笑わない魔女と、笑顔絶えぬ魔道具師
第二巻14 / 24

VOLUME II CHAPTER 02

第二章 追跡者の印

六月三日の朝、庭の白い輪は、四本の杭に渡した油布の下に残っていた。

布は土へ触れない高さに張ってある。夜露は防げても、風まで止めるものではない。アルシアは揺れる端の向こうに、消えなかった星を見た。

昨日より輪郭が細い。けれど、まだ白い。

森道から車輪の軋む音が近づいてきた。蹄の音も一定の間隔で響き、近づく気配を隠していない。アルシアが門へ向くより先に、小柄な荷馬と幌のない調査荷車が木々の間から現れた。手綱を取っているのはガルドだった。

「動かしてないな」

ガルドは挨拶より先に聞いた。

「珠も印も」

「よし」

前日の午後、森道を通った支部の巡回荷車に託した封紙には、現場に手を加える前に来てほしいとだけ書いた。何があったかは、まだ伝えていない。

工房からリエッタが出てきた。左手に記録板、右手に昨夜作った写しを持っている。歩調は普段と変わらないが、油布の下まで来ると、自分から置いてあった丸椅子へ腰を下ろした。

「まず、これを見て」

ガルドは輪を一周した。杭の外に残る二人の靴跡と、輪の中に足跡がないことを確かめる。白い土を掻くことも、手をかざすこともしなかった。

リエッタが記録板を開く。

「昨日の朝、転律珠へ回転と熱差を入れて、研究頁を重ねた。前の日と同じ条件で、同じ声が出たよ。その途中で外から音がして、すぐ止めた。出てきたら、この輪があった」

追加音声は、平仮名の「かえしわ」も含め、聞こえた順に書かれている。リエッタは推測を足さずに読み上げた。

ガルドの左手が、記録板の手前で止まった。

アルバスの名を初めて出した日と同じだった。古傷のある指が、何も掴まないまま曲がる。

アルシアは白い星へ視線を戻した。

朝の湿気が土の匂いを濃くしている。その奥に、冷えた鉄を舌へ当てたような感触があった。魔力を探ろうとしなくても、呼吸のたびに残る。

五年前、折れた木々の間にも同じものがあった。

獣の爪がリエッタの胸を裂き、父が二人を家へ運び込む前。アルシアは地面へ片膝をつき、土に触れた。血と焦げた毛の臭いの下で、この冷たさだけが長く消えなかった。

左肩に力が入り、鈍い痛みが走った。アルシアは腕を上げず、息を吐いた。

「これを知っている」

リエッタの筆先が止まる。

「どこでだ」

ガルドの声から大きさが消えた。

「五年前の襲撃のあとだ。現場に残っていた」

「同じ術か?」

「そこまでは分からない。だが、魔力の残り方は同じ系統だ」

言い切れる範囲だけを渡すと、ガルドは一度頷いた。

「なら、記録には同系統の可能性と書く。同じ術者とは書かん」

リエッタが記録板へ一行を足した。笑って薄めることも、アルシアの記憶違いだと遠ざけることもしなかった。

「ガルド」

アルシアは古傷のある左手を見た。

「父さんを、どこまで知っている」

ガルドは油布の端を押さえた。風が過ぎ、布の音が収まってから手を放す。

「アルバスは宮廷魔法士だった」

リエッタの膝の上で、記録板がわずかに傾いた。

「だった?」

「俺が会った時には、もう宮廷を離れていた。西へ来た理由も、向こうで何を担当していたかも、あいつは話さなかった」

「私のことは」

リエッタの問いに、ガルドは首を横へ振った。

「知らん。お前をどこから連れてきたのかも、なぜ娘として育てていたのかも聞いていない。俺が知っているのは、宮廷の肩書を捨てた男が、リュネで薬を作り、二人の子を育てていたことだけだ」

「どうして黙っていた」

アルシアの声は、自分が思ったより低かった。

「本人が捨てた肩書を、死んだあとで俺が子どもへ着せ直す理由はないと思っていた」

ガルドは白い輪を見た。

「昨日まではな」

謝罪の言葉はなかった。代わりに、判断を変えた理由が置かれた。

リエッタは写しの余白へ「宮廷魔法士」と記した。続けて何かを書きかけ、筆を上げる。

「宮廷と、この印が繋がっているかは不明」

「そうだ」

ガルドが答えた。

三人は土を削らず、輪と星の寸法を細紐で写した。印の外から小瓶一つ分だけ土を取り、比較用とする。白い部分は現場に残した。追加音声の写し、起動条件、時刻、アルシアの記憶は、原本と別の板へ同じ順で記録した。

ガルドは油布の四隅へ支部の封札を結び、札の番号を記録板へ写した。

昼前、その写しを支部の保管庫へ入れるため、三人はガルドの調査荷車で家を出た。

リュネ支部の奥にある記録室は、外の受付より空気が冷たかった。

ガルドは机の上へ二つの封筒を並べた。一つには白い印の寸法と土の試料。もう一つには追加音声と起動条件の写しを入れる。封蝋を落とす前に、リエッタとアルシアへ中身を読ませた。

