VOLUME II CHAPTER 10
第十章 離れるための嘘
一番細い鑢だけが、扉に残されていた。
柄に一本、斜めの傷がある。リエッタが考え込むたび、親指でなぞる鑢だった。
先端は、研究室の奥にある細い扉の留め金に差し込まれている。普段は壁と同じ色の板に隠れ、書物運搬機の裏を整備する時しか使わない扉だ。戻ろうとする金具を鑢が押さえ、指二本ぶんの隙間を残していた。
アルシアは柄に触れず、先に室内を見た。
夜の二つ目の鐘が鳴る前だった。サラは評議会用に写した保全記録を届けに出ていた。ユリアナとノエルは別室にいた。アルシアが廊下の見張りの交替を確かめ、戻るまでに百も数えていない。
リエッタはいなかった。
机にはリエッタの聴聞請求書と、第二王女保護命令の写しが残っている。「保護」の上に落ちた油は、紙に染みても黒い輪郭を失っていなかった。その横で、保全原簿の一行だけが増えていた。
――六月二十一日、夜。転律珠を封紙付き木枠のまま移動。停止、未接続。持出者、リエッタ。
行き先はない。
遮断箱の蓋は開いていた。中には木枠の形にへこんだ厚布だけがあり、封紙の切れ端も、壊された留め具もない。アルバスの杖と三つの紙束は机に残され、鍵箱にも触れた跡がなかった。
持ち出したのは、転律珠だけだ。
昼の階段下で、セヴランが告げた言葉が戻った。
自ら同行し、転律珠を渡せば、大書庫を強制捜索しない。アルシアに同行の義務はない。
右手首には流量針があった。そこにある針は命紬の流れだけを測り、向きも、場所も、相手の考えも示さない。
アルシアは見なかった。
細い鑢を留め金から抜く。扉が閉じかけたため、右足を入れて押し返した。左肩の奥に鈍い痛みが走る。左腕は上げず、右手だけで身体の通る幅を開けた。
扉の向こうは、書物運搬機の鎖に沿って上る保守通路だった。
壁の灯りは三つに一つしか点いていない。石段の埃に、小さな靴跡が続いている。隅には、厚い布から落ちたらしい糸が一本あった。
アルシアは歩幅を広げた。
命紬は使わない。冷気で足跡を浮かせることもしなかった。曲がり角では石壁に響く音を聞き、分岐では擦れた埃を見た。上から、鞄の金具が石に触れる音が一度だけ落ちてきた。
階段は屋上へ続いていた。
最後の鉄扉は、風に押されて細く鳴っている。リエッタが油を差した遮断板とは違う、乾いた音だった。
アルシアは扉を開けた。
夜の風が、髪と外套を後ろへ引いた。
大書庫の屋上は、低い石縁に囲まれていた。昼に閉じられた四つの出入口は上から見えない。代わりに、正面口へ続く橋と、通りへ並んだ宮廷部隊の灯りが見えた。濃紺の旗は色を失い、金具だけが火を返している。
リエッタは石縁の前に立っていた。
足元には厚布の鞄がある。二つの持ち手の間から、木枠の留め具を渡る封紙の端が見えた。切れていない。
リエッタは下の灯りを見て、息を吸った。
「呼ぶな」
肩が揺れた。
振り返った顔に、笑みはなかった。白髪が風に乱れ、頬へ張り付いている。
「どうして」
アルシアは細い鑢を見せた。
リエッタの視線が、柄の傷で止まる。
「お前は使った工具を置いていかない」
「扉が閉まったら、通れなかったから」
「戻る道なら、別の物を使う」
返事はなかった。
アルシアは鉄扉から三歩進んだ。リエッタにも、鞄にも手は伸ばさない。下の灯りとリエッタの間へ立てる位置で止まった。
「封紙は」
「切ってないよ。停止したまま。持ち出した時刻も、私の名前も記録に残した」
「どこへ持っていく」
「下にいる人へ渡す」
リエッタは鞄を見た。
「ここから呼んで、私が同行するって先に伝える。正面口では私だけが外へ出る。受け渡しは評議会の人にも見てもらう。そうすれば、サラの部屋を捜されなくて済む」
「朝まで待つと言った」
「待ったら、聴聞のあとに命令を執行されるかもしれない」
「今なら違うのか」
「少なくとも、私が選んだことにはできる」
風が二人の間を抜けた。
遠くで、橋の柵を動かす音がした。屋上の会話はまだ下へ届いていない。宮廷部隊の列にも動きはなかった。
「私が行けば、書庫の人たちは巻き込まれない。ユリアナも命令に逆らわなくていい。ノエルも、止める側に立たなくて済む」
「サラは、無断で持ち出された記録を書くことになる」
「私がやったって残した」
「それでサラが何も感じないと思うのか」
リエッタの口が閉じた。
「お前は人数を減らしているだけだ」
「減らせるなら、そのほうがいいよ」
