VOLUME II CHAPTER 07
第七章 姉という他人
警鐘のあと、四人は東の大通りを使わなかった。
ノエルが先に北の路地を確かめ、ユリアナを通し、その後ろをリエッタとアルシアが歩いた。祭りの客が広場から押し出されるたび、アルシアはリエッタを壁際へ寄せたが、腕を掴まなかった。水灯の消えた狭い通用門を一人ずつ抜ける時、重ねていた手はそこで離れた。
宮廷部隊は東門近くに留まった。ノエルが確認してきたのは、王都から後続の文書が来るということだけだった。誰を迎えに来たのか。何を持ち帰るのか。封のある命令は、一日待っても大書庫へ届かなかった。
六月十七日の朝、ユリアナは待つことをやめた。
「今度は、私が持っているものを全部見せます」
サラの研究室で、細長い文書箱が机の中央へ置かれた。ノエルが、その隣へ平たい黒革の箱を置く。
窓は開いていた。祭りに使われていた水が、外の石溝を平常の速さで流れている。机の端には、サラが作った比較所見の下書きがあり、王妃の筆跡、アルバスの印影、出生台帳の日付が別々の列へ収められていた。
リエッタは椅子に座らず、文書箱の留め紐を見た。
文書箱の宮廷環状印は割れていた。前に閉架塔へ持ち込まれた時、開封済みとして登録されたものだ。新しく切られた跡はなく、中にあるのも登録された出生記録の写し一枚だけだった。
ユリアナは黒革の箱へ手を置いた。
「これは閉架塔へ持ち込まなかったものです。台帳が一致するまでは、母の記録を人前へ出さないと決めていました」
「隠していたことも含めて、見てください」
黒革の箱から、四つ折りの紙と薄い銀板が出てきた。
銀板には、角度の違う二つの星形の穴があった。片方の先だけが短い。
「母から、この読み板の使い方を教えられました」
ユリアナは銀板へ手を伸ばしかけ、止めた。
「あなたが確かめますか」
「うん」
リエッタは指先の油を布で拭いた。サラが紙の下へ保護板を入れ、四隅へ小さな文鎮を置く。アルシアは机の左端に立ったまま、書簡にも銀板にも触れなかった。ノエルは閉じた扉の前にいる。
紙の表には、鏡台、衣装箱、薬箱と、王妃の私物らしい品名が並んでいた。文章ではなく受渡しの覚え書きに見える。けれど、行の間隔が揃っていない。狭い行と広い行が交互にあり、文字の一部だけ、筆圧がわずかに強かった。
リエッタは銀板を紙の上へ置いた。
星形の穴は文字と噛み合わなかった。
「向きが違う」
板を半回転させる。まだ合わない。短い星の先を、紙の右下にある針ほどの点へ重ねると、板の縁が二本の折り目にぴたりと沿った。
穴の中に、離れていた文字が一つずつ現れた。
リエッタは穴に現れた文字を声に出さずに追った。読み終えるたび、板を浮かせず、縁の溝を折り目に一つずつ合わせてずらす。サラは手順を記録し、その記録だけを見て二度目を再現した。ユリアナは触れなかった。
二度読んでも、言葉は変わらなかった。
――アルバスへ。第二女は死んでいません。名は台帳に記さず、リエッタと呼んでください。宮廷の役目ではなく、一人の子として西へ。母として、あの子をあなたに託します。
最後の一行だけは、板を外しても読めた。
――第二の印は、本人が自ら名乗る日まで、私の箱に残します。
研究室の水音が急に大きくなった気がした。
リエッタは板を外し、紙の裏を見た。折り目をまたいで、小さな印影がある。昨日まで比較所見の下書きで何度も見た、アルバスの印だった。その横の短い文も、研究頁で知っている筆跡に似ていた。
受け取りました。命令ではなく、頼みとして。
「同じ文面を二通作り、これは母の側に残した控えです」
ユリアナが言った。
「一通はアルバスが持って宮廷を出た。母は、私物の受渡し記録に紛れさせたと話しました」
サラは筆跡見本を横へ寄せた。角の丸い字、下へ長く引く線、印を押す時に右へ傾ける癖が、書簡と見本で一致している。
「紙と墨の年代検査は別にする。でも、今ここで再現できた読み順、エレノア王妃の筆跡、アルバス先生の受領印は、閉架の記録と矛盾しない」
サラは眼鏡を押し上げた。
「名欄が空白の第二女と、アルバス先生が育てたリエッタを、名前で繋ぐ記録になる。外見や遺物の反応に頼らずにね」
リエッタは書簡の「リエッタ」という文字を見た。
アルバスに呼ばれた名だった。五年前まで紫色だった髪も、今の白い髪も、その名とともにあった。工房の扉に掛けた札にも、修理報告の署名にも使ってきた。
空欄のために新しい名を入れる必要はなかった。
「私なんだ」
声は思ったより小さかった。
「あの台帳の、名前がない方」
アルシアの靴底が床を擦り、止まった。
ユリアナは両手を膝の上で組み、リエッタを見ていた。
「そうです」
