VOLUME II CHAPTER 03
第三章 書庫都市オルフェン
六月十二日の昼過ぎ、オルフェンはまず車輪の音を変えた。
西街道の土を八日間踏んできた荷車が、石敷きへ乗る。細かな揺れが消え、代わりに、一定の間隔で硬い音が座板の下から返ってきた。
リエッタは幌の縁を持ち上げた。
道の先に、川があった。中州へ渡された橋は一枚の石ではなく、長さの違う橋桁を幾つも噛み合わせてできている。その継ぎ目を越すたび、車輪が音を立てていた。
橋の向こうには、細い塔が並んでいる。
窓の数より、壁を上下する箱の方が多かった。綱で吊られた木箱が、一つの塔から橋の上を渡り、別の塔の開口部へ吸い込まれていく。川岸の水車が回ると、橋脚の中から歯車の低い音が響き、三つの箱が同時に持ち上がった。
「あれ、全部、本を運んでるのかな」
「身を出すな」
アルシアの右手が、幌の縁を少し下げた。左腕は膝の上から動かしていない。
「落ちないよ」
「お前じゃない。上から荷が来る」
言われて見上げた直後、橋の上を渡る箱から紙片が一枚こぼれた。風に煽られた紙は、荷車の屋根を越えて川へ落ちていく。
リエッタは幌の内側へ戻った。
腰の袋で、家の鍵が小さく鳴った。
旅の間、朝と夜に一度ずつ、荷の中央を確かめた。厚い布はずれていない。木枠の留め具も緩んでいない。転律珠へは何も繋いでいない。それでも車輪が穴を踏むたび、布の奥にある重みを足裏で探してしまった。
橋を渡り切ると、音が一度に増えた。
道の両側に並ぶのは、魔道具そのものより、その部品だった。薄い歯車を指先で弾く音、導晶の欠けを調べる小槌の音、紙を傷めない温風器の羽根音。それぞれは工房でも聞く音なのに、幾十も重なると、どこから一つの仕組みが始まり、どこで終わるのか分からない。
リエッタは右を見て、左を見て、もう一度塔を見上げた。
「前」
アルシアに言われ、荷台の柱へ額をぶつける寸前で止まった。
「見てたよ」
「三方向を同時には見ていない」
荷車が商隊宿の荷下ろし場へ入った。リエッタは降りる前に足首を曲げた。脛の奥に、長く座ったあとの重さが残っている。
アルシアが先に地面へ降りた。手を出さず、リエッタの顔を見る。
「歩けるか」
「大書庫までなら。途中で一度、座る」
「分かった」
荷車の修理箱を商隊へ返し、仕事の終了を確認してもらった。旅荷の大半は宿へ預けたが、転律珠と記録だけは手元に残した。アルシアは研究頁の防水筒と地図筒を右肩へ掛け、古い杖を右手に持った。リエッタが木枠入りの荷を抱えると、その歩幅に合わせて隣へ並ぶ。
大書庫は、一つの塔の名前ではなかった。
中州に立つ幾つもの書庫塔と、それを繋ぐ橋、川岸の閲覧棟までをまとめて、そう呼ぶらしい。入口で渡された案内図は、建物の図というより、流量を分ける配管図に似ていた。
リエッタは最初の閲覧室へ着く前に、約束どおり石の長椅子へ座った。
アルシアは急かさなかった。入口と二つの階段を見てから、隣ではなく、リエッタの正面に立った。
「もう行けるよ」
「息が戻ってから言え」
「戻ってる」
「今、戻った」
言い返そうとして、リエッタはやめた。実際、最後の一息だけ少し深かった。
公開索引室には、本を読むための机より、索引を読むための台が多かった。
リエッタは受付でもらった検索票へ、まず「双星紋」と書いた。その横へ、小さく「記録用仮称」と添える。二つの星の角度と、片方が依頼書の透かしに一致したこと、その下へ別の古い保管印が投影されたことも図にした。
係から渡されたのは、布張りの厚い索引だった。旧王家の印章と星路をまとめた目録だ。
アルシアが台の向かいに立ち、リエッタが頁を繰った。紙は指の脂を嫌うため、薄い木片を頁の端へ差し入れて送る。
「あった」
リエッタは声を落とした。
双星紋。
自分たちが記録のために付けた呼び名と、同じ三文字が印刷されていた。後ろには短く、〈王家の星路に関する項を見よ〉とある。
胸の奥で、歯車が一つ余分に噛み合った。
偶然、同じ形へ同じ名を付けただけかもしれない。そう考えながら、指定された頁を探す。
頁番号は、百八十六の次が百八十九だった。
リエッタは一度閉じ、背を確かめてから、もう一度開いた。数え間違いではない。綴じ目の近くに、紙の端が細く残っている。一葉が根元から抜かれていた。
「破れたのかな」
アルシアは紙へ触れず、切れ端を見た。
「外からでは分からない」
欠落の前の頁は、王家が管理した星路の印を年代順に並べている。最後の行は途中で切れ、続きは失われた二頁にあるはずだった。百八十九頁からは、別の印の項が始まっている。
受付の係は保存記録を調べたが、いつ欠けたかまでは分からなかった。遺物の現物とアルバスの名を書いた追加票を出すと、しばらく席を外し、一枚の入室札を持って戻ってきた。
「遺物史の研究室で、サラ・オルネに見せてください」
サラの研究室は、三つ目の塔の中ほどにあった。
扉を開けると、机の上で小さな書物運搬機が止まった。歯車へ紙帯を通していた女が顔を上げる。赤褐色の短い髪は片側だけ耳へ掛かり、丸眼鏡の縁にも指にも黒いインクが付いていた。
「双星紋を持ってきた人?」