「原本はどうする」

アルシアが聞く。

「研究頁と珠は、お前たちが持て。オルフェンで照合するんだろう。こっちには写しを残す。片方を奪われても、起きたことまで消えん形にする」

「家に置くより、持って出た方がいい?」

リエッタの問いに、ガルドはすぐ答えなかった。

「まだ、出ると決める段階じゃない。先に、家へ近づいた奴がいるか見直す」

二つの封蝋へ、三人が順に印を付けた。ガルドは同じ番号を別の保管簿にも書き、頁を閉じる。

支部を出た時には、昼を過ぎていた。

家へ戻る森道は、朝より風が強い。若葉の裏が白く返り、枝の影が地面を細かく横切っていた。

アルシアは御者台の端から、手綱を取るガルドの肩越しに道の曲がりと木々の隙間を見た。後ろの荷台にはリエッタがいる。車輪の揺れに合わせて荷枠を掴み、呼吸は乱れていない。

家の屋根が梢の間に見え始める手前で、光が一度だけ動いた。

アルシアの目より低い。道の右、細い榛の枝。陽を返した点は、風と逆へ向きを変えた。

工房の窓を追っている。

アルシアの右手に冷気が集まった。

凍らせれば、一息で落とせる。

その瞬間、昨日の白い輪と、記録室で閉じた二つの封筒が頭に重なった。壊せば止まる。止まったものが、どこへ何を送っていたかは残らない。

アルシアは冷気を枝の下へずらした。

「右の榛。上から二本目」

ガルドが手綱を引いた。リエッタはアルシアの指先を見て、すぐに工具鞄の留め具を外した。

「光ってるもの?」

「ああ。工房を見ている」

枝に付いていたのは、親指の爪ほどの黒い金属片だった。三本の細い脚で樹皮を掴み、中央の小さな硝子だけを家へ向けている。羽音はない。継ぎ目に走った銀線が、長く一度、短く二度光った。

冷えた鉄の味が、また舌の奥へ触れた。

「落とせる」

アルシアは言った。

「壊さずに?」

「枝を凍らせて脚を留める。箱を下へ」

アルシアが御者台から降りる。リエッタも荷台を降り、工具鞄から細かな部品用の金網箱を出して蓋を開けた。ガルドが枝の反対側へ回り、逃げ道を塞ぐ。

アルシアは右手だけを上げた。冷気を細く絞り、金属片ではなく三本の脚が掴む樹皮へ流す。薄い霜が輪になった。

金属片の脚が動く。硝子がアルシアへ向きかけた。

「今」

ガルドが枝先を叩いた。

凍った樹皮ごと、黒いものが落ちる。リエッタが箱で受け、蓋を閉じた。中で金属の脚が一度だけ網を掻いた。

箱を道へ置くと、銀線がもう一度光った。

長く一度。短く二度。

アルシアはそのたび、箱から森の外へ抜ける細い魔力を感じた。方向は変わらない。

「東と北の間。東寄りだ」

リエッタは方位針を箱の横へ置き、記録板に線を引いた。箱の向きを半回転させる。

中央の硝子が内部で回り、また工房の方角へ向いた。けれど、次の発信は同じ方角へ抜けた。

「箱の向きじゃないね」

リエッタは小さな砂時計を立てた。砂が落ちきる前に、銀線が同じ順で光る。二度目も、三度目も、間隔は揃っていた。

「送り先の方角。長一、短二。間は小砂時計の半分」

黒い金属片には、支部印も王家の紋もなかった。硝子は工房へ向き、信号は別の方角へ送られている。それ以上は、外から読めない。

「戻るぞ」

ガルドは箱へ手を出す前に、リエッタを見た。

「持てるか」

「うん。揺らさない方がよさそう」

リエッタが両手で箱を抱えて荷台へ戻る。アルシアはその隣に座り、金属片が発信するたびに、同じ方角を確かめながら家まで揺られた。

工房の作業台で、箱の周りへ四枚の感知紙を立てた。

発信のたび、東寄りの一枚にだけ細い白線が残る。紙の位置を入れ替えても、箱を回しても同じだった。リエッタは時刻、方角、明滅の順を三回分記録し、そこで金網箱を厚い鉄製の工具箱へ入れて蓋を閉じた。

白線は出なくなった。アルシアの舌に残る冷たさも弱まる。

「開ければ、また送る」

「なら、蓋を開けず、この工具箱ごと封じる。支部では未開封のまま遺物保管庫へ入れる」

ガルドは記録を一枚写し終えてから言った。

「家の場所は、もう知られたものとして考える」

工房の窓から、白い輪を覆う油布が見えた。

リエッタは椅子へ座ったまま、鍵付き棚と作業台を順に見た。転律珠。研究頁。アルバスの研究帳。壁に掛けた工具。どれも、持ち主が戻ることを疑わず同じ場所にある。

「ここに残るのは?」

「二人ともか」

ガルドが聞いた。

「うん。起動しなければ、次の印は出ないかもしれない。工房も、庭の跡も守れる」

アルシアの中では、答えが先に出た。

駄目だ。今夜にでも連れ出す。

言葉にすれば簡単だった。リエッタの旅荷を詰め、戸を閉め、安全だと思える場所まで歩かせる。守るという名前を付ければ、本人の返事を待たなくても済む。

アルシアは右手を握った。掌に残った冷気が消えるまで待つ。

「残れば、支部から見張りを回せる」

ガルドが机へ地図を広げた。

「ただし、相手は家を知っている。次も魔具だけとは限らん。移るなら、明日の朝にオルフェンへ出る商隊がある。薬材と書物を運ぶ正規便だ。護衛は二人いるが、補助を一人増やせる。荷車の修理役も欲しがっている」

