笑わない魔女と、笑顔絶えぬ魔道具師
第二巻16 / 24

VOLUME II CHAPTER 04

第四章 もう一人の紫

錠は三つあった。

真鍮の鍵で開くものが一つ。書庫員の指輪印を受けるものが一つ。最後の石錠には鍵穴がなく、扉の上を渡る細い管から、水の流れる音だけがしている。

アルシアは錠より先に、その左右を見た。

閉架塔の受付には窓が二つ、階段が一つ。背後の橋へ戻る扉には、目の高さに黒い観察硝子が嵌められている。昨夜の公開索引室より、書庫員は三人多かった。灰色の上着を着た男が回廊の両端に立ち、閲覧者ではなく互いの位置を確かめている。

朝から資料を守る配置ではない。

「閲覧札を」

受付の書庫員に言われ、サラが折り畳んだ札を出した。

昨夜、閉室の鐘が鳴り終わる前に提出した申請票には、サラの保証印と書庫の受理印が重なっている。日付は六月十三日。閲覧者にリエッタ、同伴者にアルシア、比較資料に転律珠と記されていた。参照範囲は新暦三百年分。リエッタの年齢から逆算し、まずこの巻を確かめ、該当がなければ前後へ広げる、とサラが付記している。

リエッタは厚い布で包んだ木枠を、受付横の低い車台へ置いた。車輪止めを自分で踏み、留め具の封紙をサラへ向ける。

「昨夜から開けてないよ」

「封も合ってる。今日は私が運ぶわ」

サラが車台の取っ手を取った。

アルシアは右手にアルバスの杖を持っていた。昨夜、閉室時に索引台から回収したものだ。左肩は朝から鈍く痛むだけで、熱はない。リエッタも宿からここまで歩いたあと、自分から受付の椅子を使った。今は車台の横に立ち、呼吸も歩幅も乱れていない。

「杖は登録品か」

回廊の柱際から声がした。

褐色の肌に、短く結んだ黒髪。灰色の外套の下には、音を抑えた軽い鎧がある。腰の剣から紋章は外されていたが、鞘を壁へ当てない立ち方は、街の雇われ護衛のものではなかった。

