は、腰の袋にある。けれど手はそこへ向かわなかった。両腕が身体の脇へ下り、空いた両手が見えた。

「私も離れたいから解除しているんじゃない」

風に消えない声だった。

アルシアは、リエッタから目を逸らさなかった。

「供給が続けば、アルシアが先に壊れるかもしれない。私が倒れたら、アルシアまで死ぬ。そんな繋がり方を終わらせたかった」

「私もだ」

「でも、終わったら、アルシアはやっと行けるって」

「私は、お前が私から離れられるように研究していると思っていた」

「違うよ」

「聞かなかった」

「私も」

下の宮廷部隊は、二つの返事を待たず、同じ場所で橋を塞いでいた。命令書もまだ有効だった。

リエッタは石縁から一歩下がった。

「解除、って書き方が違ったのかもしれない」

「何がだ」

「私たちを離す方法、ってずっと考えてた。でも、切ることだけを目的にしたら、離れるほうを先に決めることになる」

リエッタは左手首の流量針を見た。針は命の流れを示している。望みまでは示さない。

「繋ぐか、離れるか。私たちが選べる状態にする」

言葉を確かめるように、一息置いた。

「研究の目的を、そう書き直したい」

「私たちが、か」

「うん。私がアルシアを自由にしてあげるんじゃなくて、アルシアが選べるように。私も選べるように」

アルシアは頷いた。

「なら、今の選択も一人でするな」

リエッタは下の灯りを見た。

「戻っても、朝には連れていかれるかもしれないよ」

「だから、その前に聞く」

「誰に」

「ユリアナだ。あの女は命令の支持欄には署名しなかった。聴聞の立会人欄には署名した」

「王太女として」

「王太女として何を選ぶか、本人に決めさせる」

ユリアナが協力するとは限らない。王国の危機を理由に、命令に従うよう求めるかもしれない。

だが、その答えをリエッタが先に作る必要もなかった。

「助けて、って言うの?」

「違うなら、お前が言い直せ」

リエッタは少し考えた。

「私の拒否を、選択として扱ってほしい。そう頼む」

「それでいい」

下の列で、宮廷の灯りが一つ揺れた。リエッタはもう声を掛けなかった。

アルシアは手に持っていた鑢を差し出した。

リエッタは受け取り、柄の傷を親指で一度なぞった。先端を確かめ、腰の工具袋の平らな仕切りへ戻す。

「置いていくつもりだった」

「知っている」

「見つけてほしかったわけじゃないよ」

「それも知っている」

屋上の縁に、リエッタが置いた鞄が残っていた。

リエッタが一方の持ち手を握る。アルシアは左腕を上げず、右手でもう一方を取った。

合図はしなかった。

二人の間で傾いていた鞄が水平に戻り、石の縁を離れた。

第10章 了

TABLE OF CONTENTS

公開目次

  1. 01畳まれた毛布
  2. 02持ち帰られた依頼書
  3. 03旅支度の距離
  4. 04同じ道、違う願い
  5. 05一人部屋が二つ
  6. 06白い花の髪飾り
  7. 07エルドラ遺構
  8. 08熱のある手
  9. 09守護者の部屋
  10. 10罠の光
  11. 11命の距離
  12. 12帰る場所
  13. 13父の声を宿す球
  14. 14追跡者の印
  15. 15書庫都市オルフェン
  16. 16もう一人の紫
  17. 17名もない王女
  18. 18祝祭の夜
  19. 19姉という他人
  20. 20父が隠したもの
  21. 21王家の回収命令
  22. 22離れるための嘘
  23. 23選ぶ側
  24. 24白い王女の帰路
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