VOLUME II CHAPTER 11
第十一章 選ぶ側
鞄は、研究室まで傾かなかった。
リエッタが一つ、アルシアが一つ、持ち手を握っていた。保守通路の狭い階段では肩が触れそうになったが、どちらも手を離さなかった。
日付が六月二十二日に変わって間もなく、サラが保全原簿を開いた。
リエッタの持出し記録は消さない。その次の行に、屋上からの返却時刻と、封紙に損傷がないことを書き足す。さらに一行空けてから、サラはペン先を止めた。
「もう一度、持っていくのね」
「うん」
「今度は、黙ってじゃない」
開いた遮断箱の中へ、鞄は戻さなかった。封紙付きの木枠が入ったまま、机の脚に触れない位置へ置く。転律珠は回らず、乾いた音も立てなかった。
向かいにはユリアナがいた。深い紫の髪を結び直す時間もなかったらしく、肩へ一筋落ちている。ノエルは閉じた扉の前に立ち、アルシアはリエッタの隣で左腕を低く保っていた。
リエッタは机上の命令書をユリアナへ向けた。「保護」に落ちた油の染みは、もう指で拭っても消えない。
「私は、今は王都へ行かない。転律珠も渡さない」
ユリアナの右小指が、掌へ折れた。
「それが返事?」
「うん。拒否だよ」
リエッタは工具袋に触れず、机上の命令書を見ていた。
「これを、私が選んだ返事として扱ってほしい」
ユリアナはすぐには答えなかった。
窓の外には宮廷部隊の灯りが並んでいる。聴聞までの執行留保は、朝になれば終わる。王太女が支持欄に署名しなくても、命令そのものは消えない。
「王国に危機が迫っていることまで、偽りだとは思わないで」
ユリアナの声は揺れなかった。
「星路の乱れは、オルフェンにいても分かる。王都から届いた報告では、天蓋の縁で小さな欠損が増えている。もし、あなたがそれを止めるために必要なら――」
「何をされるの」
言葉が止まった。
「第二鍵って、何をする人?」
「それは、王都で説明を受ければ」
「いつ帰れるの」
ユリアナの指が開いた。
「危機の内容も、私が何をされるかも、期間も、解除条件も書いてない。王都へ着いてから聞けばいい命令なら、着いてから拒否できることも書けるはずだよ」
命令書の空欄は、問いを置くたびに増えて見えた。
「危機があるなら、なおさら隠さないでほしい。知らないまま同意したことにはできない」
ユリアナは窓へ目を向けた。灯りを数えるように、一つずつ見ていく。
「あなたを行かせれば、命令への違反を助けることになる」
「残せば、拒否した人を連れていく側になる」
アルシアでも、サラでもなく、ノエルが答えた。
「本人の返事は拒否です」
ユリアナが振り返る。
ノエルは扉から動かなかった。
「命令は有効です。ですが、自発同行とは記録できません。殿下が何を選ばれても、そこは変わりません」
「私に、命令を取り消す権限はないわ」
「承知しています」
「朝になれば、部隊は動く」
「その前に出すことはできます」
ノエルは折り畳んだ書庫の防災図を机へ広げた。六つの出入口ではなく、建物の下を流れる細い青線を指す。
「旧保全階の下に、星路冷却用の水路があります。西門の外側へ抜けますが、途中の王家封印は近衛印では開きません」
指が、二つ星を記した小さな四角で止まった。
ユリアナは外套の内側へ手を入れた。取り出した王太女印は、灯りの下で淡い紫を返した。
「これを使えば、開けた者の記録が残る」
「はい。部隊もいずれ気づきます。三枚の水門を落とせば、破壊せず追うには水路管理官の回し鍵が要る。西門へ知らせが届くまでの時間は稼げます」
「あなたは?」
「殿下と残ります。追跡を遅らせた者が誰かも、記録に残します」
逃げ道ではなく、時間を借りる道だった。借りた分は、ここに残る人が支払う。
リエッタはサラを見た。
丸眼鏡の奥の目は、机の三つの紙束へ向いていた。アルバスの杖は紙束の手前にあり、二本の筒も鍵箱に残っている。
「原本は動かさないわ」
サラは言った。
「暗号書簡も個人記録も、大書庫の受領印がある。ここへ残して、押収されるなら押収された事実まで記録にする。私が同行すれば、その記録を守る人がいなくなる」
机の端には、薄い防水布で包んだ紙束が用意されていた。
「持っていくのは認証した複写。転律珠は停止、未接続のまま。原本を置いていくことと、調査を諦めることを混ぜないで」
リエッタは頷いた。
「混ぜない」
そして、まだ図面を見ているユリアナへ尋ねた。
「その道を、開けてくれる?」
ユリアナは王太女印を握った。
命令書へ押すはずだった印だった。押さなくても命令を止められず、別の場所へ押せば自分の関与だけは消せない。
