笑わない魔女と、笑顔絶えぬ魔道具師
第二巻17 / 24

VOLUME II CHAPTER 05

第五章 名もない王女

屋上温室の散水弁は、七拍ごとに一滴ずつ水を落としていた。

六拍までは管の先で膨らみ、七拍目に葉の縁へ落ちる。そこから細い葉脈を伝い、鉢の土へ吸われていく。

リエッタは三度数えて、どれも同じだと確かめた。

午前の二つ目の鐘は、まだ鳴っていない。

硝子屋根の向こうには薄い雲がかかっていた。温室の中は外より暖かく、濡れた土と柑橘の葉の匂いがする。南塔の階段を上り切った場所にノエルが立ち、反対側の壁には荷上げ機の鉄籠が止まっていた。

「階段、荷上げ機ともに異常はありません」

ノエルはアルシアへ言った。今日は剣を帯びている。アルシアも、昨日受付から返却された杖を右手に持っていた。二人は互いの武器ではなく、確認を終えた出入口へ一度ずつ目を向けた。

サラは温室の中央から離れた作業卓に、薄い記録板を置いている。

その向かいに、紫髪の女がいた。

濃灰の外套は昨日と同じだったが、今日は留め具を喉元まで閉じていない。その下に淡い色の服が見える。刺繍も宝石もない。けれど、誰かに見られるためではなく、着崩れないために整えられた襟だった。

リエッタは自分の両手を見た。

工具は持っていない。指先に残る火傷と硬い皮膚だけが、いつもの手だった。左手首の流量針は朝の位置で止まっている。上着の内側には家の鍵がある。

隣でアルシアの杖の石突きが床を離れた。催促ではない。左肩を高く上げず、リエッタが歩き出せるだけの場所を空けた動きだった。

リエッタは散水弁から目を上げた。

「おはよう。同じ頁を求めた人」

紫髪の女の眉が、ほんの少し動いた。

「おはようございます」

昨日、途中で失われた声が、今日は最後まで形を保った。

「ユリアナと申します。レヴェリア王国の王太女です」

温室のどこかで、水滴が土へ落ちた。

リエッタは七まで数え損ねた。

王太女。市場の触媒価格とは違って、聞き間違えてももう一度たずねにくい言葉だった。宮廷の六人がユリアナへ言い返せなかった理由も、ノエルが紋章を外していた理由も、一つの歯車に噛み合う。

噛み合っただけで、動く向きまでは分からない。

「昨日は、言わなかったんだね」

「言えば、あなたは私の話ではなく、称号に返事をしなければならなくなると思いました」

「今日は?」

「隠したまま話せる内容ではありません」

ユリアナは卓上の細長い文書箱へ手を置いた。蓋には宮廷の環状印が押され、左右を紐で留めてある。昨日の部隊が掲げた封筒と同じ印だが、蝋の色が違った。

「私には、双子の妹がいました」

過去形が先に置かれた。

リエッタは、文書箱を見たまま聞いた。

「いました、というのは?」

「出生直後に亡くなったと記録されています。名を登録される前に」

ユリアナが紐を解いた。中から出した紙は一枚だけだった。原本ではない。薄い保護紙の上へ、古い記録の文字と印を写し取ってある。

上部に新暦三百年。王妃エレノア、双生の女児を出産。第一女の欄にはユリアナの名があり、その下の第二女は空欄だった。空欄の右へ、同日死亡の文字が並んでいる。

リエッタは紙へ手を伸ばさなかった。

「これは写しだね」

「はい。原本は昨日の出生台帳です」

「だったら、これだけでは決められない」

ユリアナの指が、紙の端から離れた。

「顔も、髪も、瞳も、転律珠も、扉の手形も」

「似ているものは、似ているっていう証拠にしかならないよ。あの珠が何へ反応したのか、私たちは知らない。手形も同じ」

言葉を重ねるほど、いつもの調子へ戻れそうだった。

戻る前に、リエッタは息を止めた。

笑って話を丸くするのは、今する作業ではない。

「日付を見たい」

声が短くなった。

「写しじゃなく、台帳の記入日。それから、王妃エレノア本人の筆跡と比べたい。名前だけなら書記が書けるから。もう一つ」

リエッタは空欄の下にある小さな印影を指した。

「これがアルバスの受領印だというなら、印譜の原寸と照合する。欠けも、押した向きも」

ユリアナはすぐには答えなかった。

拒まれた時のために用意していた言葉を、どこかへ戻すような間だった。

「分かりました」

「私がその子だって、まだ言わないで」

「私は、そのためにここへ来ました」

「ユリアナがそう思ってることと、記録がそう言ってることは分けたいんだ」

初めて呼んだ名は、思ったより口に残らなかった。

ユリアナは瞼を伏せ、もう一度「分かりました」と答えた。

サラが記録板を持ち上げた。

「照合資料は用意してあるわ。昨日の異常開扉を記録している間に、関連する印譜と宮廷の人員簿も請求した。ただし、閉架室へ持ち込めるのは登録したものだけ。温室から直接、紙を抱えて入るのは禁止よ」

