笑わない魔女と、笑顔絶えぬ魔道具師
第二巻20 / 24

VOLUME II CHAPTER 08

第八章 父が隠したもの

「父さんの記録を読みたい」

六月十八日の朝、リエッタはサラの研究室でそう言った。

サラは眼鏡の位置を直し、机の上の暗号書簡へ保護布を掛けた。

「その決定は、今初めて聞いたわ。なら、今日の申請者はあなたたち二人。私は管理者として立ち会う」

サラはすぐに地下へ案内しなかった。

三人で商隊宿へ戻り、封紙の無傷を確かめた転律珠を木枠ごと低い車台へ固定した。停止・未接続の札を付け、アルバスの杖と二本の筒も大書庫へ運んだ。

搬入口と地下書庫の受付で、同じ確認を繰り返した。

珠を止めたまま運ぶための手続きだった。アルシアは急かさなかった。父の杖の握り革に残った浅いへこみに、右手の指が合うのを感じていた。

地下へ続く石段の途中で、冷えた空気が左肩へ入り込んだ。鈍い痛みが増し、アルシアは杖を持ち直す。前を行くリエッタが振り返った。

「肩、上げてない?」

「上げてない。痛みも同じだ」

「分かった」

リエッタは足を止めず、歩幅だけを少し狭くした。

地下書庫の最奥に、石壁と同じ色の扉があった。取っ手はなく、中央に杖の太さほどの縦溝がある。その下には、角度の違う二つの星を刻んだ浅い円があった。

サラが扉脇の遮断板を下ろした。壁の三本の導線が遮断され、転律珠を置く固定台だけが円の前に残る。

「珠は人体にも導晶にも繋がない。私が外部停止を持つ。リエッタは一目盛り以上回さない。アルシアは、肩に痛みが増したら杖を抜く。開かなければ今日は終わり」

二人が頷いた。

アルシアは杖の先を縦溝へ入れた。ぴたりとはまったが、扉は動かない。

リエッタが封紙を残したまま木枠を固定台へ留め、短い手回し具を外輪へ噛ませた。ほんの一目盛り、押す。

転律珠の内側で乾いた音がした。

二つの星が別々の速さで淡く光り、扉の円へ重なる。杖の握り革の下から、細い金色の線が一本だけ走った。

サラが停止具を引いた。

珠の光は消えた。回転も止まった。そのあとで、石壁の内側から小さな閂の外れる音がした。

扉は、指二本ぶんだけ手前へ出た。

中にあったのは、一冊の本ではなかった。

薄い紙束が三つ、灰色の保存布に包まれていた。布の端に、アルバスの印がある。アルシアは杖を抜いたあとも右手から離せず、サラとリエッタが紙束を運び出す間、その場に立っていた。

地下の閲覧台で、最初の布が開かれた。

書き出しの日付は、新暦三百年。リエッタとアルシアが生まれた年だった。

――エレノア王妃の頼みを受け、第二女を宮廷の記録から外し、西へ移す。名はリエッタ。宮廷の役目ではなく、一人の子として預かる。

昨日読んだ書簡と同じ内容だった。だが、今度は父の側から書かれている。

リエッタは、父の字で書かれた自分の名をもう一度追った。

「王都へ行くかとは、別のことだよ」

「ああ」

「でも、あそこで生まれて、父さんに連れてきてもらった子は、私なんだね」

「そうだ」

リエッタは頷いた。台帳の空欄とは言わず、自分の名がある行から目を逸らさなかった。

次の頁には、辞職までの経緯が短く記されていた。

アルバスは宮廷で星路と接続術を研究し、セヴランと共同で記録を作っていた。二人は研究の扱いについて意見が一致しなくなり、アルバスは王妃の依頼を受けた同じ日に辞職して宮廷を離れた。