「開ける」
サラは持出し記録の三行目に、複写の番号を一つずつ書いた。
転律珠の封紙と木枠を確かめ、鞄の口を閉じる。リエッタとアルシアを共同の持出者とし、最後に立会人欄に自分の名を記した。
「これで正しくなるわけじゃない」
ペンを置いて、サラは言った。
「でも、なかったことにはさせない」
リエッタは防水布に包んだ複写を、厚布の鞄の外ポケットへ収めた。アルバスの杖には触れなかった。
五人は、研究室の奥から旧保全階段を下りた。
石段は途中から湿り、壁の灯りはなくなった。ノエルの手灯りが、足元だけを細く照らす。アルシアは左腕を身体の脇に下ろしたまま、右手で鞄の持ち手を取っていた。リエッタも反対側を持つ。低い段では二人の歩幅がずれ、鞄の中で木枠が布へ沈んだ。
「次、深い」
アルシアが先に言った。
リエッタは濡れた段の縁を確かめてから降りた。
階段の底には、緑青の浮いた円形扉があった。中央の板に二つの星が刻まれ、一方の星だけに印章を受ける窪みがある。
ユリアナが王太女印を合わせた。
淡紫の光が星の角を一周する。隣の星へ短い線が走り、扉の奥で重い歯が一枚ずつ外れた。
印を離しても、窪みには同じ紋が薄く残った。
「消せないね」
リエッタが言うと、ユリアナは扉の輪へ手を掛けた。
「消さない」
ノエルと二人で輪を回す。扉が人一人ぶん開くと、冷たい水の匂いが流れ込んだ。
サラはそこで止まった。
「西門の外へ出たら、北西の街道は使わないで。宮廷部隊の早馬が先に回る」
「サラは」
「原本のそばにいる。朝の聴聞にも出るわ。移送される本人がいなくても、空欄が埋まったことにはならないもの」
サラは鞄ではなく、リエッタの顔を見た。
「次は、持ち出す前に相談しなさい」
「うん」
サラを残して、円形扉が閉じた。
地下水路は、二人が並べる幅しかなかった。右側を浅い水が走り、左側に濡れた石の足場が続く。ユリアナとノエルが前、リエッタとアルシアが鞄を挟んで後ろを進んだ。
一枚目の水門を越えた時、遠くで金属を打つ音がした。
一度。間を置いて、二度。
ノエルが振り返った。
「開扉記録が確認された合図です。急ぎます」
水音の向こうに、複数の靴音が混じり始めた。
ノエルは壁の把手を引いた。背後で格子が落ち、石を噛む音が水路を揺らす。格子の向こうから制止の声が届いた。
「王太女殿下! そこでお止まりください!」
ユリアナの足が一瞬止まる。
「殿下」
ノエルは命令せず、先の暗がりを手灯りで示した。
ユリアナは進んだ。
二枚目の水門までの足場は、途中で半分崩れていた。鞄を水平にしたままでは通れない。
アルシアが右手を離し、先に狭い縁を渡り切った。左肩は上げない。身体の向きを変え、右手をリエッタへ差し出す。
「鞄を先に」
リエッタは二つの持ち手をまとめ、木枠を壁へ当てないよう渡した。アルシアが右手で受け、向こう側の足元へ下ろす。左腕を使わないぶん動きは遅く、後ろの靴音が一つ近づいた。
持ち手を離したアルシアが、右手をもう一度差し出した。
リエッタは差し出された手を掴んだ。
濡れた靴底が石の縁で滑る。アルシアは指に力を込めたが、引き上げず、リエッタが足を置き直すまで支えた。
二人が渡り終えた直後、後方で魔法の光が格子へぶつかった。鉄が白く光り、冷えた水が蒸気になる。
「長くは持ちません」
ノエルが二枚目の門を落とした。
水路の先に、夜明け前の灰色が見えた。その手前には、西門の外へ続く最後の水門が残っていた。
最後の門は、上へ巻き上げて開く厚い鉄板でできていた。
ノエルが輪を回し、アルシアが鞄を持って先にくぐる。リエッタは水門の手前で振り返った。
ユリアナは来なかった。
王太女印を胸元へ戻し、ノエルの隣に立っている。二人がこちら側へ出れば、追手を止める者がいなくなる。
「王都へ来る理由を、一つだけ伝える」
背後の格子が、もう一度大きく鳴った。
「命紬の全記録は、王都の星環織機でしか開けない」
リエッタは頷いた。
後半の記録がそこにあることは、出る前にサラがユリアナとノエルへ伝えていた。
「だから来て、とは言わない」
「来るなら、自分の意思で」
門の内側から、兵の声が近づく。
リエッタは灰色の空と、鞄を持って待つアルシアを見た。腰の小袋には、リュネの家の鍵がある。
「今は、答えを持って帰る」
「ええ」
リエッタは水門をくぐった。
ノエルが輪を逆方向へ回す。鉄板が下り始め、ユリアナの姿を顔から順に隠していく。
「リエッタ」
名だけが、閉じる水門の向こうから届いた。