「私とアルシアなら、仕事になる」

「そういうことだ。偽名も偽の通行証も使わん。ただ、遺物を運ぶとは公表しない。支部には写しを残し、お前たちは手元の資料を持って、大書庫の原資料を確かめに行く」

アルシアはリエッタを見た。

白い髪は耳へ掛けられている。疲れた時に増える動作だった。

「私は、オルフェンへ行って調べたい」

自分の望みを先に出すと、喉が狭くなった。

「だが、お前を連れ出すと決めるつもりはない」

リエッタは黙って待った。

「お前の意思を聞く。隠れるか、調べに行くか」

問いを渡したあとで、取り戻したくなった。

家に残ると言われたら、アルシアも残る。窓と扉を塞ぎ、夜ごと見張り、次の影を待つことになる。

今は返事を待った。

リエッタは作業台の柄へ触れなかった。両手を膝の上で開く。

「オルフェンへ行く」

声は短かった。

「家にいれば、ここにあるものは見られる。でも、誰かがまた覗きに来るまで待つだけになる。写本を読んで、この印が何なのか調べたい」

「分かった」

アルシアの肩から、力が少し抜けた。

ガルドは地図の一か所へ指を置いた。

「なら、今夜中に荷をまとめろ。転律珠は止めたまま、頁と別に包む。記録は原本と携行用を分ける。偵察魔具は、ここで工具箱ごと封じてから俺が支部へ運ぶ」

「庭の印は?」

「寸法も試料も取った。現場は支部の封を張ったまま残す。家へ入る許可は誰にも出さん」

ガルドは細い封印線を工具箱の取っ手と留め金へ二度通した。結び目へ蝋を落とし、ガルド、リエッタ、アルシアの順に印を押す。三つの印を割らなければ、蓋は開かない。

ガルドは封じた工具箱を持ち上げた。中から光は漏れなかった。

扉を出る前に振り返る。

「支部の記録には、証拠保全のための移動と書く」

リエッタが頷いた。

アルシアは頷かなかった。言葉ではなく、今夜やることを順に数え始めていた。

六月四日の空が白み始める頃、二つの旅荷が玄関に並んだ。

転律珠は厚い布と木枠で固定し、リエッタの荷の中央にある。研究頁は防水筒へ入れ、珠とは別にアルシアが持つ。追加音声と偵察魔具の発信記録は二部作り、一部を支部へ預け、もう一部を地図筒の内側へ収めた。

アルシアは壁から古い杖を外した。

アルバスが宮廷で何に使っていたかは分からない。リュネでは薬棚の上へ掛けられ、旅では道を測り、エルドラでは暗い石床を叩いた杖だった。

握りの革は、父の指が触れていた場所だけ薄くへこんでいる。アルシアは右手で杖を持ち、石突きを床へ一度置いてから、地図筒と並べて玄関へ運んだ。

外から、商隊の小さな鈴が聞こえた。森道の待ち合わせ場所までは、歩いてすぐだ。

アルシアは窓、炉、裏口を確かめた。花壇の給水壺は満たしてある。工房の管は空で、転律珠を載せていた専用台には補修布だけが残っていた。

最後に玄関の鍵へ手を伸ばしかける。

リエッタが先に、壁の金具から鍵を取った。

「私が閉めるよ」

アルシアは手を下ろした。

「ああ」

二人で外へ出る。リエッタは荷を足元へ置き、扉を引いた。朝の薄い光が細くなり、食卓も、三つ目の椅子も見えなくなる。

扉が枠へ収まった。

リエッタは鍵を差し込み、自分の手で半回転させた。

第2章 了

TABLE OF CONTENTS

公開目次

  1. 01畳まれた毛布
  2. 02持ち帰られた依頼書
  3. 03旅支度の距離
  4. 04同じ道、違う願い
  5. 05一人部屋が二つ
  6. 06白い花の髪飾り
  7. 07エルドラ遺構
  8. 08熱のある手
  9. 09守護者の部屋
  10. 10罠の光
  11. 11命の距離
  12. 12帰る場所
  13. 13父の声を宿す球
  14. 14追跡者の印
  15. 15書庫都市オルフェン
  16. 16もう一人の紫
  17. 17名もない王女
  18. 18祝祭の夜
  19. 19姉という他人
  20. 20父が隠したもの
  21. 21王家の回収命令
  22. 22離れるための嘘
  23. 23選ぶ側
  24. 24白い王女の帰路
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