VOLUME II CHAPTER 04
第四章 もう一人の紫
錠は三つあった。
真鍮の鍵で開くものが一つ。書庫員の指輪印を受けるものが一つ。最後の石錠には鍵穴がなく、扉の上を渡る細い管から、水の流れる音だけがしている。
アルシアは錠より先に、その左右を見た。
閉架塔の受付には窓が二つ、階段が一つ。背後の橋へ戻る扉には、目の高さに黒い観察硝子が嵌められている。昨夜の公開索引室より、書庫員は三人多かった。灰色の上着を着た男が回廊の両端に立ち、閲覧者ではなく互いの位置を確かめている。
朝から資料を守る配置ではない。
「閲覧札を」
受付の書庫員に言われ、サラが折り畳んだ札を出した。
昨夜、閉室の鐘が鳴り終わる前に提出した申請票には、サラの保証印と書庫の受理印が重なっている。日付は六月十三日。閲覧者にリエッタ、同伴者にアルシア、比較資料に転律珠と記されていた。参照範囲は新暦三百年分。リエッタの年齢から逆算し、まずこの巻を確かめ、該当がなければ前後へ広げる、とサラが付記している。
リエッタは厚い布で包んだ木枠を、受付横の低い車台へ置いた。車輪止めを自分で踏み、留め具の封紙をサラへ向ける。
「昨夜から開けてないよ」
「封も合ってる。今日は私が運ぶわ」
サラが車台の取っ手を取った。
アルシアは右手にアルバスの杖を持っていた。昨夜、閉室時に索引台から回収したものだ。左肩は朝から鈍く痛むだけで、熱はない。リエッタも宿からここまで歩いたあと、自分から受付の椅子を使った。今は車台の横に立ち、呼吸も歩幅も乱れていない。
「杖は登録品か」
回廊の柱際から声がした。
褐色の肌に、短く結んだ黒髪。灰色の外套の下には、音を抑えた軽い鎧がある。腰の剣から紋章は外されていたが、鞘を壁へ当てない立ち方は、街の雇われ護衛のものではなかった。
「比較には使わない」
アルシアは答えた。
「なら、預けるべきだ」
「書庫員か」
「違う」
「では、預け先を決めるな」
男の視線が、杖からアルシアの左肩へ移り、右手へ戻った。負傷と利き腕を数えた目だった。
アルシアも、男から階段までの距離を測った。四歩。彼が剣に触れるより、こちらが冷気を床へ走らせる方が早い。だがその間に、リエッタと転律珠の車台が進路を塞ぐ。
男は柱から半歩離れた。アルシアが回廊とリエッタの間へ入らずにいることを見て、右手も剣の柄から同じだけ離した。
「こちらの閲覧者の護衛だ。呼ぶならノエルでいい」
「その閲覧者は」
「来る」
名前も身分も付けなかった。
サラが丸眼鏡を押し上げた。
「閉架公開日の手続きに、護衛同士の品定めまで加わったの?」
「増やすつもりはありません。剣は受付へ預けます」
ノエルは書庫員の前で剣帯を外した。柄を相手へ向けず、両手で台へ置く。
アルシアも杖を預けた。防水筒と地図筒は比較資料として札へ追記され、薄い革紐で口を封じられた。
三つ目の石錠が、水音とともに沈んだ。
閉架塔の回廊は、川の上へ突き出していた。
右の細窓から水車が見える。左は書庫塔の内壁で、一定の間隔ごとに封印扉が並んでいる。足音は石床を伝って先へ走り、突き当たりから同じ数だけ戻ってきた。
アルシアはリエッタの半歩後ろを歩いた。
前を行くサラが車台を押す。転律珠は布と木枠の中で沈黙している。後ろにはノエル。武器を預けても、足の運びは変わらない。
二つ目の曲がり角で、ノエルが壁際へ寄った。
向こうから、一人の女が来た。
飾りのない濃灰の外套を着ている。年はリエッタたちと変わらない。背筋がまっすぐで、歩幅は小さいのに、後ろの書庫員が急いでいるように見えた。
髪は、深い紫だった。
右手に杖があれば、石突きを床の継ぎ目から外していたかもしれない。空いた右手が、何もない位置でわずかに閉じた。
五年前まで、リエッタの髪はあの色をしていた。
