VOLUME I CHAPTER 11
第十一章 命の距離
石壁の四拍を追って、アルシアは五月十六日を歩き尽くした。
水は同じ管を鳴らしても、人の通路まで一つにはしてくれなかった。右の分岐で近づいた音が次の階段では頭上へ移り、崩落を迂回すると背後へ回る。杖先で水の向きを確かめ、手摺の擦れと床に残る石粉を拾って、上り道を選び続けた。
途中で、低い天井の継ぎ目に白い髪が一本引っ掛かっていた。
その先では靴跡が短くなり、壁に手をついた跡が増えた。埃を払った五本の筋は、アルシアの手より小さい。流量針を見なくても、誰が通ったかは分かった。
アルシアは髪を布に包み、記録板に場所だけを書いた。
呼んでも返事はなかった。
地上なら夜になる頃、通路は水門の裏を巡る螺旋階段へ入った。アルシアはそこで短く眠り、熱で目を覚ました。冷却具の水を替え、右手だけで荷紐を締め直す。左肩は、身体を起こす動きにも鈍い痛みを返した。
それでも、足跡は上へ続いていた。
次に休んだあと、地上では五月十七日の朝を過ぎているはずだった。
水路が広い作業路へ合流した場所で、靴跡は一度よろめいた。右の踵が石粉を長く引き、壁の擦れ跡は腰の高さから膝の高さまで落ちている。床には、小さな金属片で引いた上向きの矢印があった。
その先の扉は、半分だけ開いていた。
開閉輪の錆が、扇形に剥がれている。古い欠けではない。剥がれた粉はまだ床の水に流されきらず、赤い筋を作っていた。
アルシアは扉の隙間へ杖を入れた。
風はない。人の息も聞こえない。
右手で扉を押す。石の軸が低く鳴り、人一人が横を向けば通れる幅まで開いた。
向こうは、崩れた水槽の脇だった。
浅い水路が壁際を走り、天井から落ちる滴が三度、石皿を打つ。溜まった水が皿の縁を越したあと、少し遅れて下の管が一度鳴った。
その四拍の下に、白い髪があった。
リエッタは水路から離れた壁際に倒れていた。右肩を石へ預けたまま滑り落ちたらしく、背中の荷が身体を横向きに支えている。胸元には補修布の包みが残り、その内側で淡金色が弱く明滅していた。
「リエッタ」
動かない。
アルシアは杖を置いた。右手袋を歯で引き抜き、膝をつく。左腕を使わず、右手をリエッタの額に当てた。
冷たい。
頬に擦り傷はない。後頭部にも血はなく、首の角度は保たれている。顎をわずかに上げ、口元へ耳を近づけた。
息はあった。
ひどく浅い。次が来るまでの間が長すぎる。
首筋へ指を移す。脈は細く、二度触れて一度見失った。
瞼を開き、胸元から漏れる淡金色の光への反応を確かめる。瞳孔の収縮は鈍かった。
「聞こえるか」
睫毛も動かなかった。
アルシアはリエッタの左手首を取った。流量針は下端へ貼りつくように止まり、振れがほとんどない。二人の間から厚い壁はなくなった。右手首の送り出し側は少しずつ上がっているのに、リエッタの指は温まらなかった。
アルシアは右掌をその手に重ね、意識して魔力を流した。
普段の命紬より太い流れが、触れた場所へ入る。だが、冷えきった末端で滞り、胸まで届く前に散った。脈の間隔は変わらない。
五年前、アルバスに教えられた枯渇救命の順序が浮かんだ。
呼びかけ。呼吸。脈。接触供給。
それで戻らなければ、呼吸の通り道へ直接流す。
アルシアは一度、目を閉じた。
ためらう時間は、順序の中にない。
「あとで説明する」
返事のできない相手へ告げた。許しを得たことにはならない。それでも、何をするか言わずにはいられなかった。
リエッタの旅荷を外す。肩帯に固定された転律珠の包みをいったん解き、手の届く床へ置いた。畳んだ外套を頭の下へ差し入れ、右手で顎を支えて呼吸路を開く。左肩を動かすたび視界が白くなったが、腕は身体の脇から上げなかった。
アルシアは息を吸った。
自分の魔力を、呼気に細く重ねる。
リエッタの唇に、自分の唇を重ねた。
温度はほとんどなかった。
息を渡す。肺を押し広げるほど強くせず、呼吸路に沿って魔力だけを深く通す。離れて胸の動きを見る。脈を確かめる。
まだ、遅い。
