VOLUME I CHAPTER 12
第十二章 帰る場所
五月十八日の朝、リエッタは右手の指先に残る乾いたつっぱりを感じて、目を覚ました。
防水布の継ぎ目から細い光が差している。朝の日差しが、寝具の端と、隣の敷物に落ちた深青の髪を照らしていた。
アルシアは横向きに眠っていた。左腕を胸の前で固定し、右手は毛布の外へ出している。手袋のない指が、敷物の縁でわずかに曲がっていた。
その目の下に触れたときの感触を、リエッタの指はまだ覚えていた。
涙はもう乾いている。
口元へ渡された温かい息も、途切れた声も、夢の中の出来事のように輪郭が薄い。けれど、「生きていて」だけは、工具で刻んだ線のように残っていた。
何のための接触だったかは聞いた。謝罪も受け取った。
それ以上を尋ねるには、まだ問いの形が足りなかった。
リエッタは左手首を持ち上げた。流量針は下端から離れ、普段の印へ近づいている。昨日よりは腕に力が入ったが、上体を起こすと胸の奥が空洞のように冷えた。
寝具の布が鳴る。
アルシアの目が開いた。
「横になっていろ」
掠れた声だった。
アルシアは右手を床につき、身体を起こしかけた。固定布が引かれると眉がわずかに寄る。
「アルシアも動かない」
「お前の針を見る」
「見せるから、そっちで待って」
リエッタが左手首を返すと、アルシアは途中の姿勢で止まった。銀灰の目が針の位置を確かめ、次にリエッタの呼吸を数えるように胸元へ移る。
「上がってる」
短い沈黙のあと、アルシアは敷物に身体を戻した。
リエッタは左手首を毛布の上へ戻した。指先のつっぱりが、少しだけ遠のいた。
防水布の外から、木箱を積む音がした。ガルドが幕を上げ、二人の顔と手首を順に見る。
「起きてるなら、出発の相談だ」
「歩けるよ」
「立てるのと、歩かせていいのは別だ」
「私も歩ける」
アルシアの返答に、ガルドは左腕の固定布を指した。
「お前らは同じ荷車だ。歩ける方を決める話じゃない。歩いて悪化しない奴が歩く。今日はどっちも違う」
幕の向こうに、調査用の幌付き荷車が停められていた。荷台には二人分の寝台布が敷かれ、転律珠を収めた木箱と地図筒は、揺れないよう革帯で留められている。珠は人体へ繋がれていない。箱の小窓から見える淡金色は、昨夜と同じ弱さで回っていた。
リエッタはそれを見てから、ガルドへ尋ねた。
「遺構の中は」
「入口を封鎖した。道標と記録は残してある。深部へ戻るのは、お前らの報告を全部聞いてからだ」
「守護者と台座は、そのまま?」
「そのままだ。壊れた防護具もな」
持ち帰るものと、残すものが分かれている。
リエッタは頷いた。
荷車へ移るとき、アルシアの右手袋が旅荷の外紐に挟まれているのが見えた。リエッタが視線を止めると、アルシアは先に答えた。
「回収してもらった。針を見るから、まだ着けない」
「うん」
代わりに、アルシアが荷台へ上がるまで待った。ガルドが右側から身体を支え、リエッタは自分の寝台布を少し壁際へ寄せる。向かい合って座れば、手を伸ばさなくても互いの顔が見えた。
荷車が東へ動き出した。
エルドラの外壁は木々の隙間で小さくなり、やがて見えなくなった。
帰路の最初の一日は、車輪の軋みと休息で終わった。
リエッタが眠りから戻るたび、アルシアは同じ荷台にいた。地図を開くときも、湯を受け取るときも、右手首の流量針を調査員へ見せるときも、見える場所から動かなかった。
命紬は、そこにいる理由を教えない。
五月二十日の夕方、荷車はレグナの西門へ入った。
往路で泊まった宿の看板が、同じ金具で風に揺れている。玄関の段差を上がるだけでリエッタの脚は震えたが、今度は笑って隠す前に手摺に手を置いた。
アルシアが右手を差し出す。
「借りてもいい?」
「ああ」
