笑わない魔女と、笑顔絶えぬ魔道具師
第二巻19 / 24

VOLUME II CHAPTER 07

第七章 姉という他人

警鐘のあと、四人は東の大通りを使わなかった。

ノエルが先に北の路地を確かめ、ユリアナを通し、その後ろをリエッタとアルシアが歩いた。祭りの客が広場から押し出されるたび、アルシアはリエッタを壁際へ寄せたが、腕を掴まなかった。水灯の消えた狭い通用門を一人ずつ抜ける時、重ねていた手はそこで離れた。

宮廷部隊は東門近くに留まった。ノエルが確認してきたのは、王都から後続の文書が来るということだけだった。誰を迎えに来たのか。何を持ち帰るのか。封のある命令は、一日待っても大書庫へ届かなかった。

六月十七日の朝、ユリアナは待つことをやめた。

「今度は、私が持っているものを全部見せます」

サラの研究室で、細長い文書箱が机の中央へ置かれた。ノエルが、その隣へ平たい黒革の箱を置く。

窓は開いていた。祭りに使われていた水が、外の石溝を平常の速さで流れている。机の端には、サラが作った比較所見の下書きがあり、王妃の筆跡、アルバスの印影、出生台帳の日付が別々の列へ収められていた。

リエッタは椅子に座らず、文書箱の留め紐を見た。

文書箱の宮廷環状印は割れていた。前に閉架塔へ持ち込まれた時、開封済みとして登録されたものだ。新しく切られた跡はなく、中にあるのも登録された出生記録の写し一枚だけだった。

ユリアナは黒革の箱へ手を置いた。

「これは閉架塔へ持ち込まなかったものです。台帳が一致するまでは、母の記録を人前へ出さないと決めていました」

「隠していたことも含めて、見てください」

黒革の箱から、四つ折りの紙と薄い銀板が出てきた。

銀板には、角度の違う二つの星形の穴があった。片方の先だけが短い。

「母から、この読み板の使い方を教えられました」

ユリアナは銀板へ手を伸ばしかけ、止めた。

「あなたが確かめますか」

「うん」

リエッタは指先の油を布で拭いた。サラが紙の下へ保護板を入れ、四隅へ小さな文鎮を置く。アルシアは机の左端に立ったまま、書簡にも銀板にも触れなかった。ノエルは閉じた扉の前にいる。

紙の表には、鏡台、衣装箱、薬箱と、王妃の私物らしい品名が並んでいた。文章ではなく受渡しの覚え書きに見える。けれど、行の間隔が揃っていない。狭い行と広い行が交互にあり、文字の一部だけ、筆圧がわずかに強かった。

リエッタは銀板を紙の上へ置いた。

星形の穴は文字と噛み合わなかった。

「向きが違う」

板を半回転させる。まだ合わない。短い星の先を、紙の右下にある針ほどの点へ重ねると、板の縁が二本の折り目にぴたりと沿った。

穴の中に、離れていた文字が一つずつ現れた。

リエッタは穴に現れた文字を声に出さずに追った。読み終えるたび、板を浮かせず、縁の溝を折り目に一つずつ合わせてずらす。サラは手順を記録し、その記録だけを見て二度目を再現した。ユリアナは触れなかった。

二度読んでも、言葉は変わらなかった。

――アルバスへ。第二女は死んでいません。名は台帳に記さず、リエッタと呼んでください。宮廷の役目ではなく、一人の子として西へ。母として、あの子をあなたに託します。

最後の一行だけは、板を外しても読めた。

――第二の印は、本人が自ら名乗る日まで、私の箱に残します。

研究室の水音が急に大きくなった気がした。

リエッタは板を外し、紙の裏を見た。折り目をまたいで、小さな印影がある。昨日まで比較所見の下書きで何度も見た、アルバスの印だった。その横の短い文も、研究頁で知っている筆跡に似ていた。

