笑わない魔女と、笑顔絶えぬ魔道具師
第二巻13 / 24

VOLUME II CHAPTER 01

第一章 父の声を宿す球

六月一日の朝、リエッタは作業台の端に置いた二枚の紙を、もう一度重ね直した。

一枚は、エルドラ遺構調査の正式報告を受領した証明。もう一枚は、転律珠を工房で調べるための条件をガルドが記した紙だった。

人体へ繋がない。導晶へ蓄えない。二人以上で行う。どちらかが止めると言ったら、理由を確かめる前に止める。

最後の一行は、支部の規則ではなく、リエッタたちが書き足したものだった。

窓から入る光が、紙の上の帰還印を横切っている。あの夜、暗い壁に浮かんだ二つ星はない。転律珠は、封をし直した木箱の中で作業台の中央に置かれていた。

その手前に、まだ球を載せられない台がある。

真鍮の三本脚だけなら、五月二十四日に使った架台と似ていた。けれど、あれは珠を転がさず、一度だけ弱い動きを渡すためのものだ。同じ速さで回し続けることも、回転をすぐ止めることもできない。

新しい台では、脚の先に布を巻いた小輪を一つずつ付けた。そのうち一つを歯車と手回し柄へ繋ぎ、手を離せば革の止め具が歯へ落ちる。珠の左右には薄い銅の弧板を置き、片方へ湯、もう片方へ井戸水を通せるよう、細い管を曲げてある。

回転と熱差を、別々にも、一緒にも与えるための台だった。

リエッタは小さな歯を鑢で削り、真鍮粉を刷毛で払った。柄を回す。三つの小輪が同じ場所で回り、指を離すと、革の止め具が乾いた音を立てた。

全部止まる。

もう一度回し、今度は途中で手を離す。やはり、三つとも止まった。

「そこまでにしろ」

背後から声がした。

「あと、噛み合わせだけ」

「座ってやれ」

振り向くと、アルシアが木盆を右手で持っていた。湯の入った器と水差しの横に、茶の杯が載っている。左腕の固定布は外れているが、肩より高く上げないよう言われている。盆を作業台へ置くときも、左手は添えるだけだった。

リエッタは自分の脚を見た。朝から立ったまま、歯を三つ削っている。膝に力は入るが、脛の奥に鈍い重さがあった。

「うん。お茶も飲む」

アルシアは少し間を置いてから、茶の杯をリエッタの前へ寄せた。

リエッタは丸椅子を引き寄せた。座ると、作業台の高さが変わる。歯車の裏に残った小さな引っ掛かりが見え、細い鑢を二度だけ通した。

アルシアはその間に、二本の管を確かめている。

「湯はどこまで熱くする」

「指を当てたままでいられるくらい。遺構の熱路を再現するんじゃなくて、差が入力になるかを見るだけだから」

「冷たい方は」

「井戸水のまま。どっちも途中で止められるように、管は挟んで閉じる」

「回転は」

「一番遅い歯。手を離したら止まる」

アルシアは頷き、右手首が見えるよう袖を折った。

リエッタも左手首の流量針を作業台へ向ける。針は普段の印にあった。長く立つと脚は重くなっても、命紬の流れは帰還時より安定している。

「感知板が二つ目を越えたら止める。どちらかの流量針が普段の印から外れても止める。銅板が熱くなりすぎても止める」

「声が途中でも止める」

アルシアが付け足した。

リエッタは、木箱へ伸ばしかけた手を止めた。

聞きたいから続ける、とは言えなかった。聞きたいときほど、止める条件が要る。

「うん。声より先に止める」

木箱の封を解き、補修布を開いた。

転律珠の内側では、二つの星が細く光っていた。外から力を加えていないのに、遺構から持ち帰った回転はまだ完全には消えていない。

リエッタは珠を両手で持ち上げ、三つの小輪へ載せた。弧板は触れない位置まで開けてある。まずは熱差を加えず、手回しだけを試す。

「回すよ」

「ああ」

柄をゆっくり一周させた。

珠の外側が小輪に押され、内側の星の片方が追いかけるように明るくなる。感知板は一つ目の刻みを灯した。二つ目には届かない。

リエッタが手を離すと、止め具が歯へ落ちた。珠の外側は一周もしないうちに止まり、光も弱まった。

「回転だけだと、前と同じ」

記録板へ短い線を引く。

次に、弧板を珠の左右へ近づけた。薄い布を一枚挟み、片方の管へ湯を、もう片方へ井戸水を通す。銅の色は変わらない。けれど指を寄せれば、左右で空気の温度が違った。

柄には触れず、二人で待つ。

内側の二つ星のうち、さっき光らなかった方が、ごく薄く明滅した。感知板の一つ目の刻みには届かない。

「熱差だけでも反応する」

「小さい」

「うん。じゃあ、頁を合わせてから両方」

リエッタは作業棚の鍵付き箱から、アルバスの研究頁を出した。五月二十四日に使った固定枠へ挟み、手回し台の向こうに立てる。珠の内側を巡る星と、紙に切り抜かれた星の短い欠けが重なるよう、枠の角度を一目盛りずつ動かした。

