VOLUME II CHAPTER 08
第八章 父が隠したもの
「父さんの記録を読みたい」
六月十八日の朝、リエッタはサラの研究室でそう言った。
サラは眼鏡の位置を直し、机の上の暗号書簡へ保護布を掛けた。
「その決定は、今初めて聞いたわ。なら、今日の申請者はあなたたち二人。私は管理者として立ち会う」
サラはすぐに地下へ案内しなかった。
三人で商隊宿へ戻り、封紙の無傷を確かめた転律珠を木枠ごと低い車台へ固定した。停止・未接続の札を付け、アルバスの杖と二本の筒も大書庫へ運んだ。
搬入口と地下書庫の受付で、同じ確認を繰り返した。
珠を止めたまま運ぶための手続きだった。アルシアは急かさなかった。父の杖の握り革に残った浅いへこみに、右手の指が合うのを感じていた。
地下へ続く石段の途中で、冷えた空気が左肩へ入り込んだ。鈍い痛みが増し、アルシアは杖を持ち直す。前を行くリエッタが振り返った。
「肩、上げてない?」
「上げてない。痛みも同じだ」
「分かった」
リエッタは足を止めず、歩幅だけを少し狭くした。
地下書庫の最奥に、石壁と同じ色の扉があった。取っ手はなく、中央に杖の太さほどの縦溝がある。その下には、角度の違う二つの星を刻んだ浅い円があった。
サラが扉脇の遮断板を下ろした。壁の三本の導線が遮断され、転律珠を置く固定台だけが円の前に残る。
「珠は人体にも導晶にも繋がない。私が外部停止を持つ。リエッタは一目盛り以上回さない。アルシアは、肩に痛みが増したら杖を抜く。開かなければ今日は終わり」
二人が頷いた。
アルシアは杖の先を縦溝へ入れた。ぴたりとはまったが、扉は動かない。
リエッタが封紙を残したまま木枠を固定台へ留め、短い手回し具を外輪へ噛ませた。ほんの一目盛り、押す。
転律珠の内側で乾いた音がした。
二つの星が別々の速さで淡く光り、扉の円へ重なる。杖の握り革の下から、細い金色の線が一本だけ走った。
サラが停止具を引いた。
珠の光は消えた。回転も止まった。そのあとで、石壁の内側から小さな閂の外れる音がした。
扉は、指二本ぶんだけ手前へ出た。
中にあったのは、一冊の本ではなかった。
薄い紙束が三つ、灰色の保存布に包まれていた。布の端に、アルバスの印がある。アルシアは杖を抜いたあとも右手から離せず、サラとリエッタが紙束を運び出す間、その場に立っていた。
地下の閲覧台で、最初の布が開かれた。
書き出しの日付は、新暦三百年。リエッタとアルシアが生まれた年だった。
――エレノア王妃の頼みを受け、第二女を宮廷の記録から外し、西へ移す。名はリエッタ。宮廷の役目ではなく、一人の子として預かる。
昨日読んだ書簡と同じ内容だった。だが、今度は父の側から書かれている。
リエッタは、父の字で書かれた自分の名をもう一度追った。
「王都へ行くかとは、別のことだよ」
「ああ」
「でも、あそこで生まれて、父さんに連れてきてもらった子は、私なんだね」
「そうだ」
リエッタは頷いた。台帳の空欄とは言わず、自分の名がある行から目を逸らさなかった。
次の頁には、辞職までの経緯が短く記されていた。
アルバスは宮廷で星路と接続術を研究し、セヴランと共同で記録を作っていた。二人は研究の扱いについて意見が一致しなくなり、アルバスは王妃の依頼を受けた同じ日に辞職して宮廷を離れた。
何に同意できなかったのかは書かれていない。
セヴランの名の横に、友人とも敵とも書かれていなかった。ただ「共同研究者」とだけあった。
アルシアは頁の余白を押さえるリエッタの指を見た。工具で硬くなった指先は、父の字に触れない位置にあった。
「父さんは、知っていたんだな」
自分の声が、近すぎる石壁からすぐに返った。
リエッタは顔を上げなかった。
「何を?」
「お前が誰かも。宮廷が何を探すかも」
それでも、毎朝同じ食卓へ座っていた。熱を出せば薬を作り、喧嘩をすれば二人の言い分を別々に聞いた。何も知らない子どもとして育てながら、父だけは全部を知っていた。