リエッタは自分から尋ね、その手を取った。アルシアは引き上げず、手摺と同じ高さで支えるだけにした。
帳場の係が、二人とガルドを見比べた。
「前にお使いになった、向かいの一人部屋が二つ空いています」
あの二枚の扉が、廊下の奥に見えた。
同じ灯りを細く漏らしながら、間に人一人分の廊下を置く扉。
アルシアの指が、リエッタの手の下でわずかに固くなった。
「二人部屋は」
帳場の係が台帳をめくる。
「寝台が二つの部屋でしたら、一つございます」
「そこを」
言いかけたアルシアが、リエッタを見た。
「体調を見る必要がある。だが、それとは別に聞く。同じ部屋でいいか」
リエッタは、廊下の奥の二枚の扉から目を戻した。
「うん。同じ部屋がいい」
アルシアの肩が、ごくわずかに下がった。負傷していない右側だけの、小さな動きだった。
ガルドは何も言わず、帳場の係に二人部屋と自分たちの部屋を頼んだ。
二人部屋には、本当に寝台が二つあった。
アルシアは入口と窓を確かめたあと、扉に近い方へ自分の旅荷を置いた。リエッタの寝台との間には小卓が一つあり、流量針も呼吸も、起き上がれば互いに見える距離だった。
「今日は寝台で寝てね」
「ああ」
アルシアは父の杖を壁に立て、固定した左腕を庇いながら寝台に腰を下ろした。
「夜中に苦しくなったら起こせ」
「アルシアも、熱が上がったら起こして」
「分かった」
「先に確認。起こされるの、嫌じゃない?」
アルシアは一度だけ瞬いた。
「嫌なら同じ部屋を選ばない」
リエッタは答えの代わりに毛布を引き上げた。
窓の外で、宿場の灯りが一つずつ消えていく。向かいの寝台からは、しばらく衣擦れの音がした。やがてそれも止まり、規則正しい呼吸だけが残った。
リエッタは右手の指先を毛布の上へ出した。
涙は乾けば跡を失う。だからといって、落ちなかったことにはならない。
同じように、救命だった接触に別の答えを急いで足す必要もなかった。
アルシアが泣いた。
今は、その事実だけでよかった。
リエッタは目を閉じた。
夜の途中で一度目を覚ましたときも、向かいの寝台には深青の髪があった。
五月二十四日の昼過ぎ、リュネ郊外の家は、出発した朝と同じ場所に立っていた。
門の蝶番は少し重くなり、花壇に埋めた素焼き壺の水は底近くまで減っていた。それでも土は完全には乾かず、若い葉が二枚、風に揺れている。
アルシアは門を開けたところで足を止めた。
リエッタが先に庭へ入るまで、脇へ寄って待った。
「帰ってきたね」
「ああ」
短い返事は、旅の前と同じだった。
けれどアルシアは母屋へ先回りせず、リエッタの歩幅に合わせた。左腕の固定布はまだ外れていない。熱は二日前から上がっていないが、肩を動かせば痛みが残る。リエッタの流量針は普段の印へ戻っても、長く歩けば脚が重くなった。
玄関には、ガルドと調査員が運んだ荷が並べられた。
転律珠の木箱。地図筒。依頼書と記録板。工具袋。アルバスの杖。
出発の朝には二人分の旅荷の間にあった杖が、今は持ち帰ったものの隣に立っている。
ガルドが依頼書に仮の帰還印を押した。
「正式な報告は明日でいい。今日は負傷と回収物の確認までだ」
ガルドは自分の地図筒から、縁の擦れた調査紙を一枚出した。
「それと、約束していた元の調査紙だ。依頼書と照合した。星の透かしはこっちにもある。支部が依頼書へ足した印じゃない」
リエッタは二枚を光に透かした。角度も、短い欠けも同じだった。
「元の調査紙に入った経緯は?」
「記録がない。分かるのは、俺たちの支部印ではないことまでだ」
分からない線が、帰ってきても一本残った。
「転律珠の状態だけ見たい」
リエッタが言うと、ガルドは木箱に手を置いた。
「保管前の安全確認か」
「うん。移動中も回ってた。入力がないように見えるのに、止まらない原因を切り分けたい。それと、研究頁の切り抜き」