「この写しも?」

ユリアナが聞いた。

「もちろん。王太女でも、紙の黴は避けてくれない」

ノエルの口元が動きかけたが、声にはならなかった。

サラは構わず階段へ向かった。

「受付からやり直す。今度は誰も途中で資料を運ぶと言い出さないで」

閉架塔の受付で、手続きは一つも省かれなかった。

アルシアは杖と防水筒、地図筒を昨日と同じ台へ置いた。ノエルも剣帯を外し、柄を受付の書庫員へ向けないよう両手で預けた。ユリアナの文書箱は蓋を開けたまま記録され、写し一枚に新しい持込札が付けられた。

リエッタは、低い車台の封紙を確認した。

転律珠は昨日の木枠と厚い布に包まれたまま、保全用の車輪止めに固定されている。封紙にはリエッタとサラ、閉架書庫員の印が並び、どれも切れていない。今日は比較に使わないため、車台ごと隣の保全室へ移された。

出生台帳は閲覧室の机に残っていた。

昨日、二つの手形を浮かべた石板には、白い保全布が掛けられている。通常の指輪印で外側の錠を開けたあと、書庫員が扉を内側へ開いた。新しい手形は出なかった。

「昨日の開扉後、内閂を閉じない保全手順へ切り替えたの」

サラが言った。

「二人を鍵の代わりにはしないわ。理由が分からない間は特にね」

室内へ入ったのは、リエッタ、アルシア、ユリアナ、ノエル、サラだった。書庫員は扉の外で入退室簿を持つ。

机の周りに椅子が四つ置かれていた。

サラだけが立ち、保存布の紐へ薄い木片を差し込む。結び目を傷めず緩め、布の四隅を順に開いた。

台帳の表紙は、思っていたより薄かった。

濃茶の革は乾き、角だけが丸く擦れている。背には後年の補修糸が通されていたが、昨日見た公開索引のような新しい色ではない。何度も開かれ、同じ場所で伏せられてきた本の傷み方だった。

サラは頁の縁へ指を触れず、薄いへらで新暦三百年の札まで送った。

紙が一枚ずつ持ち上がるたび、乾いた音がした。

目的の頁には、温室で見た写しと同じ配置で文字が並んでいた。

王妃エレノア、双生の女児を出産。

第一女、ユリアナ。

第二女の名欄は空いている。

紙を漉いた時の繊維が、その空白だけよく見えた。削った跡も、別の紙を貼った跡もない。初めから何も書かれなかった欄だった。

その右へ、同日死亡。

リエッタは頁の上端と、ユリアナの写しを見比べた。

「日付は同じ」

「出生の時刻欄も一致してるわ」

サラが二つの記録板へ時刻を書き移した。声にして読み上げることはしなかった。

リエッタは死亡の文字を見た。

自分はここにいる。

だから、その四文字は自分ではない。そう切り離すことは簡単だった。けれど、空欄の横に押された小さな印は、アルバスが研究頁の端へ残した印に似ていた。

「似ている」で止める。

「印譜を」

サラが別の薄冊子を開いた。

宮廷魔法士の印を年代順に写したものだった。アルバスの名の下に、円の中へ三本の短い線が入った印がある。左下の線は先端がわずかに欠けていた。

台帳の印にも、同じ形の欠けがある。ただし印影全体の向きが逆で、印譜では左下、台帳では右上にあった。

「別の印?」

ユリアナが身を寄せた。

リエッタは首を振った。

「押した向きが逆なんだよ」

薄い比較板を台帳に重ねず、空中で半回転させる。三本の線と欠けが揃った。台帳の印影は円の手前側だけが濃く、向こう側の輪郭が細く外へ流れている。

「この紙を置いた人から見て、向こう側に立って押してる。たぶん、抱えていたものを机に置かずに」

「そこまで分かるの」

「真っすぐ押すなら、印の柄を手の内側へ倒す癖がある。これは向こう側へ逃げてる。片手が塞がっていたか、急いでいたか。どっちかまでは分からないけど」

サラが印譜の次に、細い受渡簿を出した。

同じ日付の欄に、王妃私物一式、宮廷魔法士アルバス受領、とある。品目の内訳は別紙とされ、その別紙は綴じられていなかった。受領欄の印は、今度は正しい向きだった。

「品目がないね」

「欠けたのか、最初から別に保管したのかは未確認」

「分かるのは、アルバス先生が同じ日に王妃から何かを受け取ったことだけ」

「その日、辞職しています」

ユリアナが言った。

ノエルが扉際から人員簿を机へ運んだ。武器を預けた手は、冊子の角だけを支えている。

サラが該当頁を開くと、アルバスの名の横に辞職の二字があった。日付は出生台帳と同じ。理由欄には「本人の申し出」とだけ記されている。

「王妃が出産した日に、出生記録に印を残して、私物を受け取って、職を辞めた」

リエッタは順に並べた。

「それから西へ行って、アルシアと暮らした」

アルシアの呼吸が一度深くなった。

リエッタはそちらを見なかった。見れば、自分の知らない父の十八年前と、二人で知っている五年前が、一度に相手の顔へ乗ってしまいそうだった。

「筆跡は?」

サラが、最後の保護箱を開けた。

中には王妃エレノアが大書庫へ送った閲覧許可状が三通あった。どれも公的な文面は書記の整った字で、末尾にだけ王妃本人の短い追記がある。

出生台帳の頁にも、同じ色の薄い墨で一行が加えられていた。

第二女の名欄は空欄のままにすること。

リエッタは許可状と台帳の字を交互に見た。

王妃の「名」は、縦の線を最後にわずかに戻す。「空」は上の点が右へ寄り、下の二本が揃わない。文字の形だけなら真似られる。けれど、筆を置く強さまで、三通の許可状と台帳で一致していた。

