笑わない魔女と、笑顔絶えぬ魔道具師
第一巻07 / 24

VOLUME I CHAPTER 07

第七章 エルドラ遺構

エルドラ遺構がまだ動いていることは、石壁ではなく、流れ出す水の温度が告げた。

五月十三日の朝、リエッタは低い土手を越え、行商人から聞いた三つの目印を一つずつ確かめていった。

北側の分かれ道。崩れた石柱。草に半分埋もれた土手。

最後の目印の向こうで、黒灰色の外壁が森の斜面を横切っている。山肌から切り出した石が隙間なく組まれ、木の根と苔に覆われながらも、壁の上端はまだ水平を保っていた。

前日の雨上がり、二人は日が落ちるまで街道を進み、外壁の見える林で野営した。防水布は乾かして畳み直し、それぞれの旅荷の外側に戻してある。

外壁の下から、細い水音がした。

「あった」

リエッタは斜面を下りた。

石を組んだ排水口は、腰より低い位置で鉄格子に塞がれている。格子の奥は暗く、流れ出た水だけが浅い石溝を伝い、土手の下へ消えていた。

指を入れる前に、工具袋から薄い金属片を出す。先端を水に浸し、数を数えてから引き上げた。雨水より明らかに温かい。

「行商人の話と同じだね。雨の前にも流れていて、今も止まってない」

アルシアは排水口ではなく、その上の石組みを見ていた。濃紺の外套は乾いている。昨日濡れた袖にも水の跡は残っていなかったが、父の杖を持つ右手は、休む前より強く柄を握っていた。

「奥は見えるか」

「曲がってる。ここから先は無理」

リエッタは左手首の流量針を見た。針は台座に刻んだ基準印の近くで震えている。急な落ち込みはない。

「そっちは?」

アルシアも右手首を朝の光に向けた。

「昨日と同じだ」

「魔力の戻りも?」

「遅い。だが、歩ける」

以前なら、「歩ける」だけで終わっていた。

リエッタは頷き、金属片の水気を拭いた。

「中で変わったら言ってね。私も言うから」

「分かっている」

排水口から斜面を回ると、外壁の切れ目に石造りの入口があった。扉は失われ、奥へ下る広い階段だけが残っている。先に入った調査隊の白い印が、入口の右壁に小さく引かれていた。

アルシアが階段の前で足を止める。

「灯り」

リエッタは照明具の覆いを開いた。導晶に流す魔力を絞り、足元と壁の下半分だけを照らす。光を広げすぎれば、奥にいるものにこちらの位置を教える。

「細綱は」

「すぐ出せるよ」

「先は私が見る」

「壁は私が見るね」

アルシアは反対しなかった。

階段を下りるにつれ、外の鳥の声が消えた。代わりに、水が石の向こうを走る音が近づく。空気は冷たいのに、壁に触れると場所によって温度が違った。

階段の終わりには、左右へ伸びる回廊があった。

正面の壁に、星が刻まれている。

一つではない。掌ほどの星形を中心に、細い線が上下左右へ伸び、隣の星に繋がっていた。溝の幅は、昨日見た石片の星形に近い。ただし壁の星はどの角も欠けず、その外側へさらに線を延ばしている。星の間には、角張った古代文字が三つか四つずつ並んでいた。壁の浅い窪みは棺を置く棚にも見え、星は葬送の飾りと言われても不思議ではなかった。

「墓所かな」

リエッタが言うと、アルシアは足元を見た。

「骨はない」

「持ち出されたのかも」

窪みに照明具を近づける。底には人や物を置いた擦れ跡がない。代わりに、奥の石に丸い穴が通っていた。

リエッタは一番近い星を指でなぞった。

上へ向かう線は細い。床へ下りる線は太く、途中に短い横線が二本入っている。隣の星では、その横線が一本しかない。

飾りなら、左右を揃えた方が作りやすい。

「同じ星なのに、線の太さが違う」

「欠けたのではなく?」

「見てみる」

リエッタは柔らかい刷毛で溝の苔を払い、薄紙を当てた。炭を寝かせて擦ると、星と線に加え、肉眼では見落としていた小さな角が浮かぶ。

アルバスの研究頁を地図筒から出した。

古い水路について書かれた頁には、同じ文字はない。だが、分岐を示す線の脇に短い刻みを置く書き方は似ていた。拓本を、頁に切り抜かれた星形に重ねる。外形は近いが、ぴたりとは合わない。

