VOLUME II CHAPTER 12
第十二章 白い王女の帰路
戸口は一つ。窓は二つ。裏手の窓は、外から手の届かない高さにある。
アルシアは三度目の確認を終えて、ようやく椅子へ座った。
六月二十三日の朝だった。
オルフェンの西門を出てから、二人は北西街道を使わなかった。葡萄畑の畦を抜け、荷運びの小舟に便乗し、夜は水車小屋の裏で息を潜めた。ガルドが手配したという宿へ着いた時には、空が白み始めていた。
看板のない宿だった。一階は使われなくなった染料倉庫で、客室はその奥に一つだけある。宿主は二人を通すと表の閂を戻し、昼まで誰も入れないと言った。
厚布の鞄は、アルシアの足元に置いてある。
封紙付きの木枠に損傷はない。転律珠は停止したまま、人体にも導晶にも繋がっていない。外ポケットの認証複写も濡れていなかった。
向かいの寝台で、リエッタが白い髪を耳へ掛けた。
眠ったのは二刻ほどだ。目の下には薄い影がある。それでも笑っていないことに、アルシアは少しだけ安堵した。笑う余裕がないのではなく、今は笑わずにいてもいいと思えているように見えた。
「追手の音は?」
「ない。街道にも出ていない」
「そっか」
リエッタは腰の小袋から鍵を取り出した。掌へ載せ、古い歯の並びを親指で確かめる。リュネの家の鍵だった。
「王都へ行こうと思う」
アルシアの右手が、膝の上で止まった。
リエッタは鍵を握り込まなかった。
「王家に戻るんじゃないよ。命紬の後半と、お父さんの紙に残った秘密裁判番号を調べに、王都へ行く」
閉じる水門の向こうから届いた名が、まだ耳に残っている。来るなら自分の意思で、とユリアナは言った。
「今すぐではないな」
「うん。まず、家に帰る。研究帳の本体も、工房の起動記録も置いたままだし、王都へ持っていくものと残すものを分けたい」
リエッタは一度、息を吸った。
「それから、何をされるのか書いてもらう。調べるって言って連れていかれて、着いたら拒否できません、は嫌だから」
「当然だ」
答えた声は、思ったより硬かった。
王都の地図を、アルシアはほとんど知らない。王宮の門がいくつあるかも、近衛と魔導院の命令がどこで分かれるかも知らない。剣と魔法で防げない書面の前では、オルフェンでもリエッタの隣に立つことしかできなかった。
リエッタは言葉を挟まず、待っていた。
アルシアは袖口の留め具から指を離した。
「私は宮廷を知らない」
「うん」
「礼式も、誰の言葉が命令になるかも分からない。お前が交渉する時、私が隣にいれば、立場を悪くするかもしれない」
口にすると、恐れは刃より鈍く、重かった。
「オルフェンでは、止められた」
「屋上のこと?」
「それだけじゃない。私は、セヴランが出した命令を一行も変えられなかった」
リエッタは鍵を寝台へ置いた。
「私も変えられなかったよ」
「お前は本人だ」
「本人一人で変えられないから、記録と証人が要るんだと思う」
短い間のあと、リエッタは膝の上で指をほどいた。
「一緒に来てほしい」
アルシアは顔を上げた。
「宮廷で役に立つから、だけじゃない。私がまた、みんなを守るつもりで一人で同意しそうになったら、何を選びたいのか聞いてほしい。代わりに決めるんじゃなくて、私が決めるまで隣にいてほしい」
戸の向こうを荷車が通り過ぎた。車輪の音は近づかず、やがて石畳の先へ消えた。
アルシアは足元の鞄へ右手を置いた。
「私も行きたい」
言ってから、言い直さなかった。
リエッタの肩が、少しだけ下がった。
「じゃあ、一緒に帰ろう」
帰る先は、王都ではなかった。
二人は六月二十四日の夜に宿を出た。
街道を横切る時だけ外套の頭巾を上げ、昼は商隊の通らない古い水路沿いを進んだ。転律珠の鞄は交代で持ったが、アルシアが左手を使おうとすると、リエッタは黙って立ち止まった。左肩の鈍い痛みは消えていない。
