VOLUME II CHAPTER 02
第二章 追跡者の印
六月三日の朝、庭の白い輪は、四本の杭に渡した油布の下に残っていた。
布は土へ触れない高さに張ってある。夜露は防げても、風まで止めるものではない。アルシアは揺れる端の向こうに、消えなかった星を見た。
昨日より輪郭が細い。けれど、まだ白い。
森道から車輪の軋む音が近づいてきた。蹄の音も一定の間隔で響き、近づく気配を隠していない。アルシアが門へ向くより先に、小柄な荷馬と幌のない調査荷車が木々の間から現れた。手綱を取っているのはガルドだった。
「動かしてないな」
ガルドは挨拶より先に聞いた。
「珠も印も」
「よし」
前日の午後、森道を通った支部の巡回荷車に託した封紙には、現場に手を加える前に来てほしいとだけ書いた。何があったかは、まだ伝えていない。
工房からリエッタが出てきた。左手に記録板、右手に昨夜作った写しを持っている。歩調は普段と変わらないが、油布の下まで来ると、自分から置いてあった丸椅子へ腰を下ろした。
「まず、これを見て」
ガルドは輪を一周した。杭の外に残る二人の靴跡と、輪の中に足跡がないことを確かめる。白い土を掻くことも、手をかざすこともしなかった。
リエッタが記録板を開く。
「昨日の朝、転律珠へ回転と熱差を入れて、研究頁を重ねた。前の日と同じ条件で、同じ声が出たよ。その途中で外から音がして、すぐ止めた。出てきたら、この輪があった」
追加音声は、平仮名の「かえしわ」も含め、聞こえた順に書かれている。リエッタは推測を足さずに読み上げた。
ガルドの左手が、記録板の手前で止まった。
アルバスの名を初めて出した日と同じだった。古傷のある指が、何も掴まないまま曲がる。
アルシアは白い星へ視線を戻した。
朝の湿気が土の匂いを濃くしている。その奥に、冷えた鉄を舌へ当てたような感触があった。魔力を探ろうとしなくても、呼吸のたびに残る。
五年前、折れた木々の間にも同じものがあった。
獣の爪がリエッタの胸を裂き、父が二人を家へ運び込む前。アルシアは地面へ片膝をつき、土に触れた。血と焦げた毛の臭いの下で、この冷たさだけが長く消えなかった。
左肩に力が入り、鈍い痛みが走った。アルシアは腕を上げず、息を吐いた。
「これを知っている」
リエッタの筆先が止まる。
「どこでだ」
ガルドの声から大きさが消えた。
「五年前の襲撃のあとだ。現場に残っていた」
「同じ術か?」
「そこまでは分からない。だが、魔力の残り方は同じ系統だ」
言い切れる範囲だけを渡すと、ガルドは一度頷いた。
「なら、記録には同系統の可能性と書く。同じ術者とは書かん」
リエッタが記録板へ一行を足した。笑って薄めることも、アルシアの記憶違いだと遠ざけることもしなかった。
「ガルド」
アルシアは古傷のある左手を見た。
「父さんを、どこまで知っている」
ガルドは油布の端を押さえた。風が過ぎ、布の音が収まってから手を放す。
「アルバスは宮廷魔法士だった」
リエッタの膝の上で、記録板がわずかに傾いた。
「だった?」
「俺が会った時には、もう宮廷を離れていた。西へ来た理由も、向こうで何を担当していたかも、あいつは話さなかった」
「私のことは」
リエッタの問いに、ガルドは首を横へ振った。
「知らん。お前をどこから連れてきたのかも、なぜ娘として育てていたのかも聞いていない。俺が知っているのは、宮廷の肩書を捨てた男が、リュネで薬を作り、二人の子を育てていたことだけだ」
「どうして黙っていた」
アルシアの声は、自分が思ったより低かった。
「本人が捨てた肩書を、死んだあとで俺が子どもへ着せ直す理由はないと思っていた」
ガルドは白い輪を見た。
「昨日まではな」
謝罪の言葉はなかった。代わりに、判断を変えた理由が置かれた。
リエッタは写しの余白へ「宮廷魔法士」と記した。続けて何かを書きかけ、筆を上げる。
「宮廷と、この印が繋がっているかは不明」
「そうだ」
ガルドが答えた。
三人は土を削らず、輪と星の寸法を細紐で写した。印の外から小瓶一つ分だけ土を取り、比較用とする。白い部分は現場に残した。追加音声の写し、起動条件、時刻、アルシアの記憶は、原本と別の板へ同じ順で記録した。
ガルドは油布の四隅へ支部の封札を結び、札の番号を記録板へ写した。