もう一度、息を渡した。
右手首の流量針が下がった。熱のこもった自分の身体から力が抜け、床がわずかに傾く。
全部を渡せばいい、という考えを切った。
二人とも倒れる量では救命にならない。脈を数え、必要な分だけ流す。
三度目に離れたとき、リエッタの喉が小さく鳴った。
浅いながらも、自分から息を吸う。
首筋の脈が、一度、次も、その次も指に触れた。
手順は、ここで終わる。
アルシアはリエッタの顎から右手を離した。
それなのに胸に浮かんだのは、呼吸が戻ったという確認ではなかった。
もう一度、自分の名を呼んでほしい。
その願いが救命の手順に混じっていたことを、否定できなかった。
名前を付ける余裕はない。付ければ、今したことまで別のものにしてしまう気がした。
「リエッタ」
声が震えた。
白い睫毛が、わずかに持ち上がった。
淡紫の瞳は焦点を結ばず、アルシアの頬のあたりを漂った。唇が動く。音にはならない。
「いる。ここにいる」
何かがリエッタの頬へ落ちた。
天井からの滴ではなかった。
アルシアは自分が泣いていることに、そのとき初めて気づいた。
袖で拭う手が間に合わない。次の一滴が鼻筋を伝い、顎から落ちた。
「生きていて」
命令にも、確認にもならなかった。
リエッタの目が、ごく浅くアルシアを捉えた。
「……アル、シア」
息に混じった後半は、ほとんど聞こえなかった。
それでも、呼ばれた。
アルシアは右手でリエッタの頬を支えた。もう魔力は流さない。自力の呼吸と脈が続くことを確かめる。流量針は下端を離れ、遅く上がり始めていた。
リエッタの瞼はまた閉じたが、今度の呼吸には同じ間隔があった。
歩ける状態ではなかった。
アルシアは防水布と荷紐で背負い帯を作った。壁に背を預けて座り、リエッタの身体を右側から少しずつ引き寄せる。左腕は腹の前から動かさず、右腕と膝で位置を直した。
転律珠の包みは、旅荷から外した補助帯でリエッタの胸元に固定し直した。回転は続いている。アルバスの研究頁は地図筒へ移し、依頼書は記録板に重ねる。工具袋とリエッタの旅荷には石粉で印を付け、水槽脇へまとめた。アルシア自身の旅荷は胸側へ回し、右肩と腰で支える。今は人一人と、失えない記録を運ぶだけで限界だった。
「先に地上へ出る。荷は人を連れて取りに戻る」
眠るリエッタへ、今度も言葉にした。
背負い帯を締める。
立ち上がった瞬間、左肩から肘まで痛みが走った。膝が折れかけ、右手の杖を床へ強く突く。
リエッタの呼吸が、耳の横へかかった。
アルシアはもう一度立った。
来た道には補修布の結び目と記録がある。分岐で迷う必要はなかった。水槽を出て、錆の剥がれた扉を抜ける。下りではなく、上層へ近づく緩い坂を選ぶ。
歩幅は小さくした。
十数歩ごとにリエッタの息を確かめ、自分の熱で視界が揺れたら壁へ寄る。背負った重みは命紬の圧迫感とは違った。肩帯が食い込み、リエッタの胸郭が動き、耳元で呼吸が鳴る。どれも、そこにいる身体が返す重さだった。
しばらく上ったところで、遠くから金属音がした。
三度。
間を置いて、二度。
水の四拍ではない。
ギルドの救難確認だった。
アルシアは足を止めた。
一人で出口まで運べるかを先に計算しかけた。左肩、熱、リエッタの呼吸、残る坂。答えを出す前に、右手の杖を配管へ打ちつけた。
三度。
間を置いて、二度。
「ここだ!」
声が石壁へ返る。
向こうの打音が、すぐ三度鳴った。
足音が近づいてくる。複数だった。先頭の灯りが曲がり角へ現れ、その下から大柄な影が身を屈めて入ってきた。
「アルシア!」
ガルドの声だった。
その後ろに、支部の調査員が二人いる。腰へ救助綱を巻き、入口から伸ばした細綱を金具へ通していた。
ガルドの最初の問いは一つだった。
「息は」
「戻った。枯渇している。供給は上がり始めた」
「お前は」
「発熱。左肩と肘。腕は上がらない」
自分で言うと、どれも隠しようのない事実になった。
アルシアは地図筒と記録板を差し出した。
「下層まで道標がある。転律珠はリエッタの胸元。研究頁は筒の中だ。旅荷と工具を水槽脇に残した。回収を頼む」