「長引かせないなら立ち会う。第一調査権は支部にある」
「分かってる」
アルシアがリエッタの顔を見た。
「先に休めるか」
以前なら、休めと言われたことへ笑って頷き、工房へ隠れていただろう。
「一度休む。食べて、日が傾いてから。確認は短くする」
「短いは基準にならない」
「じゃあ、感知板が三つ目の刻みまで光ったら止める。私の針が普段の印から下がっても止める。アルシアの熱が戻っても止める」
「私も入るのか」
「立ち会うなら」
ガルドが低く笑った。
「三人とも止める権利を持て。それならいい」
リエッタは頷き、木箱の封を切らずに母屋へ入った。
家の中には、閉め切った木と乾いた香草の匂いが残っていた。食卓の三つ目の椅子も、食器棚の青縁の杯も、出発した場所から動いていない。
アルシアは窓へ向かいかけ、途中で止まった。
「何からする」
「窓を開けて、そのあと食べる。二人でできるところまで」
「分かった」
リエッタが手前の留め具を外し、アルシアが右手で奥の窓を押した。
風が家の中を通った。
日が沈む前、工房の作業台の中央には、検査対象が三つだけ置かれていた。
転律珠。アルバスの研究頁。リエッタの感知板。
工具は必要なものだけを右側へ並べ、残りは革箱へ戻した。ガルドは入口脇で記録板を持ち、アルシアは作業台の向かいに立っている。左腕は固定したままだ。
リエッタは木箱の封を切った。
補修布を開くと、掌大の珠が淡金色を返した。遺構の水路から離れて何日も経つのに、内側の二つ星はまだ別々の速さで巡っている。
「蓄えていた分だけで動いてるなら、減り方が遅すぎる」
「入力があるのか」
アルシアの問いに、リエッタは珠に触れず、四方から感知板をかざした。
「移動中に箱の外から測った範囲では、外部魔力の流入はなかった。熱かな。荷車の揺れもあった。小さい入力を拾い続けてる可能性はある」
「止めるか」
「止めずに、何に反応するかだけ見る」
リエッタは球形部品を支える三点架台を作業棚から出した。三本の真鍮脚に布を巻き、珠が転がらない深さに調整する。右側の小輪には手回しの柄があり、回せば珠の外周にごく弱い動きだけを渡せる。
「人体には繋がない。導晶にも蓄えない。回転を一度だけ足して、感知板の刻みを見る」
ガルドが記録板に条件を書いた。
アルシアは右手首の流量針が見えるよう、袖を折った。
「始めるよ」
リエッタが柄を半周させる。
珠の外周が遅れて回り、内側の二つ星の片方が強く光った。感知板は一つ目の刻みだけを灯す。
手を離すと、光は弱くなった。
「動きは入力になる」
「遺構の水圧より小さい分、出力も小さい」
「うん。無限に作ってるわけじゃない」
リエッタは次に、研究頁を地図筒から出した。
乾いた紙の中央に、星形の切り抜きがある。遺構の壁面星形とは外周が合わず、依頼書の透かしより線が長い。何度重ねても答えにならなかった形だった。
作業台の固定枠に頁を挟み、珠と白い壁の間に立てる。
「アルシア、枠の右を押さえて。左腕は使わないで」
「右だけで足りる」
「ガルドさん、光が二つ目を越えたら止めて」
「三つ目じゃなかったのか」
「紙が反応するか分からないから、一つ下げる」
ガルドが頷いた。
リエッタは柄に指を掛けた。
珠にわずかな回転を渡す。淡金色の光が頁を照らし、星形の切り抜きを抜けて壁に映った。
角度が違う。
一度戻し、架台の脚を一目盛りだけ縮める。今度は星の上端が合ったが、短い欠けが逆を向いた。
「珠を回すんじゃなくて、紙の方」
リエッタは固定枠をゆっくり傾けた。
切り抜きの縁と、内側を巡る一つ目の星が重なる。
短い欠けまで、隙間なく合った。
紙の中で、見えなかった細線が淡く光った。