前と同じ位置で、紙の中の細線が薄く光った。

アルシアの視線が、リエッタの手首から顔へ上がった。

「続けられるか」

「続けたい。脚も針も変わってない」

「分かった」

リエッタは柄を握った。

一番遅い歯が、隣の歯を押す。三つの小輪が回り、珠の外周へ同じ速さを渡した。左右の弧板には、湯と井戸水が留まっている。

一つ目の星が強くなり、遅れて二つ目が光った。

感知板の一つ目。続いて、二つ目の刻みが灯る。

紙を擦るような雑音が、固定枠のあたりからした。

リエッタは柄から手を離さないまま、回転を止まる寸前まで落とした。

『双星については――』

アルバスの声だった。

前に聞いた部分とは違う。音が遠く、言葉の間へ細い雑音が入り込んでいる。

『オルフェンの写本を――』

そこで声が潰れた。

感知板の二つ目が明るくなる。

「まだ越えてない」

リエッタが言うと、アルシアは流量針を見たまま答えた。

「銅板の温度が上がっている」

湯を通した側の弧板から、布の匂いがわずかに立った。

リエッタは管を挟んだ。湯が止まり、熱差が小さくなる。感知板の光も落ちたが、声はもう一度、短く浮かんだ。

『かえしわを作れないまま、二人を――』

「止めろ」

リエッタは柄から手を離した。

革の止め具が歯へ落ちる。三つの小輪と珠の外周が止まり、アルバスの声も切れた。

工房に、水が管を戻る音だけが残った。

リエッタは感知板を見た。光は二つ目から一つ目へ下がり、やがて消えた。二人の流量針は動いていない。

新しい台は、止めたい場所で止まった。

それなのに、指が柄から離れた感じがしなかった。

「かえしわ」

聞こえた音だけを、リエッタは記録板へ平仮名で書いた。どんな字を当てるのかも、それが何の部品なのかも、声は教えなかった。

向かいで、アルシアの右手が作業台の縁を掴んでいる。

「父さんは、知っていた」

硬い声だった。

「作れないものがあると知っていた」

リエッタは記録板へ落としていた視線を上げられなかった。

珠の中に父の声はもうない。

夕食の卓には、昼の試験記録を持ち込まなかった。

転律珠は封を戻して工房へ置き、手回し台の管から湯と水を抜いた。新しい断片は二人で一度ずつ書き写し、原本を作業棚の鍵付き箱へ入れてある。

食卓にあるのは、野菜を煮た皿とパン、青縁の杯。それから、誰も座らない三つ目の椅子だった。

リエッタは匙で人参を割った。柔らかく煮えている。口へ運べば味もする。それでも、工房で聞いた声が耳の奥に残っていた。

かえしわを作れないまま、二人を。

その先へ、都合のいい言葉を足すことはいくらでもできた。

救った。守った。生かした。

どれも父がしたことだった。

同時に、作れない何かがあると知りながら、二人へ話さなかったことも消えない。

「お父さんには、理由があったと思う」

リエッタが言うと、アルシアはすぐに頷いた。

「あるだろう」

否定されなかったことに、少しだけ困った。

「あのとき、私を助けるためだった。時間もなかったんだよね」

「そうかもしれない」

「じゃあ」

続く言葉が出なかった。

理由があったなら、傷ついてはいけないのか。助けられたなら、隠されたことへ怒ってはいけないのか。

リエッタは無意識に口元を上げかけた。大丈夫だと形だけ先に渡す癖だった。

匙を皿へ置いた。

笑う代わりに、両手を卓の上へ出す。

「私、お父さんを悪い人にしたくない」

「ああ」

「でも、今のは嫌だった」

アルシアの指が、袖口の留め具から離れた。

「私もだ」

リエッタは謝らなかった。

リエッタは、青縁の杯の欠けを親指でなぞった。

「オルフェンへ行こう」

「行くと決めた」

「うん。でも、お父さんに言われたからじゃなくて」

リエッタは三つ目の椅子ではなく、アルシアを見た。

「写本を自分で読みたい。双星が何で、かえしわが何で、何を作れなかったのか。声の続きに任せたくない」

「私も見る」

「一緒に?」

「そう言った」

銀灰の目は逸れなかった。

リエッタの口元が、今度は勝手に少しほどけた。浮かんだものを、そのままにしておいた。

食後、二人は工房へ戻らなかった。