「同じ手だと思う」

口に出すと、温室で見た写しより重くなった。

「サラは?」

「筆跡鑑定として記録するなら、紙と墨の年代検査も要る。でも、現時点の比較所見は一致。追記だけを後から加えた痕も見えない」

日付。王妃の筆跡。アルバスの受領印。

三つは同じ頁の周りで噛み合った。

それでも、最後の軸がない。

「この記録で分かるのは、名のない第二女が同じ日に死んだと記録され、その日にお父さんが王妃から何かを受け取って辞めたこと」

リエッタは空欄へ指を近づけ、触れる前に止めた。

「その子が生きていたとしても、私だと繋ぐ記録はまだないよ」

「私には、あります」

「母から、妹は生きている可能性があると聞きました。長く確かめられなかった。昨日、あなたを見て、私は」

「それは、ユリアナの証言だね」

「私を信用できない?」

リエッタは、すぐに頷くことも首を振ることもしなかった。

「まだ、知らないから」

ユリアナの右手が、外套の脇で閉じた。昨日と同じように、小指が掌へ入ったかは机に隠れて見えない。

「でも、嘘だって決めるつもりもない。だから、記録を見てる」

閉じた手が、少しずつほどけた。

「あなたは、王家の第二王女です」

「そう呼ばないで」

リエッタの声は、自分でも驚くほど早く出た。

「名前がないから、王女って呼ぶの?」

頁の空欄は白いままだった。そこへ何を入れても、紙は拒まない。王女でも、妹でも、死者でも、あとから書ける。

けれど、リエッタという名はこの紙から出てきたものではなかった。

アルバスが呼び、アルシアが呼び、リュネの人たちが呼んできた。工房の注文札にも、修理を返した箱にも、自分の手で何度も書いた。

「今はリエッタ」

ユリアナの唇がわずかに開いた。

言い返す言葉はあったのだと思う。王家の記録、法、守る責任。昨日から聞いた言葉を、ユリアナならきちんと順に並べて返せたはずだ。

それでも、彼女は息を一度入れ直した。

「分かりました、リエッタ」

初めてその声で呼ばれた名は、空欄へは落ちなかった。

「妹と呼ぶのも、待ってください」

「分かりました」

今度の返事には、言い直す前の硬さが残った。

サラが記録板へ線を引いた。

「今日はここまでにしましょう。頁を開いていられる時間を越える。比較所見の写しは、全員の確認印を取ってから作るわ」

ノエルが扉を開けるため、外の書庫員へ合図した。

アルシアが机から一歩下がった。

「私は外で待つ」

リエッタは顔を上げた。

アルシアの右手は空いている。杖は受付にあり、袖口の留め具に触れようとした指だけが、途中で止まっていた。

「なぜ?」

「王家の記録と、家族の話だ」

短い答えだった。

自分はそこに含まれないと、アルシアは言わなかった。

言わなくても、扉へ向けた足が同じことをしていた。

リエッタは椅子から立った。脚の奥に重さが来るより先に、机の角を回る。

アルシアの濃紺の袖を掴んだ。

布の下で腕が止まった。

「いて」

アルシアが振り返る。

「私が、アルシアと一緒に来るって言ったんだよ」

「だが」

「今の話から、私の今を外さないで」

指に力が入った。袖の布が細く折れる。

アルシアは、リエッタの手を外さなかった。

「分かった」

ユリアナは二人の手元を見ていた。

何かを尋ねるように唇を開き、結局、言葉にはしなかった。

サラが頁の上へ薄い保護紙を戻す。

リエッタの指はアルシアの袖を掴んだまま、出生台帳の頁だけが閉じられた。

第5章 了

TABLE OF CONTENTS

公開目次

  1. 01畳まれた毛布
  2. 02持ち帰られた依頼書
  3. 03旅支度の距離
  4. 04同じ道、違う願い
  5. 05一人部屋が二つ
  6. 06白い花の髪飾り
  7. 07エルドラ遺構
  8. 08熱のある手
  9. 09守護者の部屋
  10. 10罠の光
  11. 11命の距離
  12. 12帰る場所
  13. 13父の声を宿す球
  14. 14追跡者の印
  15. 15書庫都市オルフェン
  16. 16もう一人の紫
  17. 17名もない王女
  18. 18祝祭の夜
  19. 19姉という他人
  20. 20父が隠したもの
  21. 21王家の回収命令
  22. 22離れるための嘘
  23. 23選ぶ側
  24. 24白い王女の帰路
作品トップへ