VOLUME II CHAPTER 09
第九章 王家の回収命令
二枚の命令書は、同じ紙でできていた。
厚さも、透かしも、右下に押された王宮評議会の印も同じだった。一枚目の表題は第二王女保護命令。二枚目は古代遺物緊急押収命令。人と物を分けた紙が、机の上では端を揃えて置かれている。
六月二十一日の朝、リエッタはオルフェン評議館の長机の前に立ったまま、最初の一枚を読み直した。
保護対象者は、出生記録上の第二王女。別の欄には、第二鍵とある。
広域防護の安定に重大な危険が認められるため、非常事態条項に基づき王都へ移送する。本人の同意は、移送の要件としない。
行き先は王宮内の保護区画。期間と解除条件の欄は空白だった。
「お読みいただけましたか」
机の向こうで、セヴランが言った。
濃紺の正装には皺一つなかった。灰銀の髪も、白い手袋も、評議館の朝の光を冷たく返している。記録係が宮廷魔導院長の名を読み上げた時、リエッタは昨日見た父の記録を思い出していた。
共同研究者。
目の前の男と父が、どんな言葉を交わしたのかは書かれていなかった。
リエッタの隣で、アルシアが扉と窓を一度ずつ見た。左腕は身体の脇に下ろしたままだった。壁際にはノエルが立ち、その半歩前にユリアナがいる。サラは評議会へ提出した保全記録の控えを膝に置いていた。
「読んだよ」
リエッタは答えた。
「危険の内容が書いてない。移送する期間も、ここから出られる条件も」
「詳細は王都で安全にご説明します」
「安全かどうかを決める説明が、移送のあとにあるの?」
セヴランは口調を変えなかった。
「危険が切迫している時、全ての情報を公開してから対処することはできません。あなたご自身を含む、多くの方の安定を守るためです」
評議長が咳払いをし、二枚目の命令書へ目を落とした。そこには転律珠、アルバスの研究記録、関連する出生資料と書かれている。大書庫が保管する物のうち、どこまでを関連資料と数えるのかは記されていなかった。
セヴランはユリアナへ向き直った。
「王太女殿下には、命令を支持するご署名をお願いいたします。王家のお二人を安全にお迎えするためにも」
記録係が新しい筆を置いた。
ユリアナは取らなかった。
「この文面で、リエッタは『第二鍵』と呼ばれています」
公の場の声だった。水灯祭へ出る前に聞いた声より硬く、語尾が揺れない。
「何の鍵ですか」
「古い宮廷記録の区分です」
「何を開き、何を閉じる区分ですか」
「それも王都でご説明いたします」
ユリアナの視線が、空白の解除条件へ落ちた。
「私の署名は、命令の成立要件ですか」
「いいえ。ですが、円滑な保護には王家の合意が望ましい」
「でしたら、私は聴聞まで署名を保留します。何に合意するのかが明らかでなければなりません」
命令書も返さなかった。ただ、筆は白い指の前で横たわったままだった。
セヴランがリエッタを見る。
「リエッタ様。出生の記録は、すでに確認されたと伺っています」
名前のあとに付いた「様」だけが、自分から少し離れて聞こえた。
「確認した」
リエッタは一枚目を机へ戻した。
「出生記録の第二女は私です。でも、私はリュネの魔道具師、リエッタです。遺物の解析申請者でもあります」
評議館の高い天井へ、声が上がった。リエッタは続けた。
「保護される人としてじゃなく、移送される本人として聴聞を求めます。危険の内容、移送先、期間、解除条件。遺物を持っていくなら、今の状態と、誰がどう扱うのかも記録してください」
記録係の筆が遅れて動いた。
評議長は隣の評議員と小声で言葉を交わした。非常事態条項の命令をオルフェンだけで退けることはできない。だが、保管中の資料を状態確認なしで渡せば、大書庫の規則に反する。
サラが保全記録を机へ出した。
「転律珠は六月二十日から停止・未接続です。封紙付きの木枠ごと、研究室の遮断箱に置いてあります。現物確認には評議会の立会いを求めます」
セヴランの視線が、記録の表題で一度だけ止まった。
「結構です。転律珠の停止を宮廷側でも確認しましょう」
リエッタは顔を上げた。
二枚目の命令書は、遺物とぼかさず、転律珠の名まで指定していた。
大書庫の保全区画へ入ったのは、昼の鐘が鳴る前だった。
評議会の記録係が先に入室し、サラが壁の導線を一本ずつ示した。遮断箱の封紙、木枠の留め具、停止・未接続の二枚の札。リエッタが昨日確かめた時と、位置は変わっていない。
アルシアはリエッタの右後ろに立った。左肩を上げずに済む距離だった。ノエルはユリアナと宮廷の術者の間へ立ち、剣には触れず、足の向きだけを変えている。
セヴランに同行した術者が、細長い銀枠を鞄から出した。
「それは何」
リエッタが聞いた。
「遠隔停止の確認具です」
術者は答え、銀枠の内側へ薄い札を差し込んだ。
「確認なら、先に現在値を読むはずだよ」
銀枠には読み取り針がなかった。あるのは、外へ向いた三本の刻線と、命令を送るための導晶だけだった。
リエッタは遮断箱の前へ一歩出た。
「それは測る道具じゃない」
術者の親指が導晶を押した。
床の真鍮帯に、青白い線が走った。
「止めろ」
アルシアの声と、遮断板が落ちる音が重なった。
