VOLUME II CHAPTER 05
第五章 名もない王女
屋上温室の散水弁は、七拍ごとに一滴ずつ水を落としていた。
六拍までは管の先で膨らみ、七拍目に葉の縁へ落ちる。そこから細い葉脈を伝い、鉢の土へ吸われていく。
リエッタは三度数えて、どれも同じだと確かめた。
午前の二つ目の鐘は、まだ鳴っていない。
硝子屋根の向こうには薄い雲がかかっていた。温室の中は外より暖かく、濡れた土と柑橘の葉の匂いがする。南塔の階段を上り切った場所にノエルが立ち、反対側の壁には荷上げ機の鉄籠が止まっていた。
「階段、荷上げ機ともに異常はありません」
ノエルはアルシアへ言った。今日は剣を帯びている。アルシアも、昨日受付から返却された杖を右手に持っていた。二人は互いの武器ではなく、確認を終えた出入口へ一度ずつ目を向けた。
サラは温室の中央から離れた作業卓に、薄い記録板を置いている。
その向かいに、紫髪の女がいた。
濃灰の外套は昨日と同じだったが、今日は留め具を喉元まで閉じていない。その下に淡い色の服が見える。刺繍も宝石もない。けれど、誰かに見られるためではなく、着崩れないために整えられた襟だった。
リエッタは自分の両手を見た。
工具は持っていない。指先に残る火傷と硬い皮膚だけが、いつもの手だった。左手首の流量針は朝の位置で止まっている。上着の内側には家の鍵がある。
隣でアルシアの杖の石突きが床を離れた。催促ではない。左肩を高く上げず、リエッタが歩き出せるだけの場所を空けた動きだった。
リエッタは散水弁から目を上げた。
「おはよう。同じ頁を求めた人」
紫髪の女の眉が、ほんの少し動いた。
「おはようございます」
昨日、途中で失われた声が、今日は最後まで形を保った。
「ユリアナと申します。レヴェリア王国の王太女です」
温室のどこかで、水滴が土へ落ちた。
リエッタは七まで数え損ねた。
王太女。市場の触媒価格とは違って、聞き間違えてももう一度たずねにくい言葉だった。宮廷の六人がユリアナへ言い返せなかった理由も、ノエルが紋章を外していた理由も、一つの歯車に噛み合う。
噛み合っただけで、動く向きまでは分からない。
「昨日は、言わなかったんだね」
「言えば、あなたは私の話ではなく、称号に返事をしなければならなくなると思いました」
「今日は?」
「隠したまま話せる内容ではありません」
ユリアナは卓上の細長い文書箱へ手を置いた。蓋には宮廷の環状印が押され、左右を紐で留めてある。昨日の部隊が掲げた封筒と同じ印だが、蝋の色が違った。
「私には、双子の妹がいました」
過去形が先に置かれた。
リエッタは、文書箱を見たまま聞いた。
「いました、というのは?」
「出生直後に亡くなったと記録されています。名を登録される前に」
ユリアナが紐を解いた。中から出した紙は一枚だけだった。原本ではない。薄い保護紙の上へ、古い記録の文字と印を写し取ってある。
上部に新暦三百年。王妃エレノア、双生の女児を出産。第一女の欄にはユリアナの名があり、その下の第二女は空欄だった。空欄の右へ、同日死亡の文字が並んでいる。
リエッタは紙へ手を伸ばさなかった。
「これは写しだね」
「はい。原本は昨日の出生台帳です」
「だったら、これだけでは決められない」
ユリアナの指が、紙の端から離れた。
「顔も、髪も、瞳も、転律珠も、扉の手形も」
「似ているものは、似ているっていう証拠にしかならないよ。あの珠が何へ反応したのか、私たちは知らない。手形も同じ」
言葉を重ねるほど、いつもの調子へ戻れそうだった。
戻る前に、リエッタは息を止めた。
笑って話を丸くするのは、今する作業ではない。
「日付を見たい」
声が短くなった。
「写しじゃなく、台帳の記入日。それから、王妃エレノア本人の筆跡と比べたい。名前だけなら書記が書けるから。もう一つ」
リエッタは空欄の下にある小さな印影を指した。
「これがアルバスの受領印だというなら、印譜の原寸と照合する。欠けも、押した向きも」
ユリアナはすぐには答えなかった。
拒まれた時のために用意していた言葉を、どこかへ戻すような間だった。
「分かりました」
「私がその子だって、まだ言わないで」
「私は、そのためにここへ来ました」
「ユリアナがそう思ってることと、記録がそう言ってることは分けたいんだ」
初めて呼んだ名は、思ったより口に残らなかった。
ユリアナは瞼を伏せ、もう一度「分かりました」と答えた。
サラが記録板を持ち上げた。