「同じ印?」

「まだ違うところの方が多いよ」

リエッタは紙を重ねたまま、壁に耳を近づけた。

低い水音が、太い線の向こうから聞こえる。線を右へ追う。次の星を越えたところで水音が遠のき、代わりに壁が温かくなった。

「こっちが排水口へ下りる線だとしたら」

記録帳に外壁と回廊を簡単に描き、行商人から聞いた流れの向きを重ねる。北の排水口の方向と、太い線が回廊から下る向きが合った。

「墓所の飾りじゃない。流れを記した図だと思う」

「水の流れか」

「水だけなら、温かい壁の線が別にある理由が分からない。水量か、熱か、別の何か。文字も読めないから、今は流量図かもしれない、ってところ」

言いながら、リエッタは右の回廊に照明を向けた。

壁の星は、右へ行くほど線を増やしている。左は細い線が途中で途切れ、床も乾いていた。

「右が動いてる側」

「行ける側とは限らない」

「うん」

二人は右へ進んだ。

回廊は緩く下り、星の線は壁から床に移った。古代文字のまとまりが分岐ごとに繰り返される。発音も意味も分からないが、同じ石栓のそばには同じ二文字があった。

リエッタは一つずつ記録した。

早く先へ行かなければ、と思うほど、古代文字の角を一つ飛ばしかけた。アルシアは先へ出ず、リエッタの横にいた。けれど、杖が床に触れる間隔は、街道を歩いていたときより長かった。

「次の星まで見たら進むね」

「見終わってからでいい」

「でも」

「間違えた方が時間を失う」

短い言葉だった。リエッタは炭を持ち直した。

次の曲がり角で、アルシアの杖が横に出た。

「止まれ」

リエッタの靴先と問題の石板の間は、半歩もなかった。

床に四角い石板が並んでいる。どれも同じ色に見えたが、一枚だけ縁の砂が沈んでいた。天井からは細かな石粉が落ち、石板の上に白い筋を作っている。

「上が動いている」

アルシアが天井を指した。

太い梁石の間に、指一本分の隙間がある。風はないのに、隙間の砂が震えていた。

リエッタは後ろへ下がり、壁の図に照明を寄せた。

床の星形は、問題の石板の手前で二つに分かれている。太い線は正面の回廊へ続き、細い線は壁際の狭い通路へ折れていた。分岐の上には、これまで石栓のそばで見た二文字がある。その隣に、初めて見る逆向きの刻みが付いていた。

「水を止める印だと思ってたけど、違うかもしれない」

「何が繋がっている」

リエッタは石板に触れず、細い鏡を床すれすれに差し出した。隙間の奥に金属棒が見える。棒は壁の中へ入り、上向きに折れていた。

「踏むと、天井の支えが抜ける」

「凍らせるか」

「隙間に水がある。急に冷やしたら石まで割れるかも」

正面を通らず、壁際の細い線を辿る。問題の石板より手前で、人一人が横向きに通れる隙間が、崩れた壁板の裏に残っていた。装飾に見えた図が、保守用の迂回路まで示している。

ただし、その隙間も、罠の梁石が張り出した脇を通る。通り抜けている最中に落盤すれば、避ける場所がない。

リエッタは細綱の先に、通路に落ちていた両手に収まるほどの石を結んだ。問題の石板を越して、その先の床へ石を投げる。綱を少しずつ引き、石板の向こうの縁で止めた。アルシアが壁の窪みを調べ、二人とも身を収められる深さを確認する。

「引いたら落ちると思う」

「窪みから出るな」

「アルシアもね」

二人が横に並べる広さはなかった。リエッタが奥へ入り、アルシアが入口側に立つ。アルシアは窪みから半身を出しかけ、リエッタに外套の袖を引かれて中へ戻った。

「出ないって言ったでしょう」

「見える位置にいる」

「ここからでも見えるよ」

リエッタは細綱を引いた。

石が問題の石板の上に転がり落ちる。

鈍い音の直後、正面の天井が崩れた。梁石が一枚ずつ外れ、回廊を塞ぐ。石粉が窪みの前を白く覆い、遅れて小石が跳ね込んできた。

音が止まってからも、二人は動かなかった。

アルシアが杖の先で入口の地面を確かめる。

「迂回路は」

「残ってる」

リエッタは壁際の細い線を照らした。落ちた梁石の脇を回り、狭い隙間へ続いている。

「私の足元を見て。右の濃い石は踏まないで」

先に横向きで通る。工具袋が壁に当たり、金具が一度鳴った。曲がり角の先へ出てから、照明具を低く掲げる。

アルシアは何も尋ねず、リエッタが踏んだ石だけを選んだ。落ちた梁石の脇を抜ける間も、父の杖を壁に当てなかった。

迂回路の先で回廊は広がった。

床下を、水が走っていた。

上層水路は、石の格子で人の通路と分けられていた。

格子の下を流れる水は外の排水より速く、ところどころ白い泡を立てている。水面から上がる温気が、照明具の覆いを薄く曇らせた。

リエッタは左手首に引かれる感覚で足を止めた。

流量針が、台座に刻んだ基準印から外れている。

基準印からゆっくり離れ、止まる前に戻った。戻り切ると、今度は反対側へ短く振れる。

「アルシア」

呼ぶ前から、アルシアは自分の右手首を見ていた。

「こっちもだ」

二人はその場に立ったまま、次の動きを待った。

二本は同じ位置にも、同じ向きにも動かない。それでも、それぞれの基準印をもとに見れば、弱まり、戻り、強まる順と間隔は重なった。床下の水は一定に流れている。二人の距離も変わらない。

