笑わない魔女と、笑顔絶えぬ魔道具師
第二巻15 / 24

VOLUME II CHAPTER 03

第三章 書庫都市オルフェン

六月十二日の昼過ぎ、オルフェンはまず車輪の音を変えた。

西街道の土を八日間踏んできた荷車が、石敷きへ乗る。細かな揺れが消え、代わりに、一定の間隔で硬い音が座板の下から返ってきた。

リエッタは幌の縁を持ち上げた。

道の先に、川があった。中州へ渡された橋は一枚の石ではなく、長さの違う橋桁を幾つも噛み合わせてできている。その継ぎ目を越すたび、車輪が音を立てていた。

橋の向こうには、細い塔が並んでいる。

窓の数より、壁を上下する箱の方が多かった。綱で吊られた木箱が、一つの塔から橋の上を渡り、別の塔の開口部へ吸い込まれていく。川岸の水車が回ると、橋脚の中から歯車の低い音が響き、三つの箱が同時に持ち上がった。

「あれ、全部、本を運んでるのかな」

「身を出すな」

アルシアの右手が、幌の縁を少し下げた。左腕は膝の上から動かしていない。

「落ちないよ」

「お前じゃない。上から荷が来る」

言われて見上げた直後、橋の上を渡る箱から紙片が一枚こぼれた。風に煽られた紙は、荷車の屋根を越えて川へ落ちていく。

リエッタは幌の内側へ戻った。

腰の袋で、家の鍵が小さく鳴った。

旅の間、朝と夜に一度ずつ、荷の中央を確かめた。厚い布はずれていない。木枠の留め具も緩んでいない。転律珠へは何も繋いでいない。それでも車輪が穴を踏むたび、布の奥にある重みを足裏で探してしまった。

橋を渡り切ると、音が一度に増えた。

道の両側に並ぶのは、魔道具そのものより、その部品だった。薄い歯車を指先で弾く音、導晶の欠けを調べる小槌の音、紙を傷めない温風器の羽根音。それぞれは工房でも聞く音なのに、幾十も重なると、どこから一つの仕組みが始まり、どこで終わるのか分からない。

リエッタは右を見て、左を見て、もう一度塔を見上げた。

「前」

アルシアに言われ、荷台の柱へ額をぶつける寸前で止まった。

「見てたよ」

「三方向を同時には見ていない」

荷車が商隊宿の荷下ろし場へ入った。リエッタは降りる前に足首を曲げた。脛の奥に、長く座ったあとの重さが残っている。

アルシアが先に地面へ降りた。手を出さず、リエッタの顔を見る。

「歩けるか」

「大書庫までなら。途中で一度、座る」

「分かった」

荷車の修理箱を商隊へ返し、仕事の終了を確認してもらった。旅荷の大半は宿へ預けたが、転律珠と記録だけは手元に残した。アルシアは研究頁の防水筒と地図筒を右肩へ掛け、古い杖を右手に持った。リエッタが木枠入りの荷を抱えると、その歩幅に合わせて隣へ並ぶ。

大書庫は、一つの塔の名前ではなかった。

中州に立つ幾つもの書庫塔と、それを繋ぐ橋、川岸の閲覧棟までをまとめて、そう呼ぶらしい。入口で渡された案内図は、建物の図というより、流量を分ける配管図に似ていた。

リエッタは最初の閲覧室へ着く前に、約束どおり石の長椅子へ座った。

アルシアは急かさなかった。入口と二つの階段を見てから、隣ではなく、リエッタの正面に立った。

「もう行けるよ」

「息が戻ってから言え」

「戻ってる」

「今、戻った」

言い返そうとして、リエッタはやめた。実際、最後の一息だけ少し深かった。

公開索引室には、本を読むための机より、索引を読むための台が多かった。

リエッタは受付でもらった検索票へ、まず「双星紋」と書いた。その横へ、小さく「記録用仮称」と添える。二つの星の角度と、片方が依頼書の透かしに一致したこと、その下へ別の古い保管印が投影されたことも図にした。