手回し台の再試験は明日の朝にする。寝る前に決めたのはそれだけだった。

六月二日の朝、リエッタは窓を開けてから工房へ入った。

夜露の匂いがする。庭土は黒く湿り、花壇の葉先に小さな水滴が残っていた。

作業台の手回し台は、昨日止めた位置にある。アルシアが鍵付き箱から研究頁と記録板を出し、リエッタは木箱の封を確かめた。

今日の試験は、新しい言葉を探すためではない。同じ条件で同じ断片が出るか、一度だけ確かめる。

アルシアは先に井戸水を汲み、工房の外から戻ってきた。靴底に付いた湿った土を入口の敷布で拭い、水差しを作業台へ置く。

昨日と同じ順に、珠を三つの小輪へ載せた。弧板を開いたまま回転だけを与え、止める。次に熱差だけを与え、止める。感知板の反応は同じだった。

研究頁は、昨日印を付けた位置で固定枠へ戻した。切り抜きの短い欠けと、珠の内側の星が重なる。

最後に、回転と熱差を重ねる。

「始めるよ」

「ああ」

一番遅い歯が動いた。

一つ目の星。二つ目の星。感知板の二つの刻み。

アルバスの声が、昨日と同じ場所から現れた。

『双星については――オルフェンの写本を――』

雑音。

『かえしわを作れないまま、二人を――』

その瞬間、工房の外で乾いた音がした。

小枝を折る音より低く、焼いた石へ水を落としたときのように短い。

アルシアが窓を向いた。

「止めろ」

リエッタは柄を放した。

歯車を止め、管を挟み、補修布を珠へ被せる。アルシアは流量針を一度見てから、工房の扉へ向かった。

「一緒に行く」

リエッタが言うと、アルシアは扉の取っ手に右手を置いたまま待った。

二人で外へ出る。

庭に人影はなかった。門は閉じ、朝露の残る草にも踏まれた跡はない。

白いものは、工房の壁から三歩ほど離れた土の上にあった。

細い輪が、湿った地面へ焼き付いている。火で焦がした黒ではない。土の色だけが抜け、粉を吹いたように白い。その中心に、角度の違う二つの星が重なっていた。

リエッタは近づきかけ、足を止めた。

「井戸へ行ったとき、あった?」

「ない」

アルシアは屈まず、輪の外側を回った。右手をかざしても、魔力を流し込まない。

「工房から漏れた熱じゃない。壁に跡がない」

リエッタは窓と白い輪を結ぶ位置を見た。手回し台のある作業台は壁の内側だが、輪はその直線上から少し外れている。

「起動したときに鳴った」

「ああ」

「転律珠から、ここへ飛んだのかな」

アルシアはすぐには答えなかった。輪の縁に落ちた枯れ葉を、細い枝でそっと返す。葉の裏は焼けていない。印は上から熱を浴びせたのではなく、土の表面だけに現れていた。

「探索術が場所を返すときの跡に似ている」

アルシアが立ち上がった。

「誰へ返したかは、ここから読めない。もう起動するな。ガルドを呼ぶ」

「うん」

リエッタは工房へ戻らず、輪の外で記録板を開いた。

時刻。起動条件。音。門と草に足跡がないこと。壁と葉に焼けがないこと。

書いている間に、白い輪の内側で、一つ目の星が土へ溶けるように薄くなった。

庭土に焼き付いた白い輪の中心で、二つ星の片方だけが消えずに残った。

第1章 了

TABLE OF CONTENTS

公開目次

  1. 01畳まれた毛布
  2. 02持ち帰られた依頼書
  3. 03旅支度の距離
  4. 04同じ道、違う願い
  5. 05一人部屋が二つ
  6. 06白い花の髪飾り
  7. 07エルドラ遺構
  8. 08熱のある手
  9. 09守護者の部屋
  10. 10罠の光
  11. 11命の距離
  12. 12帰る場所
  13. 13父の声を宿す球
  14. 14追跡者の印
  15. 15書庫都市オルフェン
  16. 16もう一人の紫
  17. 17名もない王女
  18. 18祝祭の夜
  19. 19姉という他人
  20. 20父が隠したもの
  21. 21王家の回収命令
  22. 22離れるための嘘
  23. 23選ぶ側
  24. 24白い王女の帰路
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