リエッタは記録帳を開き、二本の針の端が止まった位置を別々に線で残した。もう一度。次も順と間隔は同じだった。

「距離で弱くなってるだけじゃないね」

「針では原因は分からない」

アルシアの声はいつもより掠れていた。

「うん。私たちが止まってても変わる、ってことだけ」

回廊を数歩戻り、床の星形から離れてみる。それでも周期は変わらない。再び進み、床の星形を越えると、それぞれ強まる側へ振れる幅だけが大きくなった。

リエッタはその差に印を付け、すぐ横に疑問符を置いた。

「遺構の流れに引かれてるのかもしれない。地下の星路が近いなら、命紬の流れが反応してる可能性はある」

「休む?」

「次に閉じられる部屋があれば」

リエッタは先の図を見た。次の星から、細い支線が通路の右へ伸びている。制御用の小部屋なら扉があるかもしれない。

水面が持ち上がった。

最初は泡だと思った。黒灰色の塊が格子の下で転がり、濡れた殻から細い脚を広げる。掌に収まるほどの小型魔物だった。同じ影が奥で三つ、四つと水から上がる。

アルシアがリエッタの前へ出た。

冷気が格子を白く曇らせる。水面の薄い膜が凍り、先頭の魔物の脚が止まった。

だが、下から温い水が流れ続けている。氷は端から割れ、後ろの魔物が止まった一体を押し上げた。

「下がれ」

「待って。流れたままだと冷やし切れない」

魔物が格子の隙間に脚を掛けた。殻が石に当たり、硬い音を立てる。

リエッタは工具袋の外側から、蝶番で二つに畳んだ薄い防護板を外した。普段は飛び散る破片や熱い導晶を受けるための板だ。開いて格子に斜めに差し込み、通路側へ上がる隙間を塞ぐ。

一体が板にぶつかった。

腕まで衝撃が来る。板は持ちこたえたが、下端が水に押されてずれた。

防護板だけでは塞ぎ切れない。冷却だけでは温い流れにほどかれる。

壁の流量図では、格子の先で水路が二つに分かれていた。左は太いまま奥へ続き、右は細くなって通路の外へ下っている。

リエッタは板の角度を変えた。

「アルシア、右の細い溝だけ冷やして!」

「お前の手が近い」

「板から離さない。右だけなら届かないよ」

二体目が跳ねた。防護板が押され、リエッタの靴底が濡れた石を滑る。

アルシアの左手がリエッタの背を支えた。

「位置を動かすな」

冷気が板の右側を走った。

広い水面ではなく、板で寄せた細い流れだけが白く固まる。右の支溝に氷の縁ができ、水かさが一時的に上がった。

リエッタは防護板を押し返した。跳び上がった魔物の殻が板を滑り、右の支溝へ落ちる。冷えた水に入った脚が縮まり、動きが鈍った。

「そのまま、もう一度」

「魔力が戻るまで待て」

アルシアは一息置いた。次の冷気は短く、氷の縁だけを厚くする。

リエッタは板で残りの魔物を右の支溝へ寄せた。完全に凍らせる必要はない。動きの鈍った間に、壁際の石栓を工具の柄で押す。

格子の下で古い仕切りが落ちた。

水が右の支溝へ向きを変え、小型魔物をまとめて外側の暗い水路へ押し流す。殻が石を打つ音は遠ざかり、やがて水音に紛れた。

リエッタは防護板を下ろした。

片側の蝶番が曲がっている。けれど板は閉じられた。

「噛まれてない?」

アルシアがリエッタの手袋を見る。

「板の跡だけ。アルシアは?」

「使った分だけだ」

アルシアの右手首の流量針は、周期の揺れが基準側へ戻っても、台座の印まで届かなかった。冷却魔法で送り出した分が重なっている。どこまでが遺構の影響か、今は分けられない。