挨拶と着席を一度に済ませるような速さだった。
「持ってきたのは、そう呼んでいた遺物です」
リエッタは机の空いた場所を確かめ、木枠を置いた。留め具を外し、厚い布を左右へ開く。
転律珠が光を受けた。
透明な外殻の奥で、停止していた細い輪が、置いた時の揺れに遅れて半周だけ動いた。
しゃり、と乾いた音がした。
サラの指が止まる。
「今、何を繋いだの」
「何も。旅の間も未接続です」
「では、最後に起動したのは?」
「六月二日。家の工房で」
丸眼鏡の奥の目が、転律珠からリエッタへ移った。
「家?」
「専用台を作って、手回しの回転と温度差だけを入れました。人体と導晶には繋いでいません。双方の流量針、銅板の温度、感知板を見て、音声の途中でも止める条件にして」
「遮断室は」
「ありません」
「独立した停止装置」
「手回し台から外せば止まります」
「試験に参加していない監督者は」
リエッタは答えられなかった。
「私も起動に同意した」
アルシアが言った。
サラはそちらへ顔だけ向けた。
「誰が多く悪いかを決めているんじゃないわ。未知の遺物を私設の工房で動かして、二人とも倒れたら、止める人がいなかったと言ってるの」
言葉は速いが、声は大きくない。
リエッタは開いた布の端を揃えた。エルドラから戻ったあの日、ガルドを立会人にした検査は思い出せた。その後の工房では、二人で条件を決めれば足りると思っていた。
「記録はあります」
「見せて」
アルシアが地図筒から携行用の写しを出した。サラは頁を受け取ると、最初の一枚を半分まで読み、椅子を引き寄せた。音声の発生時刻、温度の上がり方、停止理由を指で追う。途中から速さが落ちた。
「『動いた』で試験を終わらせなかったのはいい。けれど、動作したことは結果でしかない。安全だったと判断するには、動かなかった部分と、止め損ねた時の逃がし先まで要る」
「はい」
「次に動かすなら、書庫の遮断設備を使う。あなたたちが立ち会って、入力は外から切る。私にも調べさせて」
リエッタが顔を上げると、アルシアが防水筒を机へ置いていた。留め具を外し、研究頁を乾いた布の上へ広げる。
サラの視線が、その字で止まった。
「この字、どこで?」
「父の研究帳から抜いた頁だ。名はアルバス」
サラは眼鏡を外した。レンズを布で拭くでもなく、机の上へ置く。
「アルバス先生の娘?」
「教わったのか」
「ええ。先生は、答えより先に失敗した条件を書けって人だった。自分で守れない時もあったけど」
サラは研究頁と転律珠を見比べた。
「宮廷で何をしていたか、知っていますか」
リエッタが聞いた。
「全部は知らない。私が教わった頃には、先生はもう宮廷を離れていたから。ただ、王家が管理する星路を研究していた。どこへ魔力を集め、誰が開き、何を条件に閉じるか。それを、ずっと調べていた」
「どうして離れたの」
「それは聞いても答えなかった」
アルシアの右手が、杖の握りを包んだ。革のへこんだ位置へ指が重なる。
サラは棚から、薄い印譜と透かしを見るための白い板を持ってきた。珠の後ろへ板を立て、透明な外殻の奥にある二つ星と、印譜の一つの向きを揃える。星の角度も、片方にある短い欠けも一致した。
「古い王家の印よ」
リエッタは印譜と珠を交互に見た。
「下に出た保管印だけじゃなくて、この二つ星も?」
「ええ。保管印とは別の印よ。二つで一つ。少なくとも、一般の工房印を持つ遺物ではない。王家の管理記録に載るはずのものよ」
「その記録が、さっきの索引から抜けてる」
「だから厄介なの」
サラは印譜の巻末を開いた。細かな参照先の中から、一行を爪で押さえる。
「この双星の印が使われた記録を追うなら、古い出生台帳の写本がある。索引で欠けた項と、印の使われ方を照合するには確認した方がいい」
「見られますか」
「閉架資料。公開日は七日ごとで、次は明日。閲覧申請を今日出せば間に合う」
六月十三日。
リエッタは検索票の裏へ日付を書いた。誰の名があるかも、自分たちの探す年が含まれるかも、まだ分からない。それでも、家の研究帳にはなかった入口だった。
「残るか」
アルシアが聞いた。
オルフェンに、とは言わなかった。
リエッタは自分で書いた日付を見た。
「見る。抜けてない方を」
「分かった」
リエッタは転律珠を厚い布へ戻し、木枠の留め具を締めた。アルシアも研究頁を防水筒へ収めた。
閉室の鐘が鳴る前に、三人は公開索引室へ戻った。
サラは欠けた頁を光に透かし、背の上下を見た。リエッタは反対側から索引を支える。紙の切れ端は古く変色している。いつ抜けたかは、それだけでは読めない。
父が隠したものを探しに来たのだと思っていた。
けれど、父が黙っていたことと、ここから頁がなくなったことは、同じではない。家の中だけで閉じていた秘密なら、遠い書庫の索引にまで空白はできない。
「もう少し、背を開ける?」
リエッタが聞いた。
「傷めないところまで」
サラが答え、アルシアは杖を索引台へ立て掛け、灯りの位置を右手で下げた。
細くなった光が、抜かれた頁の根元へ入る。
背の奥深くで、その頁を綴じていたはずの糸だけが、ほかより新しい色をしていた。