「比較には使わない」

アルシアは答えた。

「なら、預けるべきだ」

「書庫員か」

「違う」

「では、預け先を決めるな」

男の視線が、杖からアルシアの左肩へ移り、右手へ戻った。負傷と利き腕を数えた目だった。

アルシアも、男から階段までの距離を測った。四歩。彼が剣に触れるより、こちらが冷気を床へ走らせる方が早い。だがその間に、リエッタと転律珠の車台が進路を塞ぐ。

男は柱から半歩離れた。アルシアが回廊とリエッタの間へ入らずにいることを見て、右手も剣の柄から同じだけ離した。

「こちらの閲覧者の護衛だ。呼ぶならノエルでいい」

「その閲覧者は」

「来る」

名前も身分も付けなかった。

サラが丸眼鏡を押し上げた。

「閉架公開日の手続きに、護衛同士の品定めまで加わったの?」

「増やすつもりはありません。剣は受付へ預けます」

ノエルは書庫員の前で剣帯を外した。柄を相手へ向けず、両手で台へ置く。

アルシアも杖を預けた。防水筒と地図筒は比較資料として札へ追記され、薄い革紐で口を封じられた。

三つ目の石錠が、水音とともに沈んだ。

閉架塔の回廊は、川の上へ突き出していた。

右の細窓から水車が見える。左は書庫塔の内壁で、一定の間隔ごとに封印扉が並んでいる。足音は石床を伝って先へ走り、突き当たりから同じ数だけ戻ってきた。

アルシアはリエッタの半歩後ろを歩いた。

前を行くサラが車台を押す。転律珠は布と木枠の中で沈黙している。後ろにはノエル。武器を預けても、足の運びは変わらない。

二つ目の曲がり角で、ノエルが壁際へ寄った。

向こうから、一人の女が来た。

飾りのない濃灰の外套を着ている。年はリエッタたちと変わらない。背筋がまっすぐで、歩幅は小さいのに、後ろの書庫員が急いでいるように見えた。

髪は、深い紫だった。

右手に杖があれば、石突きを床の継ぎ目から外していたかもしれない。空いた右手が、何もない位置でわずかに閉じた。

五年前まで、リエッタの髪はあの色をしていた。

朝の寝癖も、工房の火に透けた毛先も、魔物の爪が魔炉を壊した夜に土へ広がった色も、アルシアは覚えている。目の前の女の髪は、それと同じ深さの紫だった。

女が顔を上げた。

リエッタも足を緩める。

似ている、と考える前に、違うところが目に入った。女の眉はリエッタより整えられ、顎は少し高い。外套の下の服には一つも工具の膨らみがなく、指にも火傷の跡がない。

それでも、淡紫の瞳の形は同じだった。

鼻筋も、何かを確かめる時に唇を閉じる順も。

「お待たせしました。私は」

女の声が、そこで切れた。

息を入れ直しても、続きは出なかった。公的な挨拶の形だけが、まっすぐな姿勢に残っている。

ノエルが女の斜め前へ出た。

アルシアは動かなかった。

一歩出れば、リエッタの視界を自分の背で塞ぐ。危険がまだ形を持たないうちに、それをする理由はない。

「この人が、もう一組の申請者?」

リエッタがサラへ尋ねた。

「そうなるわね」

サラは車台の記録板と、女の後ろにいた書庫員の札を見比べた。

「古い出生台帳の写本。新暦三百年分。参照範囲まで同じよ」

「参照の理由も?」

リエッタが女へ聞いた。

女の視線が、布に覆われた転律珠へ落ちた。

「私は、この印が使われた年を知っています」

「誰の記録かも?」

「それを確かめるために来ました」

女の右手の小指が、掌の内側へ折れた。

リエッタが、答えを急いで笑いに変えそうな時にする癖だった。工具を持っている時は柄の陰に隠れる。何も持っていない時だけ、アルシアには見えた。

今、リエッタの右手でも、小指が同じ形に折れている。

「あなたも、その頁を?」

リエッタが聞いた。

「はい。古い家の記録を確かめに来ました」

「名前を聞いてもいい?」

女は一度、ノエルを見た。ノエルは首を振らず、頷きもしなかった。

「今日は、記録を求めた者として扱ってください」

リエッタは笑わなかった。

「じゃあ、同じ頁を求めた人として」

その時、車台の上で、ごく小さな音がした。

回転音ではない。

薄い硝子の縁を濡れた指でなぞったような、高い響きだった。

サラが車輪止めを踏み直す。

「誰も触らないで」

木枠の封紙は切れていない。布の隙間から、透明な外殻の奥だけが見えた。

二つの星が、淡紫に灯っていた。

外輪は動かない。一つ目の星はリエッタ側、角度の違うもう一つは紫髪の女側で、同じ強さの光を保っている。熱の匂いも、魔力を押し出す圧もなかった。

アルシアは右手首の流量針を見た。送り出し側の針は、朝の位置から動いていない。リエッタの左手首も同じだった。

サラが封紙の端へ顔を寄せた。

「入力はない。輪も止まってる」

「私も、何もしてないよ」

「私もです」

紫髪の女の声は、今度は途切れなかった。

ノエルが転律珠と女の間へ片足を置く。アルシアもリエッタへ寄りかけ、踵を床へ戻した。

ノエルの視線が、アルシアの戻した踵へ一度落ちた。

「先へ進みます」

閉架の書庫員が言った。

声が少し上擦っていた。

閲覧室の扉には、目の高さに黒い観察硝子が嵌められ、その下に開きかけの星が二つ刻まれていた。

中央の石板を挟み、片方は左、もう片方は右を向いている。書庫員が指輪印を当てると外側の錠だけが外れた。扉は動かない。

「前回の公開日までは、これで開きました」

サラが石板の縁を調べた。

「私も立ち会ってる。内側に別の閂なんてなかった」