ガルドは記録を受け取り、後ろの一人へ渡した。
「位置を写して、荷を取りに行け。もう一人は先に戻って、温かい寝床と湯を用意しろ。治療具もだ」
二人が短く返事をする。
ガルドはアルシアの背負い帯を確かめた。
「リエッタは俺が担ぐ」
アルシアは答える前に、背中の呼吸を数えた。命紬に接触は要らない。ガルドへ渡しても、同じ通路にいる限り距離は開かない。
分かっている。
それでも、帯を解く右手が動かなかった。
ガルドは急かさず、代わりにアルシアの旅荷を肩へ掛けた。
「なら、お前は背負え。俺はお前を倒れさせない。選べるのはそこまでだ」
アルシアは一度、息を吐いた。
「頼む」
「最初からそう言え」
ガルドがアルシアの右側へ入り、腰の救助綱を背負い帯へ繋いだ。左腕には固定布が巻かれた。前を行く調査員が瓦礫を除け、後ろからガルドが荷重を支える。
アルシアはリエッタを背負ったまま、今度は三人で上った。
地上の光は、目に痛かった。
遺構入口の外、木々の間に調査隊の防水布が張られている。リエッタはその下の寝具に横たえられ、温めた布で手足を包まれていた。戻ってきた調査員が旅荷と工具袋を脇へ置き、転律珠と研究頁、依頼書、記録板が揃ったことをガルドと確認した。
アルシアも隣の敷物に座らされていた。
左腕は胸の前で固定され、額には新しい冷却具がある。熱はまだ下がらない。ガルドは、リエッタの流量針が戻るまでは近くにいろと言い、自分も診られる位置から動くなと付け加えた。
アルシアは従った。
リエッタの左手首では、針が本人の基準へ向かって少しずつ上がっている。深い石壁を抜け、いつもの距離へ戻っただけだ。命紬が安堵を伝えたわけではない。
それでも、呼吸は目で見えた。
胸元の布が持ち上がり、下がる。
アルシアはその回数を数えながら、いつの間にか眠っていた。
目を覚ましたのは、右手の指を弱く押されたからだった。
リエッタが目を開けている。
木漏れ日の下では、淡紫の瞳に焦点があった。
「リエッタ」
「うん」
声は掠れていたが、返事になった。
アルシアは起き上がろうとした。固定された左腕が引かれ、リエッタの指も離れかける。動きを止めると、細い指がまた右手に触れた。
「ここは、外?」
「エルドラの入口だ。ガルドたちが来た」
「そっか」
リエッタは一度目を閉じ、息を整えてから開いた。
「見つけてくれたんだね」
「物の跡を追った。お前は下層の水槽脇で倒れていた」
そこまで言って、アルシアは言葉を切った。
「呼吸が止まりかけていた。手から魔力を流しても、胸へ届く前に散った」
リエッタは黙って聞いている。
「口元から、呼気と一緒に直接流した。意識のないお前の唇に触れた」
森の音が近くなった。
葉が擦れ、誰かが湯を注いでいる。ガルドたちは聞こえない距離へ下がっていた。
アルシアはリエッタから目を逸らさなかった。
「救命に必要だと判断した。だが、事前に許可を得られなかった。触れたことは謝る」
リエッタの指が、アルシアの右手の上で少し動いた。
「教えてくれて、ありがとう」
「……それだけか」
「今はね」
リエッタは笑わなかった。
問い詰める代わりに、受け取った言葉をどこへ置くか考えているように見えた。
「少しだけ、覚えてる」
アルシアの指が固くなる。
「何を」
「あったかい息。アルシアの声。それから」
リエッタは右手を持ち上げた。途中で力が足りず、アルシアが身を寄せる。
指先が、アルシアの目の下に触れた。
「泣いてた?」
地下で拭ったはずの涙の跡を、指が確かめるようになぞった。
アルシアは答えられなかった。
義務なら、呼吸を戻す手順を説明できる。供給量も、地上へ運んだ理由も、調査隊へ助けを求めた判断も言葉にできる。
あの涙だけは、どの手順にもなかった。
「生きていてって、聞こえたよ」
リエッタの声はまだ細い。
「私、ここにいるよ。アルシア」
視界が滲んだ。
目覚めたばかりのリエッタの指へ、乾ききらない涙が一滴、落ちた。