「お前自身を数えていない」
「数えてる」
「私一人と、ここにいる人たちなら、一人のほうが少ない」
「私も数えていない」
「アルシアは命令の対象じゃない」
「命紬がある」
「王都には、後半の記録がある。宮廷は転律珠の中まで知ってた。解除する方法だって――」
「あると答えたのか」
リエッタは答えなかった。
セヴランは、王都で説明するとしか言っていない。期間も解除条件も空白だった。リエッタは、自分の身体と転律珠をその男に先に渡そうとしている。
「解除できたら」
リエッタの指が、鞄の持ち手に触れた。
「アルシアは自由になれる」
胸の奥で、何かが狭くなった。
五年前から何度も聞いた言葉だった。リエッタは解除試験のたびに、アルシアを自由にすると言った。アルシアも遺構の深部で、遺物を持ち帰ればリエッタを自由にできると言いかけた。
同じ言葉を、二人とも相手の前に置いてきた。
「それは、誰が決めた自由だ」
リエッタが顔を上げた。
「え」
「私が、お前に離してくれと頼んだか」
「でも、命紬がなかったら、アルシアは魔力を渡さなくていい。どこへでも行ける」
「行けることと、行きたいことは違う」
「ずっと、家にいる必要もなくなる」
「必要の話をしていない」
リエッタの指が持ち手から離れた。
アルシアは息を吸った。冷たい風が喉へ入る。短く言えば、別の意味へ逃がせない言葉だった。
「私はお前から離れたいと言ったことはない」
屋上の音が、一度遠くなった。
リエッタは目を瞬いた。笑おうとはしなかった。
「解除したら、家を出ると思ってた」
「言っていない」
「言わなかったから」
「お前も言っていない」
「何を」
「解除したあと、私に離れてほしいと」
リエッタの右手が、空中で一度閉じた。探すはずの工具は、腰の袋にある。けれど手はそこへ向かわなかった。両腕が身体の脇へ下り、空いた両手が見えた。
「私も離れたいから解除しているんじゃない」
風に消えない声だった。
アルシアは、リエッタから目を逸らさなかった。
「供給が続けば、アルシアが先に壊れるかもしれない。私が倒れたら、アルシアまで死ぬ。そんな繋がり方を終わらせたかった」
「私もだ」
「でも、終わったら、アルシアはやっと行けるって」
「私は、お前が私から離れられるように研究していると思っていた」
「違うよ」
「聞かなかった」
「私も」
下の宮廷部隊は、二つの返事を待たず、同じ場所で橋を塞いでいた。命令書もまだ有効だった。
リエッタは石縁から一歩下がった。
「解除、って書き方が違ったのかもしれない」
「何がだ」
「私たちを離す方法、ってずっと考えてた。でも、切ることだけを目的にしたら、離れるほうを先に決めることになる」
リエッタは左手首の流量針を見た。針は命の流れを示している。望みまでは示さない。
「繋ぐか、離れるか。私たちが選べる状態にする」
言葉を確かめるように、一息置いた。
「研究の目的を、そう書き直したい」
「私たちが、か」
「うん。私がアルシアを自由にしてあげるんじゃなくて、アルシアが選べるように。私も選べるように」
アルシアは頷いた。
「なら、今の選択も一人でするな」
リエッタは下の灯りを見た。
「戻っても、朝には連れていかれるかもしれないよ」
「だから、その前に聞く」
「誰に」
「ユリアナだ。あの女は命令の支持欄には署名しなかった。聴聞の立会人欄には署名した」
「王太女として」
「王太女として何を選ぶか、本人に決めさせる」
ユリアナが協力するとは限らない。王国の危機を理由に、命令に従うよう求めるかもしれない。
だが、その答えをリエッタが先に作る必要もなかった。
「助けて、って言うの?」
「違うなら、お前が言い直せ」
リエッタは少し考えた。
「私の拒否を、選択として扱ってほしい。そう頼む」
「それでいい」
下の列で、宮廷の灯りが一つ揺れた。リエッタはもう声を掛けなかった。
アルシアは手に持っていた鑢を差し出した。
リエッタは受け取り、柄の傷を親指で一度なぞった。先端を確かめ、腰の工具袋の平らな仕切りへ戻す。
「置いていくつもりだった」
「知っている」
「見つけてほしかったわけじゃないよ」
「それも知っている」
屋上の縁に、リエッタが置いた鞄が残っていた。
リエッタが一方の持ち手を握る。アルシアは左腕を上げず、右手でもう一方を取った。
合図はしなかった。
二人の間で傾いていた鞄が水平に戻り、石の縁を離れた。