係から渡されたのは、布張りの厚い索引だった。旧王家の印章と星路をまとめた目録だ。

アルシアが台の向かいに立ち、リエッタが頁を繰った。紙は指の脂を嫌うため、薄い木片を頁の端へ差し入れて送る。

「あった」

リエッタは声を落とした。

双星紋。

自分たちが記録のために付けた呼び名と、同じ三文字が印刷されていた。後ろには短く、〈王家の星路に関する項を見よ〉とある。

胸の奥で、歯車が一つ余分に噛み合った。

偶然、同じ形へ同じ名を付けただけかもしれない。そう考えながら、指定された頁を探す。

頁番号は、百八十六の次が百八十九だった。

リエッタは一度閉じ、背を確かめてから、もう一度開いた。数え間違いではない。綴じ目の近くに、紙の端が細く残っている。一葉が根元から抜かれていた。

「破れたのかな」

アルシアは紙へ触れず、切れ端を見た。

「外からでは分からない」

欠落の前の頁は、王家が管理した星路の印を年代順に並べている。最後の行は途中で切れ、続きは失われた二頁にあるはずだった。百八十九頁からは、別の印の項が始まっている。

受付の係は保存記録を調べたが、いつ欠けたかまでは分からなかった。遺物の現物とアルバスの名を書いた追加票を出すと、しばらく席を外し、一枚の入室札を持って戻ってきた。

「遺物史の研究室で、サラ・オルネに見せてください」

サラの研究室は、三つ目の塔の中ほどにあった。

扉を開けると、机の上で小さな書物運搬機が止まった。歯車へ紙帯を通していた女が顔を上げる。赤褐色の短い髪は片側だけ耳へ掛かり、丸眼鏡の縁にも指にも黒いインクが付いていた。

「双星紋を持ってきた人?」

挨拶と着席を一度に済ませるような速さだった。

「持ってきたのは、そう呼んでいた遺物です」

リエッタは机の空いた場所を確かめ、木枠を置いた。留め具を外し、厚い布を左右へ開く。

転律珠が光を受けた。

透明な外殻の奥で、停止していた細い輪が、置いた時の揺れに遅れて半周だけ動いた。

しゃり、と乾いた音がした。

サラの指が止まる。

「今、何を繋いだの」

「何も。旅の間も未接続です」

「では、最後に起動したのは?」

「六月二日。家の工房で」

丸眼鏡の奥の目が、転律珠からリエッタへ移った。

「家?」

「専用台を作って、手回しの回転と温度差だけを入れました。人体と導晶には繋いでいません。双方の流量針、銅板の温度、感知板を見て、音声の途中でも止める条件にして」

「遮断室は」

「ありません」

「独立した停止装置」

「手回し台から外せば止まります」

「試験に参加していない監督者は」

リエッタは答えられなかった。

「私も起動に同意した」

アルシアが言った。

サラはそちらへ顔だけ向けた。

「誰が多く悪いかを決めているんじゃないわ。未知の遺物を私設の工房で動かして、二人とも倒れたら、止める人がいなかったと言ってるの」

言葉は速いが、声は大きくない。

リエッタは開いた布の端を揃えた。エルドラから戻ったあの日、ガルドを立会人にした検査は思い出せた。その後の工房では、二人で条件を決めれば足りると思っていた。

「記録はあります」

「見せて」

アルシアが地図筒から携行用の写しを出した。サラは頁を受け取ると、最初の一枚を半分まで読み、椅子を引き寄せた。音声の発生時刻、温度の上がり方、停止理由を指で追う。途中から速さが落ちた。

「『動いた』で試験を終わらせなかったのはいい。けれど、動作したことは結果でしかない。安全だったと判断するには、動かなかった部分と、止め損ねた時の逃がし先まで要る」