リュネ郊外へ入った七月一日の夜、ガルドが次に指定した宿で、帳場の男は古い木札を二枚出した。
「奥の一人部屋なら、向かい合わせで二つ空いてます」
以前なら、アルシアはそこで頷いていた。
出入口が別なら、一方が見つかっても片方は逃げられる。眠りを妨げず、余計な近さも作らない。正しい理由はいくらでもあった。
アルシアは木札を取らず、リエッタを見た。
「どうしたい」
帳場の男もリエッタを見る。
リエッタは並んだ木札と、廊下の奥を見比べた。
「二人部屋はありますか」
「寝台二つのなら、一つ。窓が裏庭側ですが」
「そこがいい」
リエッタはアルシアへ向き直った。
「二人部屋がいい」
アルシアは二人部屋の木札を受け取った。
「分かった」
部屋へ入ると、寝台は壁際に一つずつあり、窓辺に小さな卓があった。アルシアが窓の掛け金を確かめるあいだ、リエッタは鞄を卓の下へ置いた。二人の流量針は、それぞれの基準位置を指していた。
灯りを消した後も、向かいの扉はなかった。
七月二日の夕方、リエッタは自分の鍵で家の扉を開けた。
油を差して出た蝶番は、細く一度だけ鳴った。食卓には三つの椅子があり、食器棚には取っ手の欠けた青縁の杯が残っていた。閉め切った部屋の匂いに、乾いた木と、使われていない炉の灰が混じっている。
「ただいま」
リエッタが言った。
誰へ向けたのか、アルシアは聞かなかった。
工房の扉と窓には、こじ開けた跡がなかった。庭の白い印には支部の封札が残り、雨除けの油布だけが新しく張り替えられていた。
裏手から足音が近づく。
アルシアが振り返るより先に、灰色の短髪が垣根越しに見えた。
「戻ったか」
ガルドは声を落としていた。大きな身体に似合わない静かさで門を閉め、二人の顔と厚布の鞄を順に見る。
「支部には商隊から先触れが来た。細かい話は聞いてない。怪我は」
「増えてない」
アルシアが答えると、ガルドは左肩を見て頷いた。
リエッタは工房の鍵を開ける前に、ガルドへ向き直った。
「私、王家の出生記録にいた第二女だった」
ガルドの左手が止まった。
一度だけ、庭の封札が風に鳴る。
「そうか」
それだけ言い、ガルドは止めた手で油布の端を押さえ直した。
「呼び方は」
「リエッタで」
「分かった、リエッタ」
ガルドは、家の周囲に二度、見慣れない靴跡があったと告げた。窓や封札への侵入はないが、ここで夜を過ごすのは避けた方がいい。前夜から泊まっているのは、リュネ郊外の染物屋が支部の調査員用に空けた離れで、そのまま使えるという。
「昼の作業は俺か支部の者が外に立つ。持ち出す物と残す物を、先に決めろ」
リエッタは頷き、工房へ入った。
木箱の乾燥剤は、出発前と同じ色を保っていた。アルバスの研究帳本体にも湿りはない。リエッタは帳面をすぐ旅荷へ入れず、台の上へ置いた。
「原本は、支部へ預けたい」
「持っていかないのか」
アルシアが尋ねる。
「王都に全部持っていって、まとめて取られる方が困るから。必要な頁は写して、原本の封印番号を持っていく」
ガルドが入口から言った。
「写しと原本を同じ馬車に載せない。それでいい」
三人は日が沈むまで作業した。
リエッタは、転律珠を二度起動した際の手順と条件、庭の白い印、オルフェンで受けた遠隔停止封を一冊にまとめた。転律珠そのものには触れず、封紙と木枠の番号だけを照合する。アルシアは防寒布、流量針の予備部品、左肩を上げず使える短い固定帯を並べ、使わない武器を荷から外した。
最後に、食卓へ白い紙を置いた。
宛先はユリアナ。差出人は、リュネの魔道具師リエッタ。
王都へ行き、星環織機にある命紬の記録と、アルバスの個人記録に付された秘密裁判番号を調べる意思があること。その意思は王家への帰還、宮廷居住、転律珠の譲渡への同意ではないこと。