昼前、その写しを支部の保管庫へ入れるため、三人はガルドの調査荷車で家を出た。
リュネ支部の奥にある記録室は、外の受付より空気が冷たかった。
ガルドは机の上へ二つの封筒を並べた。一つには白い印の寸法と土の試料。もう一つには追加音声と起動条件の写しを入れる。封蝋を落とす前に、リエッタとアルシアへ中身を読ませた。
「原本はどうする」
アルシアが聞く。
「研究頁と珠は、お前たちが持て。オルフェンで照合するんだろう。こっちには写しを残す。片方を奪われても、起きたことまで消えん形にする」
「家に置くより、持って出た方がいい?」
リエッタの問いに、ガルドはすぐ答えなかった。
「まだ、出ると決める段階じゃない。先に、家へ近づいた奴がいるか見直す」
二つの封蝋へ、三人が順に印を付けた。ガルドは同じ番号を別の保管簿にも書き、頁を閉じる。
支部を出た時には、昼を過ぎていた。
家へ戻る森道は、朝より風が強い。若葉の裏が白く返り、枝の影が地面を細かく横切っていた。
アルシアは御者台の端から、手綱を取るガルドの肩越しに道の曲がりと木々の隙間を見た。後ろの荷台にはリエッタがいる。車輪の揺れに合わせて荷枠を掴み、呼吸は乱れていない。
家の屋根が梢の間に見え始める手前で、光が一度だけ動いた。
アルシアの目より低い。道の右、細い榛の枝。陽を返した点は、風と逆へ向きを変えた。
工房の窓を追っている。
アルシアの右手に冷気が集まった。
凍らせれば、一息で落とせる。
その瞬間、昨日の白い輪と、記録室で閉じた二つの封筒が頭に重なった。壊せば止まる。止まったものが、どこへ何を送っていたかは残らない。
アルシアは冷気を枝の下へずらした。
「右の榛。上から二本目」
ガルドが手綱を引いた。リエッタはアルシアの指先を見て、すぐに工具鞄の留め具を外した。
「光ってるもの?」
「ああ。工房を見ている」
枝に付いていたのは、親指の爪ほどの黒い金属片だった。三本の細い脚で樹皮を掴み、中央の小さな硝子だけを家へ向けている。羽音はない。継ぎ目に走った銀線が、長く一度、短く二度光った。
冷えた鉄の味が、また舌の奥へ触れた。
「落とせる」
アルシアは言った。
「壊さずに?」
「枝を凍らせて脚を留める。箱を下へ」
アルシアが御者台から降りる。リエッタも荷台を降り、工具鞄から細かな部品用の金網箱を出して蓋を開けた。ガルドが枝の反対側へ回り、逃げ道を塞ぐ。
アルシアは右手だけを上げた。冷気を細く絞り、金属片ではなく三本の脚が掴む樹皮へ流す。薄い霜が輪になった。
金属片の脚が動く。硝子がアルシアへ向きかけた。
「今」
ガルドが枝先を叩いた。
凍った樹皮ごと、黒いものが落ちる。リエッタが箱で受け、蓋を閉じた。中で金属の脚が一度だけ網を掻いた。
箱を道へ置くと、銀線がもう一度光った。
長く一度。短く二度。
アルシアはそのたび、箱から森の外へ抜ける細い魔力を感じた。方向は変わらない。
「東と北の間。東寄りだ」
リエッタは方位針を箱の横へ置き、記録板に線を引いた。箱の向きを半回転させる。
中央の硝子が内部で回り、また工房の方角へ向いた。けれど、次の発信は同じ方角へ抜けた。
「箱の向きじゃないね」
リエッタは小さな砂時計を立てた。砂が落ちきる前に、銀線が同じ順で光る。二度目も、三度目も、間隔は揃っていた。
「送り先の方角。長一、短二。間は小砂時計の半分」
黒い金属片には、支部印も王家の紋もなかった。硝子は工房へ向き、信号は別の方角へ送られている。それ以上は、外から読めない。
「戻るぞ」
ガルドは箱へ手を出す前に、リエッタを見た。
「持てるか」
「うん。揺らさない方がよさそう」
リエッタが両手で箱を抱えて荷台へ戻る。アルシアはその隣に座り、金属片が発信するたびに、同じ方角を確かめながら家まで揺られた。
工房の作業台で、箱の周りへ四枚の感知紙を立てた。
発信のたび、東寄りの一枚にだけ細い白線が残る。紙の位置を入れ替えても、箱を回しても同じだった。リエッタは時刻、方角、明滅の順を三回分記録し、そこで金網箱を厚い鉄製の工具箱へ入れて蓋を閉じた。
白線は出なくなった。アルシアの舌に残る冷たさも弱まる。
「開ければ、また送る」
「なら、蓋を開けず、この工具箱ごと封じる。支部では未開封のまま遺物保管庫へ入れる」
