VOLUME II CHAPTER 01
第一章 父の声を宿す球
六月一日の朝、リエッタは作業台の端に置いた二枚の紙を、もう一度重ね直した。
一枚は、エルドラ遺構調査の正式報告を受領した証明。もう一枚は、転律珠を工房で調べるための条件をガルドが記した紙だった。
人体へ繋がない。導晶へ蓄えない。二人以上で行う。どちらかが止めると言ったら、理由を確かめる前に止める。
最後の一行は、支部の規則ではなく、リエッタたちが書き足したものだった。
窓から入る光が、紙の上の帰還印を横切っている。あの夜、暗い壁に浮かんだ二つ星はない。転律珠は、封をし直した木箱の中で作業台の中央に置かれていた。
その手前に、まだ球を載せられない台がある。
真鍮の三本脚だけなら、五月二十四日に使った架台と似ていた。けれど、あれは珠を転がさず、一度だけ弱い動きを渡すためのものだ。同じ速さで回し続けることも、回転をすぐ止めることもできない。
新しい台では、脚の先に布を巻いた小輪を一つずつ付けた。そのうち一つを歯車と手回し柄へ繋ぎ、手を離せば革の止め具が歯へ落ちる。珠の左右には薄い銅の弧板を置き、片方へ湯、もう片方へ井戸水を通せるよう、細い管を曲げてある。
回転と熱差を、別々にも、一緒にも与えるための台だった。
リエッタは小さな歯を鑢で削り、真鍮粉を刷毛で払った。柄を回す。三つの小輪が同じ場所で回り、指を離すと、革の止め具が乾いた音を立てた。
全部止まる。
もう一度回し、今度は途中で手を離す。やはり、三つとも止まった。
「そこまでにしろ」
背後から声がした。
「あと、噛み合わせだけ」
「座ってやれ」
振り向くと、アルシアが木盆を右手で持っていた。湯の入った器と水差しの横に、茶の杯が載っている。左腕の固定布は外れているが、肩より高く上げないよう言われている。盆を作業台へ置くときも、左手は添えるだけだった。
リエッタは自分の脚を見た。朝から立ったまま、歯を三つ削っている。膝に力は入るが、脛の奥に鈍い重さがあった。
「うん。お茶も飲む」
アルシアは少し間を置いてから、茶の杯をリエッタの前へ寄せた。
リエッタは丸椅子を引き寄せた。座ると、作業台の高さが変わる。歯車の裏に残った小さな引っ掛かりが見え、細い鑢を二度だけ通した。
アルシアはその間に、二本の管を確かめている。
「湯はどこまで熱くする」
「指を当てたままでいられるくらい。遺構の熱路を再現するんじゃなくて、差が入力になるかを見るだけだから」
「冷たい方は」
「井戸水のまま。どっちも途中で止められるように、管は挟んで閉じる」
「回転は」
「一番遅い歯。手を離したら止まる」
アルシアは頷き、右手首が見えるよう袖を折った。
リエッタも左手首の流量針を作業台へ向ける。針は普段の印にあった。長く立つと脚は重くなっても、命紬の流れは帰還時より安定している。
「感知板が二つ目を越えたら止める。どちらかの流量針が普段の印から外れても止める。銅板が熱くなりすぎても止める」
「声が途中でも止める」
アルシアが付け足した。
リエッタは、木箱へ伸ばしかけた手を止めた。
聞きたいから続ける、とは言えなかった。聞きたいときほど、止める条件が要る。
「うん。声より先に止める」
木箱の封を解き、補修布を開いた。
転律珠の内側では、二つの星が細く光っていた。外から力を加えていないのに、遺構から持ち帰った回転はまだ完全には消えていない。
リエッタは珠を両手で持ち上げ、三つの小輪へ載せた。弧板は触れない位置まで開けてある。まずは熱差を加えず、手回しだけを試す。
「回すよ」
「ああ」
柄をゆっくり一周させた。
珠の外側が小輪に押され、内側の星の片方が追いかけるように明るくなる。感知板は一つ目の刻みを灯した。二つ目には届かない。
リエッタが手を離すと、止め具が歯へ落ちた。珠の外側は一周もしないうちに止まり、光も弱まった。
「回転だけだと、前と同じ」
記録板へ短い線を引く。