一本ではなかった。切り抜きの星から頁の余白に伸び、途中で折れ、もう一つの星の輪郭を作る。アルバスが切り抜いたのは、片方だけだった。残り半分は、転律珠の光がなければ見えないよう封じられていた。
感知板の二つ目の刻みが灯る。
「止める」
リエッタは柄から手を離した。
回転を足す力は消えた。それでも頁の細線だけは、しばらく光を保った。
かすかな雑音がした。
金属が擦れる音ではない。古い導晶に息を吹き込んだときのような、短い震えだった。
アルシアの右手が固定枠から離れない。
雑音の奥で、声がした。
『リエッタ。アルシア』
固定枠に掛けたリエッタの指が滑り、調整ねじが床へ落ちた。
転がり出す前に、ガルドが靴先で止めた。
忘れるはずのない声だった。
五年前より少し掠れ、記録の向こうで遠くなっていても、作業を覗き込むときの穏やかな間が残っている。
『これを開いたなら、二つの星を追ってほしい』
音が一度途切れた。
アルシアの呼吸が止まり、また戻る。
『これは命を縛るための術ではない』
リエッタは作業台の縁を掴んだ。
問いがいくつも浮かび、どれも声には追いつかなかった。
『続きは、オルフェンの大書庫に――』
そこで記録は切れた。
工房に、珠の細い回転音だけが残る。
「お父さん」
呼んでも、頁は答えなかった。
アルシアは固定枠から右手を離し、作業台の上に置いた。リエッタの手には触れない。けれど、指を伸ばせば届くところにあった。
「どの術のことだ」
「分からない」
リエッタは声の消えた頁を見た。
「命紬かもしれない。双星紋の仕組みかもしれない。でも、私たちが知ってる片結びだけを答えにしたら、たぶん間違う」
「オルフェンに続きがある」
「うん」
リエッタは感知板の余白に「不明」と記し、声が切れた位置に疑問符を付けた。
今度は、その先に場所があった。
頁の光が、もう一度強くなる。
切り抜きの下に、重なった二つ星が投影された。そのさらに下に、細い線で囲まれた古い記号が現れる。
ガルドの左手が止まった。
「知ってるの?」
「古い王家の保管印だ。封を切らずに運ぶ文書へ使われていた。支部印じゃない理由は、これか」
「どうして依頼書に」
「それはまだ分からん」
ガルドは答えを増やさず、記号の形を記録板に写した。
王家。
その言葉はリエッタの中のどの歯車にも噛み合わなかった。だから今は、形だけを記録する。
記号の下には座標列があった。古代文字ではなく、アルバスが研究帳で使っていた星路の表記だ。リエッタは工房の壁地図へ目を移し、経線と星路の交点を順に追った。
一つ目は、学術都市オルフェン。
さらに細かい補助印が、その中心にある大書庫を示している。
そこから、もう一本の線が壁地図を横切っていた。
王都アステラを示す印へ向かう線だった。
転律珠の二つ星が、同時に一度だけ明滅した。
同じ夜、王都アステラの宮廷地下で、長く消えていた観測環の一点が淡紫に灯った。
環に沿って細い光が走り、封じられた記録板に新しい一筋を焼き付ける。
夜番の記録係は時刻と光の位置だけを書き留め、警報鐘の紐を引いた。
低い鐘が一度、石の廊下を渡った。
リュネの工房では、淡金色の投影がまだ壁に残っていた。
宮廷で鳴った鐘を、リエッタたちは知らない。
リエッタはオルフェンの座標に指を置いた。
「行きたい」
アルシアがリエッタを見る。
「一人で決めるな」
「じゃあ、聞くね」
リエッタは作業台から両手を離した。
「アルシアは、どうしたい?」
銀灰の目が、壁の座標とアルバスの研究頁を見て、リエッタへ戻った。
「一緒に行く」
ガルドが記録板を閉じる。
「行く話は、二人とも治って、報告を終えてからだ」
「うん」
「分かった」
二つの返事が重なった。
暗い工房の壁に、二つの星と、王都へ伸びる一本の線が浮かんでいた。