「照合資料は用意してあるわ。昨日の異常開扉を記録している間に、関連する印譜と宮廷の人員簿も請求した。ただし、閉架室へ持ち込めるのは登録したものだけ。温室から直接、紙を抱えて入るのは禁止よ」
「この写しも?」
ユリアナが聞いた。
「もちろん。王太女でも、紙の黴は避けてくれない」
ノエルの口元が動きかけたが、声にはならなかった。
サラは構わず階段へ向かった。
「受付からやり直す。今度は誰も途中で資料を運ぶと言い出さないで」
閉架塔の受付で、手続きは一つも省かれなかった。
アルシアは杖と防水筒、地図筒を昨日と同じ台へ置いた。ノエルも剣帯を外し、柄を受付の書庫員へ向けないよう両手で預けた。ユリアナの文書箱は蓋を開けたまま記録され、写し一枚に新しい持込札が付けられた。
リエッタは、低い車台の封紙を確認した。
転律珠は昨日の木枠と厚い布に包まれたまま、保全用の車輪止めに固定されている。封紙にはリエッタとサラ、閉架書庫員の印が並び、どれも切れていない。今日は比較に使わないため、車台ごと隣の保全室へ移された。
出生台帳は閲覧室の机に残っていた。
昨日、二つの手形を浮かべた石板には、白い保全布が掛けられている。通常の指輪印で外側の錠を開けたあと、書庫員が扉を内側へ開いた。新しい手形は出なかった。
「昨日の開扉後、内閂を閉じない保全手順へ切り替えたの」
サラが言った。
「二人を鍵の代わりにはしないわ。理由が分からない間は特にね」
室内へ入ったのは、リエッタ、アルシア、ユリアナ、ノエル、サラだった。書庫員は扉の外で入退室簿を持つ。
机の周りに椅子が四つ置かれていた。
サラだけが立ち、保存布の紐へ薄い木片を差し込む。結び目を傷めず緩め、布の四隅を順に開いた。
台帳の表紙は、思っていたより薄かった。
濃茶の革は乾き、角だけが丸く擦れている。背には後年の補修糸が通されていたが、昨日見た公開索引のような新しい色ではない。何度も開かれ、同じ場所で伏せられてきた本の傷み方だった。
サラは頁の縁へ指を触れず、薄いへらで新暦三百年の札まで送った。
紙が一枚ずつ持ち上がるたび、乾いた音がした。
目的の頁には、温室で見た写しと同じ配置で文字が並んでいた。
王妃エレノア、双生の女児を出産。
第一女、ユリアナ。
第二女の名欄は空いている。
紙を漉いた時の繊維が、その空白だけよく見えた。削った跡も、別の紙を貼った跡もない。初めから何も書かれなかった欄だった。
その右へ、同日死亡。
リエッタは頁の上端と、ユリアナの写しを見比べた。
「日付は同じ」
「出生の時刻欄も一致してるわ」
サラが二つの記録板へ時刻を書き移した。声にして読み上げることはしなかった。
リエッタは死亡の文字を見た。
自分はここにいる。
だから、その四文字は自分ではない。そう切り離すことは簡単だった。けれど、空欄の横に押された小さな印は、アルバスが研究頁の端へ残した印に似ていた。
「似ている」で止める。
「印譜を」
サラが別の薄冊子を開いた。
宮廷魔法士の印を年代順に写したものだった。アルバスの名の下に、円の中へ三本の短い線が入った印がある。左下の線は先端がわずかに欠けていた。
台帳の印にも、同じ形の欠けがある。ただし印影全体の向きが逆で、印譜では左下、台帳では右上にあった。
「別の印?」
ユリアナが身を寄せた。
リエッタは首を振った。
「押した向きが逆なんだよ」
薄い比較板を台帳に重ねず、空中で半回転させる。三本の線と欠けが揃った。台帳の印影は円の手前側だけが濃く、向こう側の輪郭が細く外へ流れている。
「この紙を置いた人から見て、向こう側に立って押してる。たぶん、抱えていたものを机に置かずに」
「そこまで分かるの」
「真っすぐ押すなら、印の柄を手の内側へ倒す癖がある。これは向こう側へ逃げてる。片手が塞がっていたか、急いでいたか。どっちかまでは分からないけど」
サラが印譜の次に、細い受渡簿を出した。
同じ日付の欄に、王妃私物一式、宮廷魔法士アルバス受領、とある。品目の内訳は別紙とされ、その別紙は綴じられていなかった。受領欄の印は、今度は正しい向きだった。
「品目がないね」
「欠けたのか、最初から別に保管したのかは未確認」
「分かるのは、アルバス先生が同じ日に王妃から何かを受け取ったことだけ」
「その日、辞職しています」
ユリアナが言った。
ノエルが扉際から人員簿を机へ運んだ。武器を預けた手は、冊子の角だけを支えている。