次に、弧板を珠の左右へ近づけた。薄い布を一枚挟み、片方の管へ湯を、もう片方へ井戸水を通す。銅の色は変わらない。けれど指を寄せれば、左右で空気の温度が違った。
柄には触れず、二人で待つ。
内側の二つ星のうち、さっき光らなかった方が、ごく薄く明滅した。感知板の一つ目の刻みには届かない。
「熱差だけでも反応する」
「小さい」
「うん。じゃあ、頁を合わせてから両方」
リエッタは作業棚の鍵付き箱から、アルバスの研究頁を出した。五月二十四日に使った固定枠へ挟み、手回し台の向こうに立てる。珠の内側を巡る星と、紙に切り抜かれた星の短い欠けが重なるよう、枠の角度を一目盛りずつ動かした。
前と同じ位置で、紙の中の細線が薄く光った。
アルシアの視線が、リエッタの手首から顔へ上がった。
「続けられるか」
「続けたい。脚も針も変わってない」
「分かった」
リエッタは柄を握った。
一番遅い歯が、隣の歯を押す。三つの小輪が回り、珠の外周へ同じ速さを渡した。左右の弧板には、湯と井戸水が留まっている。
一つ目の星が強くなり、遅れて二つ目が光った。
感知板の一つ目。続いて、二つ目の刻みが灯る。
紙を擦るような雑音が、固定枠のあたりからした。
リエッタは柄から手を離さないまま、回転を止まる寸前まで落とした。
『双星については――』
アルバスの声だった。
前に聞いた部分とは違う。音が遠く、言葉の間へ細い雑音が入り込んでいる。
『オルフェンの写本を――』
そこで声が潰れた。
感知板の二つ目が明るくなる。
「まだ越えてない」
リエッタが言うと、アルシアは流量針を見たまま答えた。
「銅板の温度が上がっている」
湯を通した側の弧板から、布の匂いがわずかに立った。
リエッタは管を挟んだ。湯が止まり、熱差が小さくなる。感知板の光も落ちたが、声はもう一度、短く浮かんだ。
『かえしわを作れないまま、二人を――』
「止めろ」
リエッタは柄から手を離した。
革の止め具が歯へ落ちる。三つの小輪と珠の外周が止まり、アルバスの声も切れた。
工房に、水が管を戻る音だけが残った。
リエッタは感知板を見た。光は二つ目から一つ目へ下がり、やがて消えた。二人の流量針は動いていない。
新しい台は、止めたい場所で止まった。
それなのに、指が柄から離れた感じがしなかった。
「かえしわ」
聞こえた音だけを、リエッタは記録板へ平仮名で書いた。どんな字を当てるのかも、それが何の部品なのかも、声は教えなかった。
向かいで、アルシアの右手が作業台の縁を掴んでいる。
「父さんは、知っていた」
硬い声だった。
「作れないものがあると知っていた」
リエッタは記録板へ落としていた視線を上げられなかった。
珠の中に父の声はもうない。
夕食の卓には、昼の試験記録を持ち込まなかった。
転律珠は封を戻して工房へ置き、手回し台の管から湯と水を抜いた。新しい断片は二人で一度ずつ書き写し、原本を作業棚の鍵付き箱へ入れてある。
食卓にあるのは、野菜を煮た皿とパン、青縁の杯。それから、誰も座らない三つ目の椅子だった。
リエッタは匙で人参を割った。柔らかく煮えている。口へ運べば味もする。それでも、工房で聞いた声が耳の奥に残っていた。
かえしわを作れないまま、二人を。
その先へ、都合のいい言葉を足すことはいくらでもできた。
救った。守った。生かした。
どれも父がしたことだった。
同時に、作れない何かがあると知りながら、二人へ話さなかったことも消えない。
「お父さんには、理由があったと思う」
リエッタが言うと、アルシアはすぐに頷いた。
「あるだろう」
否定されなかったことに、少しだけ困った。
「あのとき、私を助けるためだった。時間もなかったんだよね」
「そうかもしれない」
「じゃあ」
続く言葉が出なかった。
理由があったなら、傷ついてはいけないのか。助けられたなら、隠されたことへ怒ってはいけないのか。
リエッタは無意識に口元を上げかけた。大丈夫だと形だけ先に渡す癖だった。