紙束の後ろに、二人の名を並べた頁があった。
――幼いうちは、知らないことが二人を守ると考えた。
その一行の下は、長く空いていた。違う日に書き足したらしく、墨の色が少し薄い。
――娘たちへ話す時期を失った。
杖の握り革が軋んだ。
アルシアは指を緩めようとした。できなかった。
「失ったんじゃない」
リエッタがこちらを見た。サラは口を挟まず、記録板へ日付と頁だけを書いている。
「父さんが、延ばしたんだ」
危険だったことは分かる。二人は子どもだった。リエッタを宮廷から隠し、アルシアも巻き込まないために黙ったのだろう。
分かる理由が一つ増えるたび、腹の底の冷たさも増した。
「私たちが知ったら耐えられないと、父さんが決めた。何を話すかも、いつ選ばせるかも、一人で決めた」
「父さんは、きっと怖かったんだよ」
リエッタの声は小さかった。
「話したせいで見つかったらって。私たちを守ろうとして――」
「守られた」
アルシアは言った。
「それは消さない。お前を育てたことも、私を育てたことも、最後に私たちを生かしたことも」
右手の中で、杖はまだ父の手の形を保っていた。
「だが、信じてはくれなかった」
リエッタの唇がわずかに開き、閉じた。
アルシアは杖を握ったまま、その目を見た。
「怒っても、愛していたことは消えない」
長い沈黙のあと、リエッタは紙から両手を離した。何かを直す時のように父の言葉へ触れることをやめ、膝の上で指を組んだ。
「うん」
笑わなかった。
「分からないことを、私が分かったことにはしない」
アルシアの怒りを宥める言葉も、父に代わる謝罪も続かなかった。
ただ、リエッタは席を立たなかった。
六月十九日は、記録の内容より紙束の作りを調べた。
三つ目の包みには、命紬と表書きされた頁が入っていた。術式の細部はなく、見出しと試験条件、保管先だけが残されている。
リエッタは頁端の綴じ穴を透かし、前後の紙を重ねた。
「破られたんじゃない。最初から二つに分けて綴じてある」
片側の穴には糸を抜いた擦れがなく、頁番号もこの束の終わりに合わせて打ち直されていた。最後の紙には、アルバスの手で一行だけ書かれている。
――後半は王都、星環織機の保管環に残す。
なぜ分けたのか。誰に読ませるつもりだったのか。答えはなかった。
アルシアはその一行を写した。王都という字を書いたところで、左肩の奥が鈍く疼いた。
「今日はここまで」
リエッタが言った。
アルシアは反射的に続けると言いかけ、筆を置いた。
「分かった」
六月二十日、三つの紙束はサラの研究室へ移された。地下書庫の持出簿、封印の再施錠、紙束ごとの受領印を三人で確認してからだった。転律珠は封紙付きの木枠のまま、研究室の遮断箱で停止している。
午後の光を低い角度から当てた時、サラの指が二つ目の紙束の端で止まった。
「これ、収蔵番号じゃない」
紙の繊維に押し込まれた、色のない印だった。正面からは見えず、斜めの光で細い枠と一連の数字だけが浮く。
サラは別の目録を持ってきた。表紙に鍵印のある、宮廷記録の形式一覧だった。頁を繰り、同じ細枠を指す。
「宮廷の秘密裁判に付ける番号よ。公開記録へ載せない審理で使われた形式」
リエッタが紙へ顔を近づけた。
「父さんが裁かれたの?」
「番号だけでは分からない。被告か、証人か、資料の提出者かも特定できない。ただ、この紙束が秘密裁判の資料として一度登録されたことは分かる」
サラは番号を書き写し、原紙には触れない位置へ比較札を置いた。
「裁判記録の保管場所は、別に探す必要がある」
机の端に立て掛けていた杖が、アルシアの右手の中にあった。
アルシアは握っていた指を一本ずつ開いた。
杖を持ち上げず、そのまま机の上へ倒した。木と天板が触れ、乾いた音が一つした。
父が死んでから、杖を机の上へ横たえたのは初めてだった。
杖は紙束の手前で止まり、転がらなかった。
アルシアは、手を戻さなかった。