ガルドは記録を一枚写し終えてから言った。
「家の場所は、もう知られたものとして考える」
工房の窓から、白い輪を覆う油布が見えた。
リエッタは椅子へ座ったまま、鍵付き棚と作業台を順に見た。転律珠。研究頁。アルバスの研究帳。壁に掛けた工具。どれも、持ち主が戻ることを疑わず同じ場所にある。
「ここに残るのは?」
「二人ともか」
ガルドが聞いた。
「うん。起動しなければ、次の印は出ないかもしれない。工房も、庭の跡も守れる」
アルシアの中では、答えが先に出た。
駄目だ。今夜にでも連れ出す。
言葉にすれば簡単だった。リエッタの旅荷を詰め、戸を閉め、安全だと思える場所まで歩かせる。守るという名前を付ければ、本人の返事を待たなくても済む。
アルシアは右手を握った。掌に残った冷気が消えるまで待つ。
「残れば、支部から見張りを回せる」
ガルドが机へ地図を広げた。
「ただし、相手は家を知っている。次も魔具だけとは限らん。移るなら、明日の朝にオルフェンへ出る商隊がある。薬材と書物を運ぶ正規便だ。護衛は二人いるが、補助を一人増やせる。荷車の修理役も欲しがっている」
「私とアルシアなら、仕事になる」
「そういうことだ。偽名も偽の通行証も使わん。ただ、遺物を運ぶとは公表しない。支部には写しを残し、お前たちは手元の資料を持って、大書庫の原資料を確かめに行く」
アルシアはリエッタを見た。
白い髪は耳へ掛けられている。疲れた時に増える動作だった。
「私は、オルフェンへ行って調べたい」
自分の望みを先に出すと、喉が狭くなった。
「だが、お前を連れ出すと決めるつもりはない」
リエッタは黙って待った。
「お前の意思を聞く。隠れるか、調べに行くか」
問いを渡したあとで、取り戻したくなった。
家に残ると言われたら、アルシアも残る。窓と扉を塞ぎ、夜ごと見張り、次の影を待つことになる。
今は返事を待った。
リエッタは作業台の柄へ触れなかった。両手を膝の上で開く。
「オルフェンへ行く」
声は短かった。
「家にいれば、ここにあるものは見られる。でも、誰かがまた覗きに来るまで待つだけになる。写本を読んで、この印が何なのか調べたい」
「分かった」
アルシアの肩から、力が少し抜けた。
ガルドは地図の一か所へ指を置いた。
「なら、今夜中に荷をまとめろ。転律珠は止めたまま、頁と別に包む。記録は原本と携行用を分ける。偵察魔具は、ここで工具箱ごと封じてから俺が支部へ運ぶ」
「庭の印は?」
「寸法も試料も取った。現場は支部の封を張ったまま残す。家へ入る許可は誰にも出さん」
ガルドは細い封印線を工具箱の取っ手と留め金へ二度通した。結び目へ蝋を落とし、ガルド、リエッタ、アルシアの順に印を押す。三つの印を割らなければ、蓋は開かない。
ガルドは封じた工具箱を持ち上げた。中から光は漏れなかった。
扉を出る前に振り返る。
「支部の記録には、証拠保全のための移動と書く」
リエッタが頷いた。
アルシアは頷かなかった。言葉ではなく、今夜やることを順に数え始めていた。
六月四日の空が白み始める頃、二つの旅荷が玄関に並んだ。
転律珠は厚い布と木枠で固定し、リエッタの荷の中央にある。研究頁は防水筒へ入れ、珠とは別にアルシアが持つ。追加音声と偵察魔具の発信記録は二部作り、一部を支部へ預け、もう一部を地図筒の内側へ収めた。
アルシアは壁から古い杖を外した。
アルバスが宮廷で何に使っていたかは分からない。リュネでは薬棚の上へ掛けられ、旅では道を測り、エルドラでは暗い石床を叩いた杖だった。
握りの革は、父の指が触れていた場所だけ薄くへこんでいる。アルシアは右手で杖を持ち、石突きを床へ一度置いてから、地図筒と並べて玄関へ運んだ。
外から、商隊の小さな鈴が聞こえた。森道の待ち合わせ場所までは、歩いてすぐだ。
アルシアは窓、炉、裏口を確かめた。花壇の給水壺は満たしてある。工房の管は空で、転律珠を載せていた専用台には補修布だけが残っていた。
最後に玄関の鍵へ手を伸ばしかける。
リエッタが先に、壁の金具から鍵を取った。
「私が閉めるよ」
アルシアは手を下ろした。
「ああ」
二人で外へ出る。リエッタは荷を足元へ置き、扉を引いた。朝の薄い光が細くなり、食卓も、三つ目の椅子も見えなくなる。
扉が枠へ収まった。
リエッタは鍵を差し込み、自分の手で半回転させた。