匙を皿へ置いた。
笑う代わりに、両手を卓の上へ出す。
「私、お父さんを悪い人にしたくない」
「ああ」
「でも、今のは嫌だった」
アルシアの指が、袖口の留め具から離れた。
「私もだ」
リエッタは謝らなかった。
リエッタは、青縁の杯の欠けを親指でなぞった。
「オルフェンへ行こう」
「行くと決めた」
「うん。でも、お父さんに言われたからじゃなくて」
リエッタは三つ目の椅子ではなく、アルシアを見た。
「写本を自分で読みたい。双星が何で、かえしわが何で、何を作れなかったのか。声の続きに任せたくない」
「私も見る」
「一緒に?」
「そう言った」
銀灰の目は逸れなかった。
リエッタの口元が、今度は勝手に少しほどけた。浮かんだものを、そのままにしておいた。
食後、二人は工房へ戻らなかった。
手回し台の再試験は明日の朝にする。寝る前に決めたのはそれだけだった。
六月二日の朝、リエッタは窓を開けてから工房へ入った。
夜露の匂いがする。庭土は黒く湿り、花壇の葉先に小さな水滴が残っていた。
作業台の手回し台は、昨日止めた位置にある。アルシアが鍵付き箱から研究頁と記録板を出し、リエッタは木箱の封を確かめた。
今日の試験は、新しい言葉を探すためではない。同じ条件で同じ断片が出るか、一度だけ確かめる。
アルシアは先に井戸水を汲み、工房の外から戻ってきた。靴底に付いた湿った土を入口の敷布で拭い、水差しを作業台へ置く。
昨日と同じ順に、珠を三つの小輪へ載せた。弧板を開いたまま回転だけを与え、止める。次に熱差だけを与え、止める。感知板の反応は同じだった。
研究頁は、昨日印を付けた位置で固定枠へ戻した。切り抜きの短い欠けと、珠の内側の星が重なる。
最後に、回転と熱差を重ねる。
「始めるよ」
「ああ」
一番遅い歯が動いた。
一つ目の星。二つ目の星。感知板の二つの刻み。
アルバスの声が、昨日と同じ場所から現れた。
『双星については――オルフェンの写本を――』
雑音。
『かえしわを作れないまま、二人を――』
その瞬間、工房の外で乾いた音がした。
小枝を折る音より低く、焼いた石へ水を落としたときのように短い。
アルシアが窓を向いた。
「止めろ」
リエッタは柄を放した。
歯車を止め、管を挟み、補修布を珠へ被せる。アルシアは流量針を一度見てから、工房の扉へ向かった。
「一緒に行く」
リエッタが言うと、アルシアは扉の取っ手に右手を置いたまま待った。
二人で外へ出る。
庭に人影はなかった。門は閉じ、朝露の残る草にも踏まれた跡はない。
白いものは、工房の壁から三歩ほど離れた土の上にあった。
細い輪が、湿った地面へ焼き付いている。火で焦がした黒ではない。土の色だけが抜け、粉を吹いたように白い。その中心に、角度の違う二つの星が重なっていた。
リエッタは近づきかけ、足を止めた。
「井戸へ行ったとき、あった?」
「ない」
アルシアは屈まず、輪の外側を回った。右手をかざしても、魔力を流し込まない。
「工房から漏れた熱じゃない。壁に跡がない」
リエッタは窓と白い輪を結ぶ位置を見た。手回し台のある作業台は壁の内側だが、輪はその直線上から少し外れている。
「起動したときに鳴った」
「ああ」
「転律珠から、ここへ飛んだのかな」
アルシアはすぐには答えなかった。輪の縁に落ちた枯れ葉を、細い枝でそっと返す。葉の裏は焼けていない。印は上から熱を浴びせたのではなく、土の表面だけに現れていた。
「探索術が場所を返すときの跡に似ている」
アルシアが立ち上がった。
「誰へ返したかは、ここから読めない。もう起動するな。ガルドを呼ぶ」
「うん」
リエッタは工房へ戻らず、輪の外で記録板を開いた。
時刻。起動条件。音。門と草に足跡がないこと。壁と葉に焼けがないこと。
書いている間に、白い輪の内側で、一つ目の星が土へ溶けるように薄くなった。
庭土に焼き付いた白い輪の中心で、二つ星の片方だけが消えずに残った。