何に同意できなかったのかは書かれていない。

セヴランの名の横に、友人とも敵とも書かれていなかった。ただ「共同研究者」とだけあった。

アルシアは頁の余白を押さえるリエッタの指を見た。工具で硬くなった指先は、父の字に触れない位置にあった。

「父さんは、知っていたんだな」

自分の声が、近すぎる石壁からすぐに返った。

リエッタは顔を上げなかった。

「何を?」

「お前が誰かも。宮廷が何を探すかも」

それでも、毎朝同じ食卓へ座っていた。熱を出せば薬を作り、喧嘩をすれば二人の言い分を別々に聞いた。何も知らない子どもとして育てながら、父だけは全部を知っていた。

紙束の後ろに、二人の名を並べた頁があった。

――幼いうちは、知らないことが二人を守ると考えた。

その一行の下は、長く空いていた。違う日に書き足したらしく、墨の色が少し薄い。

――娘たちへ話す時期を失った。

杖の握り革が軋んだ。

アルシアは指を緩めようとした。できなかった。

「失ったんじゃない」

リエッタがこちらを見た。サラは口を挟まず、記録板へ日付と頁だけを書いている。

「父さんが、延ばしたんだ」

危険だったことは分かる。二人は子どもだった。リエッタを宮廷から隠し、アルシアも巻き込まないために黙ったのだろう。

分かる理由が一つ増えるたび、腹の底の冷たさも増した。

「私たちが知ったら耐えられないと、父さんが決めた。何を話すかも、いつ選ばせるかも、一人で決めた」

「父さんは、きっと怖かったんだよ」

リエッタの声は小さかった。

「話したせいで見つかったらって。私たちを守ろうとして――」

「守られた」

アルシアは言った。

「それは消さない。お前を育てたことも、私を育てたことも、最後に私たちを生かしたことも」

右手の中で、杖はまだ父の手の形を保っていた。

「だが、信じてはくれなかった」

リエッタの唇がわずかに開き、閉じた。

アルシアは杖を握ったまま、その目を見た。

「怒っても、愛していたことは消えない」

長い沈黙のあと、リエッタは紙から両手を離した。何かを直す時のように父の言葉へ触れることをやめ、膝の上で指を組んだ。

「うん」

笑わなかった。

「分からないことを、私が分かったことにはしない」

アルシアの怒りを宥める言葉も、父に代わる謝罪も続かなかった。

ただ、リエッタは席を立たなかった。

六月十九日は、記録の内容より紙束の作りを調べた。

三つ目の包みには、命紬と表書きされた頁が入っていた。術式の細部はなく、見出しと試験条件、保管先だけが残されている。

リエッタは頁端の綴じ穴を透かし、前後の紙を重ねた。

「破られたんじゃない。最初から二つに分けて綴じてある」

片側の穴には糸を抜いた擦れがなく、頁番号もこの束の終わりに合わせて打ち直されていた。最後の紙には、アルバスの手で一行だけ書かれている。

――後半は王都、星環織機の保管環に残す。

なぜ分けたのか。誰に読ませるつもりだったのか。答えはなかった。

アルシアはその一行を写した。王都という字を書いたところで、左肩の奥が鈍く疼いた。

「今日はここまで」

リエッタが言った。

アルシアは反射的に続けると言いかけ、筆を置いた。

「分かった」

六月二十日、三つの紙束はサラの研究室へ移された。地下書庫の持出簿、封印の再施錠、紙束ごとの受領印を三人で確認してからだった。転律珠は封紙付きの木枠のまま、研究室の遮断箱で停止している。

午後の光を低い角度から当てた時、サラの指が二つ目の紙束の端で止まった。

「これ、収蔵番号じゃない」

紙の繊維に押し込まれた、色のない印だった。正面からは見えず、斜めの光で細い枠と一連の数字だけが浮く。

サラは別の目録を持ってきた。表紙に鍵印のある、宮廷記録の形式一覧だった。頁を繰り、同じ細枠を指す。

「宮廷の秘密裁判に付ける番号よ。公開記録へ載せない審理で使われた形式」

リエッタが紙へ顔を近づけた。

「父さんが裁かれたの?」

「番号だけでは分からない。被告か、証人か、資料の提出者かも特定できない。ただ、この紙束が秘密裁判の資料として一度登録されたことは分かる」

サラは番号を書き写し、原紙には触れない位置へ比較札を置いた。

「裁判記録の保管場所は、別に探す必要がある」

机の端に立て掛けていた杖が、アルシアの右手の中にあった。

アルシアは握っていた指を一本ずつ開いた。

杖を持ち上げず、そのまま机の上へ倒した。木と天板が触れ、乾いた音が一つした。

父が死んでから、杖を机の上へ横たえたのは初めてだった。

杖は紙束の手前で止まり、転がらなかった。

アルシアは、手を戻さなかった。

第8章 了

TABLE OF CONTENTS

公開目次

  1. 01畳まれた毛布
  2. 02持ち帰られた依頼書
  3. 03旅支度の距離
  4. 04同じ道、違う願い
  5. 05一人部屋が二つ
  6. 06白い花の髪飾り
  7. 07エルドラ遺構
  8. 08熱のある手
  9. 09守護者の部屋
  10. 10罠の光
  11. 11命の距離
  12. 12帰る場所
  13. 13父の声を宿す球
  14. 14追跡者の印
  15. 15書庫都市オルフェン
  16. 16もう一人の紫
  17. 17名もない王女
  18. 18祝祭の夜
  19. 19姉という他人
  20. 20父が隠したもの
  21. 21王家の回収命令
  22. 22離れるための嘘
  23. 23選ぶ側
  24. 24白い王女の帰路
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