書庫員がもう一度、指輪印を当てた。乾いた音が一つ返る。内側には、まだ別の閂が残っていた。

リエッタが車台の横から石板を覗き込む。

「星の下、溝がある」

「触るな」

アルシアとノエルの声が重なった。

リエッタは顔だけで振り返った。

「触ってないよ」

紫髪の女が、石板の反対側へ寄った。刻みを正面から見るためだった。二人は扉一枚分の間隔を空け、肩を並べた。

石の中で、低い音がした。

表面の粉が左右へ押し退けられた。

二つの掌の形が、石板から浮き上がった。

大きさはほとんど同じだった。一方の掌には左向きの星、もう一方には右向きの星があり、指先の上で二つの線が繋がっている。

リエッタも女も、手を置いていない。

背後の車台で、転律珠の二つ星が一度だけ明滅した。

内側の閂が落ちた。

重い扉が、川から吹き上げる風に押されるように、ゆっくり内側へ開いた。

ノエルの呼吸が浅くなった。紫髪の女は浮かんだ手形を見たまま、右の小指を掌から戻さなかった。

「この封印の記録は?」

アルシアがサラへ聞いた。

「開閉簿には、二つの星へ指輪印を合わせるとしかない。手形が出た記録は、私は見ていない」

サラは扉の敷居を越えず、まず室内の温度札を確認した。

「今日の事実は、二人が近づいた時に開いたこと。先へ行くなら、そこから先は台帳そのものと照合する」

室内には、机が一つだけあった。

その上に、生成りの保存布で包まれた薄い冊子が置かれている。布の角には、新暦三百年と書かれた札。紐はまだ結ばれ、頁は一枚も見えていない。

アルシアの胸の内側に、冷たいものが留まった。

深い紫の髪。淡紫の瞳。同じ指の癖。同じ出生台帳。入力のない転律珠と、二つの掌で開いた扉。

保存布の紐は、まだ一度も解かれていない。

それでも、リエッタが育たなかった部屋が、どこかにあった可能性だけは、目の前の女の姿を取っていた。

リエッタがそちらへ一歩近づく。

アルシアは、その歩幅を止めなかった。

回廊の奥から、揃った足音が響いた。

一人ではない。六人。靴底の硬さが同じで、曲がり角でも間隔が崩れない。

ノエルが振り返った。

「来たか」

独り言ではなかった。紫髪の女が、保存布から視線を外す。

灰色の上着を着た三人と、白い縁取りの外套を着た三人が、開いた扉の前で止まった。先頭の男は封筒を掲げた。封蝋には宮廷の環状印がある。

「対象者の帰還時刻を過ぎています。あわせて、当該写本を宮廷保全庫へ移管します」

サラが敷居の中央へ立った。

「人を迎えに来る命令と、大書庫の資料を運ぶ許可は別よ」

「保全上の措置です」

「その封筒に、大書庫評議員の印は?」

男は答えず、室内の車台を見た。

「古代遺物も確認する」

「申請に含まれない人は触れない」

サラの言葉は速かったが、一語も乱れなかった。

紫髪の女が、保存布から離れた。

「写本はここへ残します。遺物にも触れないでください」

先頭の男の姿勢が変わった。命令口調で返そうとして、言葉を飲み込んだ形だった。

誰も、女に命令の根拠を聞き返さなかった。六人の靴が、揃って敷居から半歩下がる。

「しかし」

「持ち出しません。今日の閲覧も、ここで終えます」

女はリエッタへ向き直った。

「明日、話したい」

「ここで見えたものではなく、私がこの頁を求めた理由を。南塔の屋上温室で、午前の鐘が二つ鳴る前に」

アルシアは、リエッタを見た。口を閉じたまま、その横顔が女へ向くのを待った。

リエッタは保存布に包まれた台帳を一度見てから、女へ顔を戻した。

「行く。アルシアと一緒に」

女の視線がアルシアへ移った。

「もちろんです」

「他には」

アルシアが聞いた。

「私とノエルだけにします」

「入口は一つか」

「階段と、温室用の荷上げ機があります」

答えたのはノエルだった。

「明日は私が先に両方を確認する」

アルシアは頷かなかった。ただ、時刻と場所を記憶した。

サラが車台を閲覧室の内側へ引き戻す。転律珠の二つ星はすでに消えていた。外輪も封紙も、入室前と変わっていない。

書庫員が保存布の札を確認し、扉を閉め始めた。

宮廷の一団は紫髪の女を囲まず、二歩後ろへ下がった。ノエルだけが隣に残る。女は回廊へ出る直前、リエッタを見返した。

厚い扉が閉じた。

黒い観察硝子に、こちら側のリエッタの顔が映る。

向こう側で、紫髪の女が振り返っていた。

閉じた扉の両側に、同じ形の淡紫の瞳が一つずつ残った。

第4章 了

TABLE OF CONTENTS

公開目次

  1. 01畳まれた毛布
  2. 02持ち帰られた依頼書
  3. 03旅支度の距離
  4. 04同じ道、違う願い
  5. 05一人部屋が二つ
  6. 06白い花の髪飾り
  7. 07エルドラ遺構
  8. 08熱のある手
  9. 09守護者の部屋
  10. 10罠の光
  11. 11命の距離
  12. 12帰る場所
  13. 13父の声を宿す球
  14. 14追跡者の印
  15. 15書庫都市オルフェン
  16. 16もう一人の紫
  17. 17名もない王女
  18. 18祝祭の夜
  19. 19姉という他人
  20. 20父が隠したもの
  21. 21王家の回収命令
  22. 22離れるための嘘
  23. 23選ぶ側
  24. 24白い王女の帰路
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