笑わない魔女と、笑顔絶えぬ魔道具師
第一巻11 / 24

VOLUME I CHAPTER 11

第十一章 命の距離

石壁の四拍を追って、アルシアは五月十六日を歩き尽くした。

水は同じ管を鳴らしても、人の通路まで一つにはしてくれなかった。右の分岐で近づいた音が次の階段では頭上へ移り、崩落を迂回すると背後へ回る。杖先で水の向きを確かめ、手摺の擦れと床に残る石粉を拾って、上り道を選び続けた。

途中で、低い天井の継ぎ目に白い髪が一本引っ掛かっていた。

その先では靴跡が短くなり、壁に手をついた跡が増えた。埃を払った五本の筋は、アルシアの手より小さい。流量針を見なくても、誰が通ったかは分かった。

アルシアは髪を布に包み、記録板に場所だけを書いた。

呼んでも返事はなかった。

地上なら夜になる頃、通路は水門の裏を巡る螺旋階段へ入った。アルシアはそこで短く眠り、熱で目を覚ました。冷却具の水を替え、右手だけで荷紐を締め直す。左肩は、身体を起こす動きにも鈍い痛みを返した。

それでも、足跡は上へ続いていた。

次に休んだあと、地上では五月十七日の朝を過ぎているはずだった。

水路が広い作業路へ合流した場所で、靴跡は一度よろめいた。右の踵が石粉を長く引き、壁の擦れ跡は腰の高さから膝の高さまで落ちている。床には、小さな金属片で引いた上向きの矢印があった。

その先の扉は、半分だけ開いていた。

開閉輪の錆が、扇形に剥がれている。古い欠けではない。剥がれた粉はまだ床の水に流されきらず、赤い筋を作っていた。

アルシアは扉の隙間へ杖を入れた。

風はない。人の息も聞こえない。

右手で扉を押す。石の軸が低く鳴り、人一人が横を向けば通れる幅まで開いた。

向こうは、崩れた水槽の脇だった。

浅い水路が壁際を走り、天井から落ちる滴が三度、石皿を打つ。溜まった水が皿の縁を越したあと、少し遅れて下の管が一度鳴った。

その四拍の下に、白い髪があった。

リエッタは水路から離れた壁際に倒れていた。右肩を石へ預けたまま滑り落ちたらしく、背中の荷が身体を横向きに支えている。胸元には補修布の包みが残り、その内側で淡金色が弱く明滅していた。

「リエッタ」

動かない。

アルシアは杖を置いた。右手袋を歯で引き抜き、膝をつく。左腕を使わず、右手をリエッタの額に当てた。

冷たい。

頬に擦り傷はない。後頭部にも血はなく、首の角度は保たれている。顎をわずかに上げ、口元へ耳を近づけた。

息はあった。

ひどく浅い。次が来るまでの間が長すぎる。

首筋へ指を移す。脈は細く、二度触れて一度見失った。

瞼を開き、胸元から漏れる淡金色の光への反応を確かめる。瞳孔の収縮は鈍かった。

「聞こえるか」

睫毛も動かなかった。

アルシアはリエッタの左手首を取った。流量針は下端へ貼りつくように止まり、振れがほとんどない。二人の間から厚い壁はなくなった。右手首の送り出し側は少しずつ上がっているのに、リエッタの指は温まらなかった。

アルシアは右掌をその手に重ね、意識して魔力を流した。

普段の命紬より太い流れが、触れた場所へ入る。だが、冷えきった末端で滞り、胸まで届く前に散った。脈の間隔は変わらない。

五年前、アルバスに教えられた枯渇救命の順序が浮かんだ。

呼びかけ。呼吸。脈。接触供給。

それで戻らなければ、呼吸の通り道へ直接流す。

アルシアは一度、目を閉じた。

ためらう時間は、順序の中にない。

「あとで説明する」

返事のできない相手へ告げた。許しを得たことにはならない。それでも、何をするか言わずにはいられなかった。

リエッタの旅荷を外す。肩帯に固定された転律珠の包みをいったん解き、手の届く床へ置いた。畳んだ外套を頭の下へ差し入れ、右手で顎を支えて呼吸路を開く。左肩を動かすたび視界が白くなったが、腕は身体の脇から上げなかった。