朝の寝癖も、工房の火に透けた毛先も、魔物の爪が魔炉を壊した夜に土へ広がった色も、アルシアは覚えている。目の前の女の髪は、それと同じ深さの紫だった。
女が顔を上げた。
リエッタも足を緩める。
似ている、と考える前に、違うところが目に入った。女の眉はリエッタより整えられ、顎は少し高い。外套の下の服には一つも工具の膨らみがなく、指にも火傷の跡がない。
それでも、淡紫の瞳の形は同じだった。
鼻筋も、何かを確かめる時に唇を閉じる順も。
「お待たせしました。私は」
女の声が、そこで切れた。
息を入れ直しても、続きは出なかった。公的な挨拶の形だけが、まっすぐな姿勢に残っている。
ノエルが女の斜め前へ出た。
アルシアは動かなかった。
一歩出れば、リエッタの視界を自分の背で塞ぐ。危険がまだ形を持たないうちに、それをする理由はない。
「この人が、もう一組の申請者?」
リエッタがサラへ尋ねた。
「そうなるわね」
サラは車台の記録板と、女の後ろにいた書庫員の札を見比べた。
「古い出生台帳の写本。新暦三百年分。参照範囲まで同じよ」
「参照の理由も?」
リエッタが女へ聞いた。
女の視線が、布に覆われた転律珠へ落ちた。
「私は、この印が使われた年を知っています」
「誰の記録かも?」
「それを確かめるために来ました」
女の右手の小指が、掌の内側へ折れた。
リエッタが、答えを急いで笑いに変えそうな時にする癖だった。工具を持っている時は柄の陰に隠れる。何も持っていない時だけ、アルシアには見えた。
今、リエッタの右手でも、小指が同じ形に折れている。
「あなたも、その頁を?」
リエッタが聞いた。
「はい。古い家の記録を確かめに来ました」
「名前を聞いてもいい?」
女は一度、ノエルを見た。ノエルは首を振らず、頷きもしなかった。
「今日は、記録を求めた者として扱ってください」
リエッタは笑わなかった。
「じゃあ、同じ頁を求めた人として」
その時、車台の上で、ごく小さな音がした。
回転音ではない。
薄い硝子の縁を濡れた指でなぞったような、高い響きだった。
サラが車輪止めを踏み直す。
「誰も触らないで」
木枠の封紙は切れていない。布の隙間から、透明な外殻の奥だけが見えた。
二つの星が、淡紫に灯っていた。
外輪は動かない。一つ目の星はリエッタ側、角度の違うもう一つは紫髪の女側で、同じ強さの光を保っている。熱の匂いも、魔力を押し出す圧もなかった。
アルシアは右手首の流量針を見た。送り出し側の針は、朝の位置から動いていない。リエッタの左手首も同じだった。
サラが封紙の端へ顔を寄せた。
「入力はない。輪も止まってる」
「私も、何もしてないよ」
「私もです」
紫髪の女の声は、今度は途切れなかった。
ノエルが転律珠と女の間へ片足を置く。アルシアもリエッタへ寄りかけ、踵を床へ戻した。
ノエルの視線が、アルシアの戻した踵へ一度落ちた。
「先へ進みます」
閉架の書庫員が言った。
声が少し上擦っていた。
閲覧室の扉には、目の高さに黒い観察硝子が嵌められ、その下に開きかけの星が二つ刻まれていた。
中央の石板を挟み、片方は左、もう片方は右を向いている。書庫員が指輪印を当てると外側の錠だけが外れた。扉は動かない。
「前回の公開日までは、これで開きました」
サラが石板の縁を調べた。
「私も立ち会ってる。内側に別の閂なんてなかった」
書庫員がもう一度、指輪印を当てた。乾いた音が一つ返る。内側には、まだ別の閂が残っていた。
リエッタが車台の横から石板を覗き込む。
「星の下、溝がある」
「触るな」
アルシアとノエルの声が重なった。
リエッタは顔だけで振り返った。
「触ってないよ」
紫髪の女が、石板の反対側へ寄った。刻みを正面から見るためだった。二人は扉一枚分の間隔を空け、肩を並べた。
石の中で、低い音がした。
表面の粉が左右へ押し退けられた。
二つの掌の形が、石板から浮き上がった。