「はい」

「次に動かすなら、書庫の遮断設備を使う。あなたたちが立ち会って、入力は外から切る。私にも調べさせて」

リエッタが顔を上げると、アルシアが防水筒を机へ置いていた。留め具を外し、研究頁を乾いた布の上へ広げる。

サラの視線が、その字で止まった。

「この字、どこで?」

「父の研究帳から抜いた頁だ。名はアルバス」

サラは眼鏡を外した。レンズを布で拭くでもなく、机の上へ置く。

「アルバス先生の娘?」

「教わったのか」

「ええ。先生は、答えより先に失敗した条件を書けって人だった。自分で守れない時もあったけど」

サラは研究頁と転律珠を見比べた。

「宮廷で何をしていたか、知っていますか」

リエッタが聞いた。

「全部は知らない。私が教わった頃には、先生はもう宮廷を離れていたから。ただ、王家が管理する星路を研究していた。どこへ魔力を集め、誰が開き、何を条件に閉じるか。それを、ずっと調べていた」

「どうして離れたの」

「それは聞いても答えなかった」

アルシアの右手が、杖の握りを包んだ。革のへこんだ位置へ指が重なる。

サラは棚から、薄い印譜と透かしを見るための白い板を持ってきた。珠の後ろへ板を立て、透明な外殻の奥にある二つ星と、印譜の一つの向きを揃える。星の角度も、片方にある短い欠けも一致した。

「古い王家の印よ」

リエッタは印譜と珠を交互に見た。

「下に出た保管印だけじゃなくて、この二つ星も?」

「ええ。保管印とは別の印よ。二つで一つ。少なくとも、一般の工房印を持つ遺物ではない。王家の管理記録に載るはずのものよ」

「その記録が、さっきの索引から抜けてる」

「だから厄介なの」

サラは印譜の巻末を開いた。細かな参照先の中から、一行を爪で押さえる。

「この双星の印が使われた記録を追うなら、古い出生台帳の写本がある。索引で欠けた項と、印の使われ方を照合するには確認した方がいい」

「見られますか」

「閉架資料。公開日は七日ごとで、次は明日。閲覧申請を今日出せば間に合う」

六月十三日。

リエッタは検索票の裏へ日付を書いた。誰の名があるかも、自分たちの探す年が含まれるかも、まだ分からない。それでも、家の研究帳にはなかった入口だった。

「残るか」

アルシアが聞いた。

オルフェンに、とは言わなかった。

リエッタは自分で書いた日付を見た。

「見る。抜けてない方を」

「分かった」

リエッタは転律珠を厚い布へ戻し、木枠の留め具を締めた。アルシアも研究頁を防水筒へ収めた。

閉室の鐘が鳴る前に、三人は公開索引室へ戻った。

サラは欠けた頁を光に透かし、背の上下を見た。リエッタは反対側から索引を支える。紙の切れ端は古く変色している。いつ抜けたかは、それだけでは読めない。

父が隠したものを探しに来たのだと思っていた。

けれど、父が黙っていたことと、ここから頁がなくなったことは、同じではない。家の中だけで閉じていた秘密なら、遠い書庫の索引にまで空白はできない。

「もう少し、背を開ける?」

リエッタが聞いた。

「傷めないところまで」

サラが答え、アルシアは杖を索引台へ立て掛け、灯りの位置を右手で下げた。

細くなった光が、抜かれた頁の根元へ入る。

背の奥深くで、その頁を綴じていたはずの糸だけが、ほかより新しい色をしていた。

第3章 了

TABLE OF CONTENTS

公開目次

  1. 01畳まれた毛布
  2. 02持ち帰られた依頼書
  3. 03旅支度の距離
  4. 04同じ道、違う願い
  5. 05一人部屋が二つ
  6. 06白い花の髪飾り
  7. 07エルドラ遺構
  8. 08熱のある手
  9. 09守護者の部屋
  10. 10罠の光
  11. 11命の距離
  12. 12帰る場所
  13. 13父の声を宿す球
  14. 14追跡者の印
  15. 15書庫都市オルフェン
  16. 16もう一人の紫
  17. 17名もない王女
  18. 18祝祭の夜
  19. 19姉という他人
  20. 20父が隠したもの
  21. 21王家の回収命令
  22. 22離れるための嘘
  23. 23選ぶ側
  24. 24白い王女の帰路
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