アルシアは息を吸った。

自分の魔力を、呼気に細く重ねる。

リエッタの唇に、自分の唇を重ねた。

温度はほとんどなかった。

息を渡す。肺を押し広げるほど強くせず、呼吸路に沿って魔力だけを深く通す。離れて胸の動きを見る。脈を確かめる。

まだ、遅い。

もう一度、息を渡した。

右手首の流量針が下がった。熱のこもった自分の身体から力が抜け、床がわずかに傾く。

全部を渡せばいい、という考えを切った。

二人とも倒れる量では救命にならない。脈を数え、必要な分だけ流す。

三度目に離れたとき、リエッタの喉が小さく鳴った。

浅いながらも、自分から息を吸う。

首筋の脈が、一度、次も、その次も指に触れた。

手順は、ここで終わる。

アルシアはリエッタの顎から右手を離した。

それなのに胸に浮かんだのは、呼吸が戻ったという確認ではなかった。

もう一度、自分の名を呼んでほしい。

その願いが救命の手順に混じっていたことを、否定できなかった。

名前を付ける余裕はない。付ければ、今したことまで別のものにしてしまう気がした。

「リエッタ」

声が震えた。

白い睫毛が、わずかに持ち上がった。

淡紫の瞳は焦点を結ばず、アルシアの頬のあたりを漂った。唇が動く。音にはならない。

「いる。ここにいる」

何かがリエッタの頬へ落ちた。

天井からの滴ではなかった。

アルシアは自分が泣いていることに、そのとき初めて気づいた。

袖で拭う手が間に合わない。次の一滴が鼻筋を伝い、顎から落ちた。

「生きていて」

命令にも、確認にもならなかった。

リエッタの目が、ごく浅くアルシアを捉えた。

「……アル、シア」

息に混じった後半は、ほとんど聞こえなかった。

それでも、呼ばれた。

アルシアは右手でリエッタの頬を支えた。もう魔力は流さない。自力の呼吸と脈が続くことを確かめる。流量針は下端を離れ、遅く上がり始めていた。

リエッタの瞼はまた閉じたが、今度の呼吸には同じ間隔があった。

歩ける状態ではなかった。

アルシアは防水布と荷紐で背負い帯を作った。壁に背を預けて座り、リエッタの身体を右側から少しずつ引き寄せる。左腕は腹の前から動かさず、右腕と膝で位置を直した。

転律珠の包みは、旅荷から外した補助帯でリエッタの胸元に固定し直した。回転は続いている。アルバスの研究頁は地図筒へ移し、依頼書は記録板に重ねる。工具袋とリエッタの旅荷には石粉で印を付け、水槽脇へまとめた。アルシア自身の旅荷は胸側へ回し、右肩と腰で支える。今は人一人と、失えない記録を運ぶだけで限界だった。

「先に地上へ出る。荷は人を連れて取りに戻る」

眠るリエッタへ、今度も言葉にした。

背負い帯を締める。

立ち上がった瞬間、左肩から肘まで痛みが走った。膝が折れかけ、右手の杖を床へ強く突く。

リエッタの呼吸が、耳の横へかかった。

アルシアはもう一度立った。

来た道には補修布の結び目と記録がある。分岐で迷う必要はなかった。水槽を出て、錆の剥がれた扉を抜ける。下りではなく、上層へ近づく緩い坂を選ぶ。

歩幅は小さくした。

十数歩ごとにリエッタの息を確かめ、自分の熱で視界が揺れたら壁へ寄る。背負った重みは命紬の圧迫感とは違った。肩帯が食い込み、リエッタの胸郭が動き、耳元で呼吸が鳴る。どれも、そこにいる身体が返す重さだった。