本人または転律珠へ術を行う前に、目的、手順、期間、停止条件を文書で示すこと。リエッタが拒否と中止を選べること。アルシアの同行と立会いを認めること。回答を受けた後、正式な原本へ改めて署名すること。
リエッタは一行ずつ声に出した。
「足すことは?」
アルシアは紙の末尾まで読んだ。
「帰れる条件」
リエッタは空いていた一行へ、調査終了と退去の条件も事前に示すこと、と書き加えた。
その下に自分の名を書き、条件付きの受諾としてガルドへ渡した。
「返事が来るまで、正式には行かない」
「預かる」
ガルドは紙を防水筒へ入れた。
二人は家へ鍵を掛け、前夜に自分たちで選んだ隠れ宿の二人部屋へ戻った。
条件を記した紙が王都へ着いたのは、七月十四日だった。
ユリアナは星環塔の記録室でそれを開いた。
水路の開扉についての聴取は、まだ終わっていない。王太女印を使った記録も、リエッタの拒否を記した聴聞録も、消されず王都まで届いていた。
向かいに立つセヴランは、白い手袋を外さなかった。
「ご本人の意思が確認できたことを歓迎します」
「帰還の意思ではありません」
ユリアナは紙の冒頭を指で押さえた。
「星環織機と記録を調べに来る。リエッタは、そう書いています」
「ええ。ですから、そのように記録しましょう」
セヴランは用意された返書を机へ置いた。
星環織機の保管環と、アルバスに関係する登録記録の調査を許可する。アルシアの同行と記録立会いを認め、実施前に手順と停止条件を提示する。ただし星環織機に関する全調査は、宮廷魔導院長セヴランの監督下で行う。
どちらの命令を取り消すとも、書かれていなかった。
「拒否できることを明記してください」
「停止の申立ては記録されます」
「申立てではなく、本人の停止です」
ユリアナが言い切ると、セヴランは返書の一行を見た。
「その文言で、王国の安全を損なわない範囲としましょう」
完全な答えではない。だが、空欄のまま連れてくる命令よりは、問いを残せる。
ユリアナは修正された返書へ王太女の立会印を押した。セヴランがその隣へ宮廷魔導院長印を下ろす。
その時、記録室の壁際で、長く暗かった環の一部が淡紫に灯った。
環の下には、古い文字で項目が刻まれている。
〈第二鍵確認〉
ユリアナは立ち上がった。
「今、何を確認したの」
セヴランは光ではなく、自分が押した印を見ていた。
「星環織機の応答は、本人の到着後に調べます」
答えになっていなかった。
淡紫の灯は消えないまま、返書だけが西へ送られた。
七月二十六日の夜、ガルドが二人部屋の扉を三度、間を置いて一度叩いた。
アルシアが開けると、二つの封が付いた防水筒が差し出された。王太女の印と、宮廷魔導院長の印。どちらにも割れはない。
リエッタは卓の上を空けた。
返書を二人で読み、アルシアは最初にセヴランの名を見た。
「監督下、か」
「うん」
リエッタは拒否と停止に関する修正文を指で辿った。
アルシアにも、十分な条件とは思えなかった。王都へ着けば、ここにない規則を出されるかもしれない。それでも、命紬の後半は星環織機にある。父の記録をたどる手掛かりも、王都にある。
「行くのか」
「行く」
リエッタは返書に同封された正式な受諾書を引き寄せた。
「帰る場所は、ここに残したまま」
窓辺には、家の鍵が置いてある。厚布の鞄は二つの寝台の間にあり、転律珠は今も止まっていた。
リエッタは受諾書の条件をもう一度読み、自分の名を書いた。
紙を半回転させる。
証人欄には、署名が本人の意思によることと、記載された条件を二人で確認したことが書かれていた。
アルシアはペンを取った。
リエッタの名の隣で、アルシアの証人名の最後の一画が、黒く乾いていった。