サラが壁の把手を両手で引き下ろしていた。三本の導線が機械的に遮断され、保全区画の表示針が一斉に零へ戻る。それでも青白い線は床の継ぎ目を越え、遮断箱へ半歩ぶん伸びた。
アルシアが右手を真鍮帯へ向けた。
細い霜が、伝達線だけを横切った。
冷えた金属が縮み、青白い線は箱へ届く前に途切れた。左腕は脇に残り、右の指先から出た白い息ほどの冷気だけが床へ消えていく。
ノエルが術者の手首を押さえた。銀枠が落ちかけ、革紐に吊られて揺れる。
「命令の執行を妨げるおつもりですか」
セヴランはノエルではなく、ユリアナへ言った。
「立会いの範囲を越えた操作を止めました」
ユリアナの声は、評議館にいた時と同じ高さだった。
「術者を装置から離してください」
ノエルが銀枠を導晶ごと取り上げた。術者は抵抗せず、一歩下がった。
サラは遮断板から手を離さない。
「停止中の装置へ、停止封を送りましたね」
「二重の安全措置です」
「この札には返り線がある。この札を受け入れた装置の次回起動を、発信側の認証に従わせる形です。状態確認ではなく、制御の上書きよ」
記録係が、床で消えた線と銀枠を交互に見た。
リエッタは遮断箱の横へしゃがんだ。封紙は切れていない。木枠の留め具にも動いた跡はなく、内部の二つ星は暗いままだった。耳を近づけても回転音はない。
箱の蝶番に触れた指に、黒い機械油が付いた。
「停止・未接続のまま」
リエッタは記録係に聞こえるように言った。
「今の札を受け入れてもいない。でも、停止位置も、内側の制御の形も知らなければ、この封は作れない」
立ち上がり、セヴランを見た。
「どうして知ってるの」
「転律珠は、もともと宮廷の研究記録にある遺物です」
「箱を開けてもいないのに、内側の制御まで?」
「宮廷に残された研究記録から判断しました。記録の来歴は、必要な手続きの中でお答えします」
昨日の紙束にあった名前を、リエッタは口にしなかった。
「アルバスが持ち出した記録も、今なら安全な場所へ戻せます」
安全な場所という言葉の中に、父の机も、リュネの工房も入っていなかった。
「今の操作も、安全のため?」
「不測の起動を防ぐためです。結果として損傷はありません」
「届かなかったからだよ」
リエッタは油の付いた指を布で拭った。黒い筋が布へ移ったが、爪の際には残った。
サラが評議長へ向く。
「保全責任者として、異議を記録します。押収前の無断操作がありました。現状記録と聴聞が終わるまで、引渡しには応じられません」
評議長はすぐには答えなかった。遮断箱の札を自分で確かめ、記録係が書き終えるのを待った。
「評議館へ戻る」
短く告げた。
一夜の猶予が認められたのは、午後の鐘が三つ鳴ったあとだった。
移送と押収は、翌朝の聴聞終了まで執行を留める。命令そのものは失効しない。対象者と遺物を市外へ出さないため、大書庫の出入口と周囲の通りは宮廷部隊が警備する。
評議長が読み上げた決定を、記録係が三部に写した。
ユリアナは支持欄へ署名しなかった。代わりに聴聞の立会人欄へ、自分の名を書いた。
「妹としてですか、王太女としてですか」とセヴランが尋ねた。
「王太女として、移送される本人の問いに答えがあるか確認します」
筆を置く音は小さかった。
評議館を出ると、通りの両端に濃紺の外套が並んでいた。大書庫へ向かう橋には仮の柵が置かれ、搬入口では荷車が一台ずつ止められている。朝にはなかった旗が、書庫の石壁を囲んでいた。
セヴランが階段の下でリエッタを呼び止めた。
「明日の聴聞を待たずとも、あなたが自ら同行すると決めることはできます」
アルシアがリエッタの隣で足を止めた。代わりに答える気配はなかった。
「私が行ったら、どうなるの」
「転律珠をお渡しいただければ、書庫を強制的に捜索する必要はなくなります。オルフェンの方々へ余計な負担も生じません」
セヴランは、包囲を命じた人の声で負担と言った。
「アルシアは」
「保護命令の対象ではありません。ご本人が望まれない限り、王都へ同行する義務はない」
アルシアの右手が動いた。リエッタを掴まず、外套の脇で止まった。
「返事は聴聞でする」
リエッタは言った。
「今は、何も渡さない」
セヴランは一礼し、宮廷の列へ戻った。
日が落ちる前に、六つある大書庫の出入口のうち四つが閉じられた。残る正面口と搬入口には評議会と宮廷の立会人が一人ずつ付いた。サラの研究室へ戻るまでに、リエッタたちは名と通行理由を三度書いた。
遮断箱は同じ場所にあった。
リエッタは転律珠の木枠を確かめ、工具袋から油差しを出した。昼にサラが強く引き下ろした遮断板の蝶番が鳴っていた。布で古い油を拭い、新しい油を一滴ずつ入れる。板を二度動かすと、金属音が消えた。
アルシアは研究室の扉際に立っていた。サラは評議会へ出す保全記録を書き足している。ユリアナとノエルは、聴聞へ備えて別室で命令の写しを読んでいた。
机の端に、リエッタの聴聞請求書が置かれている。
申請者の欄には、自分で書いた文字があった。
――リュネ魔道具師 リエッタ。
その下に重なって、第二王女保護命令の写しがあった。
リエッタは油差しの蓋を閉めた。指先を拭おうとして、布が遮断箱の上にあることに気づいた。
命令書の「保護」の文字へ、リエッタの指から油が一滴落ちた。
紙の繊維を伝い、黒い染みが広がった。