しばらく上ったところで、遠くから金属音がした。

三度。

間を置いて、二度。

水の四拍ではない。

ギルドの救難確認だった。

アルシアは足を止めた。

一人で出口まで運べるかを先に計算しかけた。左肩、熱、リエッタの呼吸、残る坂。答えを出す前に、右手の杖を配管へ打ちつけた。

三度。

間を置いて、二度。

「ここだ!」

声が石壁へ返る。

向こうの打音が、すぐ三度鳴った。

足音が近づいてくる。複数だった。先頭の灯りが曲がり角へ現れ、その下から大柄な影が身を屈めて入ってきた。

「アルシア!」

ガルドの声だった。

その後ろに、支部の調査員が二人いる。腰へ救助綱を巻き、入口から伸ばした細綱を金具へ通していた。

ガルドの最初の問いは一つだった。

「息は」

「戻った。枯渇している。供給は上がり始めた」

「お前は」

「発熱。左肩と肘。腕は上がらない」

自分で言うと、どれも隠しようのない事実になった。

アルシアは地図筒と記録板を差し出した。

「下層まで道標がある。転律珠はリエッタの胸元。研究頁は筒の中だ。旅荷と工具を水槽脇に残した。回収を頼む」

ガルドは記録を受け取り、後ろの一人へ渡した。

「位置を写して、荷を取りに行け。もう一人は先に戻って、温かい寝床と湯を用意しろ。治療具もだ」

二人が短く返事をする。

ガルドはアルシアの背負い帯を確かめた。

「リエッタは俺が担ぐ」

アルシアは答える前に、背中の呼吸を数えた。命紬に接触は要らない。ガルドへ渡しても、同じ通路にいる限り距離は開かない。

分かっている。

それでも、帯を解く右手が動かなかった。

ガルドは急かさず、代わりにアルシアの旅荷を肩へ掛けた。

「なら、お前は背負え。俺はお前を倒れさせない。選べるのはそこまでだ」

アルシアは一度、息を吐いた。

「頼む」

「最初からそう言え」

ガルドがアルシアの右側へ入り、腰の救助綱を背負い帯へ繋いだ。左腕には固定布が巻かれた。前を行く調査員が瓦礫を除け、後ろからガルドが荷重を支える。

アルシアはリエッタを背負ったまま、今度は三人で上った。

地上の光は、目に痛かった。

遺構入口の外、木々の間に調査隊の防水布が張られている。リエッタはその下の寝具に横たえられ、温めた布で手足を包まれていた。戻ってきた調査員が旅荷と工具袋を脇へ置き、転律珠と研究頁、依頼書、記録板が揃ったことをガルドと確認した。

アルシアも隣の敷物に座らされていた。

左腕は胸の前で固定され、額には新しい冷却具がある。熱はまだ下がらない。ガルドは、リエッタの流量針が戻るまでは近くにいろと言い、自分も診られる位置から動くなと付け加えた。

アルシアは従った。

リエッタの左手首では、針が本人の基準へ向かって少しずつ上がっている。深い石壁を抜け、いつもの距離へ戻っただけだ。命紬が安堵を伝えたわけではない。

それでも、呼吸は目で見えた。

胸元の布が持ち上がり、下がる。

アルシアはその回数を数えながら、いつの間にか眠っていた。

目を覚ましたのは、右手の指を弱く押されたからだった。

リエッタが目を開けている。

木漏れ日の下では、淡紫の瞳に焦点があった。

「リエッタ」

「うん」

声は掠れていたが、返事になった。

アルシアは起き上がろうとした。固定された左腕が引かれ、リエッタの指も離れかける。動きを止めると、細い指がまた右手に触れた。

「ここは、外?」

「エルドラの入口だ。ガルドたちが来た」

「そっか」

リエッタは一度目を閉じ、息を整えてから開いた。

「見つけてくれたんだね」

「物の跡を追った。お前は下層の水槽脇で倒れていた」

そこまで言って、アルシアは言葉を切った。

「呼吸が止まりかけていた。手から魔力を流しても、胸へ届く前に散った」

リエッタは黙って聞いている。

「口元から、呼気と一緒に直接流した。意識のないお前の唇に触れた」

森の音が近くなった。

葉が擦れ、誰かが湯を注いでいる。ガルドたちは聞こえない距離へ下がっていた。

アルシアはリエッタから目を逸らさなかった。

「救命に必要だと判断した。だが、事前に許可を得られなかった。触れたことは謝る」

リエッタの指が、アルシアの右手の上で少し動いた。

「教えてくれて、ありがとう」

「……それだけか」

「今はね」

リエッタは笑わなかった。

問い詰める代わりに、受け取った言葉をどこへ置くか考えているように見えた。

「少しだけ、覚えてる」

アルシアの指が固くなる。

「何を」

「あったかい息。アルシアの声。それから」

リエッタは右手を持ち上げた。途中で力が足りず、アルシアが身を寄せる。

指先が、アルシアの目の下に触れた。

「泣いてた?」

地下で拭ったはずの涙の跡を、指が確かめるようになぞった。

アルシアは答えられなかった。

義務なら、呼吸を戻す手順を説明できる。供給量も、地上へ運んだ理由も、調査隊へ助けを求めた判断も言葉にできる。

あの涙だけは、どの手順にもなかった。

「生きていてって、聞こえたよ」

リエッタの声はまだ細い。

「私、ここにいるよ。アルシア」

視界が滲んだ。

目覚めたばかりのリエッタの指へ、乾ききらない涙が一滴、落ちた。

第11章 了

TABLE OF CONTENTS

公開目次

  1. 01畳まれた毛布
  2. 02持ち帰られた依頼書
  3. 03旅支度の距離
  4. 04同じ道、違う願い
  5. 05一人部屋が二つ
  6. 06白い花の髪飾り
  7. 07エルドラ遺構
  8. 08熱のある手
  9. 09守護者の部屋
  10. 10罠の光
  11. 11命の距離
  12. 12帰る場所
  13. 13父の声を宿す球
  14. 14追跡者の印
  15. 15書庫都市オルフェン
  16. 16もう一人の紫
  17. 17名もない王女
  18. 18祝祭の夜
  19. 19姉という他人
  20. 20父が隠したもの
  21. 21王家の回収命令
  22. 22離れるための嘘
  23. 23選ぶ側
  24. 24白い王女の帰路
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