サラが該当頁を開くと、アルバスの名の横に辞職の二字があった。日付は出生台帳と同じ。理由欄には「本人の申し出」とだけ記されている。
「王妃が出産した日に、出生記録に印を残して、私物を受け取って、職を辞めた」
リエッタは順に並べた。
「それから西へ行って、アルシアと暮らした」
アルシアの呼吸が一度深くなった。
リエッタはそちらを見なかった。見れば、自分の知らない父の十八年前と、二人で知っている五年前が、一度に相手の顔へ乗ってしまいそうだった。
「筆跡は?」
サラが、最後の保護箱を開けた。
中には王妃エレノアが大書庫へ送った閲覧許可状が三通あった。どれも公的な文面は書記の整った字で、末尾にだけ王妃本人の短い追記がある。
出生台帳の頁にも、同じ色の薄い墨で一行が加えられていた。
第二女の名欄は空欄のままにすること。
リエッタは許可状と台帳の字を交互に見た。
王妃の「名」は、縦の線を最後にわずかに戻す。「空」は上の点が右へ寄り、下の二本が揃わない。文字の形だけなら真似られる。けれど、筆を置く強さまで、三通の許可状と台帳で一致していた。
「同じ手だと思う」
口に出すと、温室で見た写しより重くなった。
「サラは?」
「筆跡鑑定として記録するなら、紙と墨の年代検査も要る。でも、現時点の比較所見は一致。追記だけを後から加えた痕も見えない」
日付。王妃の筆跡。アルバスの受領印。
三つは同じ頁の周りで噛み合った。
それでも、最後の軸がない。
「この記録で分かるのは、名のない第二女が同じ日に死んだと記録され、その日にお父さんが王妃から何かを受け取って辞めたこと」
リエッタは空欄へ指を近づけ、触れる前に止めた。
「その子が生きていたとしても、私だと繋ぐ記録はまだないよ」
「私には、あります」
「母から、妹は生きている可能性があると聞きました。長く確かめられなかった。昨日、あなたを見て、私は」
「それは、ユリアナの証言だね」
「私を信用できない?」
リエッタは、すぐに頷くことも首を振ることもしなかった。
「まだ、知らないから」
ユリアナの右手が、外套の脇で閉じた。昨日と同じように、小指が掌へ入ったかは机に隠れて見えない。
「でも、嘘だって決めるつもりもない。だから、記録を見てる」
閉じた手が、少しずつほどけた。
「あなたは、王家の第二王女です」
「そう呼ばないで」
リエッタの声は、自分でも驚くほど早く出た。
「名前がないから、王女って呼ぶの?」
頁の空欄は白いままだった。そこへ何を入れても、紙は拒まない。王女でも、妹でも、死者でも、あとから書ける。
けれど、リエッタという名はこの紙から出てきたものではなかった。
アルバスが呼び、アルシアが呼び、リュネの人たちが呼んできた。工房の注文札にも、修理を返した箱にも、自分の手で何度も書いた。
「今はリエッタ」
ユリアナの唇がわずかに開いた。
言い返す言葉はあったのだと思う。王家の記録、法、守る責任。昨日から聞いた言葉を、ユリアナならきちんと順に並べて返せたはずだ。
それでも、彼女は息を一度入れ直した。
「分かりました、リエッタ」
初めてその声で呼ばれた名は、空欄へは落ちなかった。
「妹と呼ぶのも、待ってください」
「分かりました」
今度の返事には、言い直す前の硬さが残った。
サラが記録板へ線を引いた。
「今日はここまでにしましょう。頁を開いていられる時間を越える。比較所見の写しは、全員の確認印を取ってから作るわ」
ノエルが扉を開けるため、外の書庫員へ合図した。
アルシアが机から一歩下がった。
「私は外で待つ」
リエッタは顔を上げた。
アルシアの右手は空いている。杖は受付にあり、袖口の留め具に触れようとした指だけが、途中で止まっていた。
「なぜ?」
「王家の記録と、家族の話だ」
短い答えだった。
自分はそこに含まれないと、アルシアは言わなかった。
言わなくても、扉へ向けた足が同じことをしていた。
リエッタは椅子から立った。脚の奥に重さが来るより先に、机の角を回る。
アルシアの濃紺の袖を掴んだ。
布の下で腕が止まった。
「いて」
アルシアが振り返る。
「私が、アルシアと一緒に来るって言ったんだよ」
「だが」
「今の話から、私の今を外さないで」
指に力が入った。袖の布が細く折れる。
アルシアは、リエッタの手を外さなかった。
「分かった」
ユリアナは二人の手元を見ていた。
何かを尋ねるように唇を開き、結局、言葉にはしなかった。
サラが頁の上へ薄い保護紙を戻す。
リエッタの指はアルシアの袖を掴んだまま、出生台帳の頁だけが閉じられた。