リエッタはそのまま記録した。

アルシアが水路の先を見た。

「次の分岐も見ろ」

「私が?」

「今さら聞くな」

リエッタは曲がった防護板を工具袋に留め直した。

「じゃあ、閉じられる部屋を探す。見つけたら休むよ」

「ああ」

アルシアは先に歩かなかった。

リエッタが壁の線を確かめ、右の支線を選ぶまで、隣で待っていた。

支線の先には、円形の石扉があった。

扉は半分だけ開き、錆びた軸が床に沈んでいる。アルシアが隙間から照明を入れ、天井、床、左右の影を順に確かめた。

「動くものはいない」

「水は?」

「床下だ」

二人で中へ入った。内側から扉を押すと、錆びた軸が低く鳴った。二人で力を合わせて閉じ、軸の脇に石楔を打って固定する。

リエッタは旅荷を壁際に置き、防水布の一枚を乾いた床に広げる。

「ここなら休めるね」

「先に部屋を確かめる」

「確認が終わったら、今日はここまで」

アルシアは一度だけ部屋の奥を見た。

「分かった」

部屋の中央には低い石台があり、その周囲を細い溝が輪のように囲んでいる。壁一面には、入口で見た星形より大きな図が刻まれていた。古代文字の列。波を重ねたような線と、床から上がる太い柱。その二つが、中央の円へ向かっている。

円から外へ出る線は細く、星の節点を経て部屋の外へ広がっていた。

「制御室だ」

リエッタは照明具を石台に置いた。

最初に目を引いたのは中央の円だった。依頼書にある「魔力生成遺物」が施設の核なら、ここはその位置を示しているように見える。

だが、線の向きが想像と逆だった。

「深部の核が水を動かしてるんじゃない」

アルシアが壁の前に立つ。

「何が違う」

「ここの刻み」

波形の線に沿う矢印状の刻みは、中央へ向かうたび深くなる。床から上がる柱にも同じ向きの刻みがあり、円を越えた後は星の線に沿って外向きになっていた。

リエッタは入口で取った拓本と重ねる。回廊で石栓のそばにあった二文字が、ここでは波形と柱の両方に付いている。意味は読めない。けれど、同じ文字が同じ働きの場所に置かれている。

「水と、下から来る熱が中央へ入る。そこから別の流れになって、星の線へ出ていく」

「別の流れが魔力とは限らない」

「通信灯が同じ列で一つだけ消えた。星の線が灯りへ繋がってるなら、出ていくものは少なくとも術式を動かせる」

リエッタは古代文字の列を写した。読める文字は一つもない。図の中央に描かれた円が、実物と同じ構造かも分からない。

記録帳の上で、「生成」と書きかけた語を消す。

代わりに「変換」と置き、その横に疑問符を付けた。

「依頼書の遺物は、何もないところから魔力を作るんじゃなくて、地熱と水流を変える核かもしれない」

「推定だな」

「うん。深部で実物を見るまでは」

石台の側面には、短い操作桿があった。先端は折れていないが、根元を白い鉱物が固めている。壁の図では、操作桿から伸びる線は上層の細い水路にだけ繋がり、中央の円には届いていなかった。

「試験用の迂回路かな」

リエッタは鉱物を針で削った。

アルシアが手元ではなく、床の輪を見ている。

「動かすなら、私はどこに立つ」

リエッタは顔を上げた。

床の溝は入口側で切れ、星形のない四角い石だけが残っている。流れが戻っても、そこなら線の上ではない。

「扉の横。四角い石の上。杖は床に付けないで」

「お前は」

「床の輪の内側。操作桿を離したら、入口側の切れ目を通って下がる」

アルシアは指定した石に移った。理由を聞き直さず、父の杖を床から上げる。

リエッタは操作桿の根元に工具を差し込んだ。

押しても動かない。鉱物をもう一層削り、根元の軸に沿って力を掛ける。金属の奥から、長く使われていなかった噛み合わせの音が返った。

「動かすよ」

「ああ」

操作桿が指一本分だけ沈んだ。

床下で石栓が外れる。

停止していた水路のどこかで、水が石堰を越えた。

リエッタの左手首で、流量針が強く振れた。

足元で、淡金の線が一度だけ脈打った。

第7章 了

TABLE OF CONTENTS

公開目次

  1. 01畳まれた毛布
  2. 02持ち帰られた依頼書
  3. 03旅支度の距離
  4. 04同じ道、違う願い
  5. 05一人部屋が二つ
  6. 06白い花の髪飾り
  7. 07エルドラ遺構
  8. 08熱のある手
  9. 09守護者の部屋
  10. 10罠の光
  11. 11命の距離
  12. 12帰る場所
  13. 13父の声を宿す球
  14. 14追跡者の印
  15. 15書庫都市オルフェン
  16. 16もう一人の紫
  17. 17名もない王女
  18. 18祝祭の夜
  19. 19姉という他人
  20. 20父が隠したもの
  21. 21王家の回収命令
  22. 22離れるための嘘
  23. 23選ぶ側
  24. 24白い王女の帰路
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