受け取りました。命令ではなく、頼みとして。

「同じ文面を二通作り、これは母の側に残した控えです」

ユリアナが言った。

「一通はアルバスが持って宮廷を出た。母は、私物の受渡し記録に紛れさせたと話しました」

サラは筆跡見本を横へ寄せた。角の丸い字、下へ長く引く線、印を押す時に右へ傾ける癖が、書簡と見本で一致している。

「紙と墨の年代検査は別にする。でも、今ここで再現できた読み順、エレノア王妃の筆跡、アルバス先生の受領印は、閉架の記録と矛盾しない」

サラは眼鏡を押し上げた。

「名欄が空白の第二女と、アルバス先生が育てたリエッタを、名前で繋ぐ記録になる。外見や遺物の反応に頼らずにね」

リエッタは書簡の「リエッタ」という文字を見た。

アルバスに呼ばれた名だった。五年前まで紫色だった髪も、今の白い髪も、その名とともにあった。工房の扉に掛けた札にも、修理報告の署名にも使ってきた。

空欄のために新しい名を入れる必要はなかった。

「私なんだ」

声は思ったより小さかった。

「あの台帳の、名前がない方」

アルシアの靴底が床を擦り、止まった。

ユリアナは両手を膝の上で組み、リエッタを見ていた。

「そうです」

王太女の言い方だった。崩さないために整えた声にも聞こえた。

黒革の箱の底には、小さな布包みが残っていた。ユリアナが紐を解くと、銀色の印章が一つ現れた。持ち手の先に、環に囲まれた二つ星の家紋が刻まれている。

「母が、第二女のために作らせたものです」

リエッタは手を出さなかった。

印章より先に、ユリアナの手を見た。両手の指が、ほどけないように強く組まれていた。

「リエッタ」

「うん」

「戻ってきて」

どこへ、とは聞かなかった。

紫の髪を隠さず歩ける王宮。リエッタのために用意されたかもしれない部屋。生まれた日の記録があり、同じ顔の姉が待っていた場所。

どれも、リエッタの帰ったことがない場所だった。

「私の家はリュネだよ」

ユリアナの指がほどけた。

「王家の子ではないと、言うのですか。今、確かめたでしょう」

「確かめたよ」

リエッタは書簡を指した。

「生まれた場所のことは、これで分かった。でも、家は別だよ。私が鍵を掛けて出てきた家は、リュネにある」

腰の小袋の中で、その鍵の角が指に触れた。

「工房も、依頼を待たせてる道具もある。私を育てた人の墓もある。戻るって言葉で、それを過去のものにしないで」

ユリアナは返事をしなかった。

机の端で、サラが記録用のペンを置いた。

「中庭を使って。書簡はここで預かる。風に持っていかれたら、私が先に怒るから」

書庫の中庭には、四角い石卓が一つあった。

周囲を回廊に囲まれ、外の通りからは見えない。祭りの水灯を吊った細い紐だけが軒下に残り、風に揺れていた。アルシアとノエルは回廊の入口で止まった。近すぎず、声を張らなくても呼べる距離だった。

リエッタは石卓の片側に座った。ユリアナは向かいではなく、右隣の辺を選んだ。近づけば手が届く。けれど、手を伸ばさなければ触れない場所だった。

布包みの印章は、二人の間に置かれた。

「家を捨てろと言いたいわけではありません」

ユリアナが先に言った。

「けれど、王都に来てほしい。宮廷であなたの立場を確かにして、守れるようにしたい」

「守るために、住む場所も決めるの?」

「決めるつもりは――」

言葉が切れた。

祭りへ来た宮廷部隊の目的は、まだ文書になっていない。前日にサラが見せた法文では、出生だけで宮廷居住を強制されない。ユリアナもそう言った。けれど「守る」と「連れていく」の境目を、リエッタはまだ見せてもらっていなかった。

「私は十八年、妹が死んだと思っていた」

ユリアナの声から、整えられた響きが消えた。

「母から、妹は生きているかもしれないと聞かされても、どこにいるかは教えられなかった。記録を探せば消されている。やっと見つけたら、あなたは私の知らない町を家だと言う」

石卓の下で、衣擦れが鳴った。

「分かっている。あなたのせいではない。分かっていても、ここでまた待つしかないなら、私は怒る」

リエッタは、布包みの折り目を見た。

「私は今日まで姉がいると知らなかった」

ユリアナが口を閉じた。

「父さんが隠してた。王妃が私を託したことも、私がどこで生まれたかも。私は、知らなかった十八年を、今日から急に知っていたことにはできない」

「ええ」

「ユリアナが失った十八年も、なかったことにはしない」

「ええ」

二度目は、少しかすれた。

リエッタは印章に触れず、石卓のざらつきを指でなぞった。細い砂が一粒、爪の横に残る。

「怒っていいと思う」

「あなたも」

「うん。でも、それで同じ答えにしなくていい」

風が吹き、軒下の紐が石壁を一度叩いた。

ユリアナは、王太女らしく伸ばしていた背を少しだけ丸め、卓上の印章を見た。

「では、何からなら始められますか」

リエッタは考えた。

姉と呼ぶには、知っていることが少なすぎた。妹と呼ばれるには、その言葉の中へ入っていない十八年が多すぎた。

「名前から」

「名前」

「妹じゃなくて、リエッタって呼んで。私も、まだ姉さんとは呼べない」

ユリアナは一度口を閉じ、ひと呼吸置いてから頷いた。

「リエッタ」

リエッタも返した。

「ユリアナ」

「次は、父さんが何を隠したのか調べる」

リエッタは回廊にいるアルシアを見た。アルシアは壁から背を離したが、こちらへは来なかった。

「この書簡を受け取って、それでも生きている間に話さなかった理由を、父さんの記録で確かめたい」

「私が知っていることを、先に答えましょうか」

「先に答えをもらうと、記録をその形に読んじゃうかもしれない。それとは別に読みたい」

「分かりました」

ユリアナは首元の細い鎖を外した。服の内側から、もう一つの銀色の印章が滑り出る。

王太女の印だった。

それを、布包みから出した第二女の印の隣へ置く。どちらにも、環に囲まれた同じ二つ星が刻まれていた。

二つの印章のあいだには、石卓のざらついた面が指一本ぶん残っていた。

第7章 了

TABLE OF CONTENTS

公開目次

  1. 01畳まれた毛布
  2. 02持ち帰られた依頼書
  3. 03旅支度の距離
  4. 04同じ道、違う願い
  5. 05一人部屋が二つ
  6. 06白い花の髪飾り
  7. 07エルドラ遺構
  8. 08熱のある手
  9. 09守護者の部屋
  10. 10罠の光
  11. 11命の距離
  12. 12帰る場所
  13. 13父の声を宿す球
  14. 14追跡者の印
  15. 15書庫都市オルフェン
  16. 16もう一人の紫
  17. 17名もない王女
  18. 18祝祭の夜
  19. 19姉という他人
  20. 20父が隠したもの
  21. 21王家の回収命令
  22. 22離れるための嘘
  23. 23選ぶ側
  24. 24白い王女の帰路
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