大きさはほとんど同じだった。一方の掌には左向きの星、もう一方には右向きの星があり、指先の上で二つの線が繋がっている。
リエッタも女も、手を置いていない。
背後の車台で、転律珠の二つ星が一度だけ明滅した。
内側の閂が落ちた。
重い扉が、川から吹き上げる風に押されるように、ゆっくり内側へ開いた。
ノエルの呼吸が浅くなった。紫髪の女は浮かんだ手形を見たまま、右の小指を掌から戻さなかった。
「この封印の記録は?」
アルシアがサラへ聞いた。
「開閉簿には、二つの星へ指輪印を合わせるとしかない。手形が出た記録は、私は見ていない」
サラは扉の敷居を越えず、まず室内の温度札を確認した。
「今日の事実は、二人が近づいた時に開いたこと。先へ行くなら、そこから先は台帳そのものと照合する」
室内には、机が一つだけあった。
その上に、生成りの保存布で包まれた薄い冊子が置かれている。布の角には、新暦三百年と書かれた札。紐はまだ結ばれ、頁は一枚も見えていない。
アルシアの胸の内側に、冷たいものが留まった。
深い紫の髪。淡紫の瞳。同じ指の癖。同じ出生台帳。入力のない転律珠と、二つの掌で開いた扉。
保存布の紐は、まだ一度も解かれていない。
それでも、リエッタが育たなかった部屋が、どこかにあった可能性だけは、目の前の女の姿を取っていた。
リエッタがそちらへ一歩近づく。
アルシアは、その歩幅を止めなかった。
回廊の奥から、揃った足音が響いた。
一人ではない。六人。靴底の硬さが同じで、曲がり角でも間隔が崩れない。
ノエルが振り返った。
「来たか」
独り言ではなかった。紫髪の女が、保存布から視線を外す。
灰色の上着を着た三人と、白い縁取りの外套を着た三人が、開いた扉の前で止まった。先頭の男は封筒を掲げた。封蝋には宮廷の環状印がある。
「対象者の帰還時刻を過ぎています。あわせて、当該写本を宮廷保全庫へ移管します」
サラが敷居の中央へ立った。
「人を迎えに来る命令と、大書庫の資料を運ぶ許可は別よ」
「保全上の措置です」
「その封筒に、大書庫評議員の印は?」
男は答えず、室内の車台を見た。
「古代遺物も確認する」
「申請に含まれない人は触れない」
サラの言葉は速かったが、一語も乱れなかった。
紫髪の女が、保存布から離れた。
「写本はここへ残します。遺物にも触れないでください」
先頭の男の姿勢が変わった。命令口調で返そうとして、言葉を飲み込んだ形だった。
誰も、女に命令の根拠を聞き返さなかった。六人の靴が、揃って敷居から半歩下がる。
「しかし」
「持ち出しません。今日の閲覧も、ここで終えます」
女はリエッタへ向き直った。
「明日、話したい」
「ここで見えたものではなく、私がこの頁を求めた理由を。南塔の屋上温室で、午前の鐘が二つ鳴る前に」
アルシアは、リエッタを見た。口を閉じたまま、その横顔が女へ向くのを待った。
リエッタは保存布に包まれた台帳を一度見てから、女へ顔を戻した。
「行く。アルシアと一緒に」
女の視線がアルシアへ移った。
「もちろんです」
「他には」
アルシアが聞いた。
「私とノエルだけにします」
「入口は一つか」
「階段と、温室用の荷上げ機があります」
答えたのはノエルだった。
「明日は私が先に両方を確認する」
アルシアは頷かなかった。ただ、時刻と場所を記憶した。
サラが車台を閲覧室の内側へ引き戻す。転律珠の二つ星はすでに消えていた。外輪も封紙も、入室前と変わっていない。
書庫員が保存布の札を確認し、扉を閉め始めた。
宮廷の一団は紫髪の女を囲まず、二歩後ろへ下がった。ノエルだけが隣に残る。女は回廊へ出る直前、リエッタを見返した。
厚い扉が閉じた。
黒い観察硝子に、こちら側のリエッタの顔が映る。
向こう側で、紫髪の女が振り返っていた。
閉じた扉の両側に、同じ形の淡紫の瞳が一つずつ残った。