王太女の言い方だった。崩さないために整えた声にも聞こえた。
黒革の箱の底には、小さな布包みが残っていた。ユリアナが紐を解くと、銀色の印章が一つ現れた。持ち手の先に、環に囲まれた二つ星の家紋が刻まれている。
「母が、第二女のために作らせたものです」
リエッタは手を出さなかった。
印章より先に、ユリアナの手を見た。両手の指が、ほどけないように強く組まれていた。
「リエッタ」
「うん」
「戻ってきて」
どこへ、とは聞かなかった。
紫の髪を隠さず歩ける王宮。リエッタのために用意されたかもしれない部屋。生まれた日の記録があり、同じ顔の姉が待っていた場所。
どれも、リエッタの帰ったことがない場所だった。
「私の家はリュネだよ」
ユリアナの指がほどけた。
「王家の子ではないと、言うのですか。今、確かめたでしょう」
「確かめたよ」
リエッタは書簡を指した。
「生まれた場所のことは、これで分かった。でも、家は別だよ。私が鍵を掛けて出てきた家は、リュネにある」
腰の小袋の中で、その鍵の角が指に触れた。
「工房も、依頼を待たせてる道具もある。私を育てた人の墓もある。戻るって言葉で、それを過去のものにしないで」
ユリアナは返事をしなかった。
机の端で、サラが記録用のペンを置いた。
「中庭を使って。書簡はここで預かる。風に持っていかれたら、私が先に怒るから」
書庫の中庭には、四角い石卓が一つあった。
周囲を回廊に囲まれ、外の通りからは見えない。祭りの水灯を吊った細い紐だけが軒下に残り、風に揺れていた。アルシアとノエルは回廊の入口で止まった。近すぎず、声を張らなくても呼べる距離だった。
リエッタは石卓の片側に座った。ユリアナは向かいではなく、右隣の辺を選んだ。近づけば手が届く。けれど、手を伸ばさなければ触れない場所だった。
布包みの印章は、二人の間に置かれた。
「家を捨てろと言いたいわけではありません」
ユリアナが先に言った。
「けれど、王都に来てほしい。宮廷であなたの立場を確かにして、守れるようにしたい」
「守るために、住む場所も決めるの?」
「決めるつもりは――」
言葉が切れた。
祭りへ来た宮廷部隊の目的は、まだ文書になっていない。前日にサラが見せた法文では、出生だけで宮廷居住を強制されない。ユリアナもそう言った。けれど「守る」と「連れていく」の境目を、リエッタはまだ見せてもらっていなかった。
「私は十八年、妹が死んだと思っていた」
ユリアナの声から、整えられた響きが消えた。
「母から、妹は生きているかもしれないと聞かされても、どこにいるかは教えられなかった。記録を探せば消されている。やっと見つけたら、あなたは私の知らない町を家だと言う」
石卓の下で、衣擦れが鳴った。
「分かっている。あなたのせいではない。分かっていても、ここでまた待つしかないなら、私は怒る」
リエッタは、布包みの折り目を見た。
「私は今日まで姉がいると知らなかった」
ユリアナが口を閉じた。
「父さんが隠してた。王妃が私を託したことも、私がどこで生まれたかも。私は、知らなかった十八年を、今日から急に知っていたことにはできない」
「ええ」
「ユリアナが失った十八年も、なかったことにはしない」
「ええ」
二度目は、少しかすれた。
リエッタは印章に触れず、石卓のざらつきを指でなぞった。細い砂が一粒、爪の横に残る。
「怒っていいと思う」
「あなたも」
「うん。でも、それで同じ答えにしなくていい」
風が吹き、軒下の紐が石壁を一度叩いた。
ユリアナは、王太女らしく伸ばしていた背を少しだけ丸め、卓上の印章を見た。
「では、何からなら始められますか」
リエッタは考えた。
姉と呼ぶには、知っていることが少なすぎた。妹と呼ばれるには、その言葉の中へ入っていない十八年が多すぎた。
「名前から」
「名前」
「妹じゃなくて、リエッタって呼んで。私も、まだ姉さんとは呼べない」
ユリアナは一度口を閉じ、ひと呼吸置いてから頷いた。
「リエッタ」
リエッタも返した。
「ユリアナ」
「次は、父さんが何を隠したのか調べる」
リエッタは回廊にいるアルシアを見た。アルシアは壁から背を離したが、こちらへは来なかった。
「この書簡を受け取って、それでも生きている間に話さなかった理由を、父さんの記録で確かめたい」
「私が知っていることを、先に答えましょうか」
「先に答えをもらうと、記録をその形に読んじゃうかもしれない。それとは別に読みたい」
「分かりました」
ユリアナは首元の細い鎖を外した。服の内側から、もう一つの銀色の印章が滑り出る。
王太女の印だった。
それを、布包みから出した第二女の印の隣へ置く。どちらにも、環に囲まれた同じ二つ星が刻まれていた。
二つの印章のあいだには、石卓のざらついた面が指一本ぶん残っていた。